思い出のパン粥
「随分と体温が高いですね。咳と鼻水も出ていますし、風でしょうか」
「すまない……ごほっごほ……」
「ああ、もう喋らないで下さい。喉に触りますから。宿の人に聞いてお医者様を呼んでこないと」
オスカーの体調が急変したのは馬車の中継地点になっている小さな町でのことだった。馬車の中で咳をしていると思ったらあっという間に熱が上がり、その日の移動は諦めてその場で宿をとったのだ。
ベッドに横たわるオスカーは高熱にうなされ、止まらぬ咳と鼻水に苦しめられていた。
リーシャは皮袋に氷と水を詰めた物を作ってオスカーの頭に乗せたが、みるみるうちに氷が溶けてあっという間にぬるくなってしまう。
(幸い手持ちの薬は沢山あるけど野営中でもないし素直にお医者様を呼んだ方がいいな。医学の知識があるわけでもないし、自己判断はよくない)
仮に体調を崩したのが野営中だったら常備薬や薬草を用いて調薬するが、ここは診療所がある町の中だ。素人判断をするよりも医者に診せるのが賢明だろうとリーシャは判断した。
「あ~、最近流行っている旅人風邪ですね。馬車の中で貰ったのでしょう」
オスカーを診た医者は開口一番そう言った。
「旅人風邪?」
「名前の通り旅人の間で流行している風邪ですよ。ここら辺を通る馬車は長距離便が多いでしょう? 狭い馬車の中で長時間一緒にいるとどうしても……ね」
「旅人が媒介者になっていると」
「ええ。おかげでこちとら休む暇もありませんよ。最近特に流行っていてね。まぁ、薬を飲んで寝ていれば治りますから。お大事に」
「ありがとうございます」
流行病で多忙らしく、医者は慌ただしく去っていった。馬車の中継地点ということもあり、この町で診察を受ける旅人が多いのだろう。
(旅人風邪か)
馬車や船などの閉鎖空間で発生する病は総じて「旅人風邪」と呼ばれる。特段珍しいわけでもない、ありふれた病である。
大体は普通の風邪なので心配はいらないが、たまに風土病や特異な病が混じっていることがある。その場合は馬車の停車場やギルドなどに注意書きが貼られるので、新しい土地へ向かう際は見逃さないようにしなければならない。
(そっか。オスカーは普通の人間だから旅人風邪にもかかるんだ。私はお守りのおかげで病気とは無縁だからなぁ)
リーシャは服の中に下げている石榴石のペンダントを指でなぞる。この魔道具のおかげで数十年間風邪一つひかない健康的な生活を続けてきた。
だからこそ、オスカーが「普通の人間」であることをつい忘れてしまう。
(ちょっと無茶をさせすぎたかな)
イオニアを出てからオスカーが本格的に体調を崩したのはこれが初めてだった。
少し調子が悪そうな時もあったが、リーシャが調薬した薬を飲めば治る程度の軽いものばかりだったので、リーシャはオスカーのことを「体が丈夫な人」だと思いこんでいたのだ。
(いや、実はそう見えないように振る舞っていただけなのかもしれない)
リーシャに心配を掛けまいと気丈に振る舞っていただけなのかも。
(だとしたら、反省しないといけないな。「心配をかけないようにしなければ」とオスカーに思わせてしまったのは私だ)
あくまでも、それはリーシャの想像であった。だが、「弱っている姿や不調を知られたくない」と思われるのは寂しい。
出会ったばかりの他人ではなく、ようやく本当の婚約者―――いずれは「家族」になる仲になったのだ。せめて自分の前だけでも安心して素を晒せるようになって欲しいと思うのは我が儘だろうか。
「とりあえず、何か食べる物を調達しないと」
床に臥しているオスカーによると、「食欲はある」とのことだったので食料を調達しに行く。宿屋の主に頼み込んで厨房を借り、消化のよい粥のような物を作ることにしたのだ。
「そういえば、花の国で貰ったレシピの中にパン粥があったような」
リーシャは「花の国」を去るときに侍女から貰った薬草袋、その中にパン粥のレシピが書かれたメモ書きが入っていることを思い出した。
オスカーの母であるローザに仕えていたステラという女性が用意したもので、汎用的な薬草と一緒に簡単なレシピ集が入れられていたのだ。
リーシャの記憶が確かならばその中の一つに「パン粥」のレシピがあるはずだ。そのレシピを見て「どこでも調達できる材料で作れる料理ばかりだな」と感心したのでよく覚えている。
「あった」
収納鞄から薬草袋を取り出して中身を確認すると、やはり「パン粥」のレシピが入っていた。
「材料は……パンと牛乳、それに砂糖と蜂蜜、薬草か。これくらいならそこら辺の店でも売ってるな」
