【第九夜】 夢枕
死者が夢枕に立つなどというが、祖父は本当に立っていた。
寝ている私の頭の横に。
あれは高校生の時。
ある夏の夜だった。
クーラーを入れるほどの暑さでもなく、窓を開けておけばそれなりの涼風が部