珍しい食材ではなく、どこの国でも比較的入手しやすい食材ばかりなのがありがたい。レシピを確認したリーシャは早速生鮮食品店へ買い出しに向かった。
◆
どこからか漂ってくるほんのりとあまり香りでオスカーは目を覚ました。大分寝汗をかいたのか、寝間着がぐっしょりと濡れていて気持ちが悪い。
起きあがろうにも体が鉛のように重く、ひどく億劫だった。
「目が覚めましたか?」
ベッドの横にある椅子に腰をかけて本を読んでいたリーシャと目が合った。
「……ああ。すまない、水を貰えるか?」
「ええ。それと、随分汗をかいたようですから体を拭いて着替えましょうか」
「……うむ」
リーシャは水差しからコップに水を入れオスカーに飲ませると、寝間着を脱がせて濡れた布で体を拭き清めた。
少しでもさっぱりするように、良い香りの薬湯を作って布に染み込ませ、汗疹ができないように丁寧に清拭する。
まだ熱が下がらないのでしばらく風呂には入れない。汗の臭いが少しでも取れるようにとの配慮でもある。
「手間をかけさせてすまない……」
オスカーは申し訳なさそうに、力の籠もっていないか弱い声で謝った。
「謝らないで下さい。私がしたくてしていることですから」
「……ありがとう」
薬草のさわやかな香りがすこしばかり気分を晴らしてくれる。
(こんなに体調を崩したのはいつぶりだろうか。ああ、そうだ。リーシャと出会った時以来だな)
リーシャと初めて出会った時、オスカーは酒場で枯渇熱に苦しんでいた。魔法を使ったことがなかったオスカーにとって、逃避行中に訳も分からず使った魔道具は毒だったのだ。
慣れない旅での疲労や魔力の使いすぎによって、ついにあの場末の酒場で力尽きた。なぜ熱が出ているのかも分からず、もうこのままのたれ死ぬのかもしれないと思っていた矢先、見ず知らずの少女が手をさしのべ、命を救ってくれたのだ。
高熱でうまく働かない頭の中に当時の情景がぼんやりと浮かんでくる。
(あのときもリーシャはこうして看病をしてくれたな)
症状を把握すると手持ちの薬を飲ませ、状態が落ち着くまで側にいてくれた。異国から落ち延びたオスカーにとってそれがどんなに心強かったことか。
「よし、これで大分さっぱりしたでしょう。ご飯は食べられますか? パン粥を作ってみたのですが」
ひとしきり清拭を終えたリーシャは額に浮かんだ汗を拭うとオスカーに問いかけた。病人に障らないよう部屋を温めている上に自分より幾分も体格のよい男の体を拭くのには力がいる。
「ああ。いただこう」
「分かりました。一応柔らかく煮込んではいますが、消化が落ちていると思うのでよく噛んで食べて下さいね」
リーシャは机の上に用意していたパン粥の入った鍋から小皿に取り分けるとオスカーに手渡した。
(なんだ? どこかで嗅いだことのあるような香りがする)
粥から立ち上るほんのりと甘い、優しい香りに記憶が刺激される。どこかで嗅いだことのあるよう―――だが、それがどこで嗅いだものなのか思い出せない。
牛の乳と蜂蜜と砂糖で時間をかけて煮込まれたパンはスプーンで簡単に解せるほど柔らかい。もんもんとした気持ちのままパンを一かけ掬い口に運ぶと、オスカーの頭の中にある思い出が蘇った。
(あれは確か、俺がまだ幼かった頃のこ―――。流行病にかかって高熱を出した時のことだ)
オスカーが4つか5つの頃、イオニアでは流行病が蔓延していた。命を落とす者は少ないが高熱が長く続くのが特徴で、王宮内でも病に倒れる者が多く出た。
幼かったオスカーも兄から病を移され、何日も高熱にうなされ食を受け付けないことがあった。
(そんな時だ。母上がこのパン粥を持ってきたのは)
「食欲がない」と食を遠ざける息子のために、王妃は「特別なパン粥」を運んできた。水を飲むのも一苦労だったオスカーはそのパン粥を口に含んだ途端、二口、三口と食べ進め始めたのだった。
(不思議な味だった。熱で疲労した体に染み渡るような、何もかもを拒絶していた体が不思議と受け入れるような、不思議な味。
ほかの物は食べられなかったが、なぜかあのパン粥だけは喉を通ったのだ。このパン粥はあの時のパン粥と同じ味がする)
ゆっくりと繰り返しパン粥を口に運ぶオスカーを見て、リーシャは安堵の表情を浮かべた。風邪を治すには体力が必要だ。体力を養うためには食事をとらなければならない。食欲があるのならば、そのうち熱も下がるだろう。
「リーシャ、このパン粥は一体どうしたんだ?」
「どうしたとは?」
「俺の勘違いかもしれないが、昔風邪をひいたときに母上が食べさせてくれたパン粥と同じ味がするのだ」
オスカーの言葉を聞いたリーシャは少し考えた後、「ああ」と何か納得のいったようなそぶりをみせた。
「これはフロリアでステラさんから頂いたレシピを元に作ったんです」
「ステラ?」
「ほら、オスカーのお母様の侍女をされていた」
「……そういえばそんな話をしていたな」
「フロリアを発つ前に餞別を頂いて、このパン粥はその中に入っていたレシピの一つなんですよ。きっと王妃様もステラさんからこのパン粥を習ったのではないでしょうか」
「母上が? つまり、あのパン粥は母上が作った物だったのか?」
「どういう意味ですか?」
「いや、王宮での食事は料理人が作るものだと決まっているからてっきり……」
(そういえば、母上は「特別なパン粥」だと言っていたな)
王妃はいつも誰もいない時を見計らって人目を避けるようにしてパン粥を持ってきた。
『これは特別なパン粥です。私とオスカーだけの秘密ですよ?』
悪戯っぽくほほえみ口元に人差し指を当てる母の姿を見て、「特別なパン粥」が一層おいしく感じたものだ。
だが、それが本当に「特別」なパン粥だったとしたら。
王宮で王族は料理をしない。食べるものは全て調理場にいる料理人が作るものだと決まっているからだ。だからこそオスカーはそれが「母が作った手料理」であるとは微塵も思わなかった。
王妃という立場にある人間が調理場に入り腕を振るうなどあり得ないことだからだ。
「もちろん、王妃様が作ったとは限りませんよ。王妃様が料理人にレシピを伝えて作らせたのかも」
「……うむ、そうだな」
「でも、故郷の料理を病床の息子に振る舞うのには何か意味があったのではないでしょうか」
粥を口に運んでいたオスカーの手が止まる。
王妃がなぜ、イオニアの料理ではなくフロリアの料理を振る舞ったのか。今まで深く考えたことはなかった―――
「母上は、フロリアのことを一切口にしない方だった」
少しずつ、記憶を辿って思い出す。
「魔法を使える国で生まれ、母自身魔法を使って生きてきたはずなのに、俺は母上が魔法を使っているのを一度も見たことがないんだ。
イオニアにいた頃は『なぜだろう』という疑問すら抱かなかった。魔法をいうものをこの目で見たことがなかったし、フロリアという国についても『母の故郷』であるということしか知らなかったからだ。
だが、実際にあの国に行ってよく分かったよ。母上は花の国が、故郷が嫌いなのだと。
若い頃に行ったときはよく分からなかったが、恐ろしい国だ。
だから故郷の話は一切しないし、手紙のやりとりも最低限の付き合いに留めているのだと」
「では、なぜそんな酷い国の料理を息子に与えたのでしょう」
「どんなに酷くて恐ろしい国であっても、そこが母上の故郷であることには代わりがないから―――と俺は思う。
きっと、母上も幼い頃に侍女が作ったあのパン粥を食べたのだろう。そのときの事を覚えていたのではないだろうか」
「忘れたい、思い出したくないような国であっても忘れられない思い出や温かい記憶はある。王妃様にとってパン粥はそういう特別な物だったのかもしれませんね」
「特別……」
「王妃様なりの愛、だったのではないでしょうか」
「愛、か」
オスカーは「賢者の学び舎」でリーシャの手料理を口にしたとき、胸の中が幸福感でいっぱいになった。初めて愛する人が作った手料理を食べて感動したからだ。
自分のために献立を考え、手間暇掛けて調理をしてくれる。そんな姿に愛情を感じたのだ。
オスカーにとって「手料理」とは特別な物だった。この場合の「手料理」とはただの手料理ではない。家族が作る「家庭料理」のことを指す。
幼い頃から料理人が調理した食べ物ばかりを食べいたオスカーにとって、「母が作る手料理」は夢幻のようなものだった。
そう思いこんでいた。
(もしもあのパン粥が母上の手料理だったとしたら……)
王妃はオスカーのために周囲に内緒で調理したのだろうか。古い慣習が残るイオニアでは王族が調理場に入るなど許されないことだ。ましてや、魔法を使う国の料理など言語道断だろう。
だから王妃はあのとき、「秘密だ」と言い含めたのではないだろうか。
そんなことを思案しているとリーシャがぷっと吹き出した。
「そんな難しい顔をしていないで、次に王妃様に会ったときに直接聞いてみれば良いのでは? 親子なんですから」
「あ、ああ。そうだな」
オスカーは眉間によった皺を指でほぐすと手のひらの中にある器から一匙パン粥を掬い取って口に運ぶ。
(俺は知らないところで母上に愛されていたのかもしれない)
口の中に広がる甘く優しい味が、今までのほろ苦い思い出を打ち消してくれるような気がした。




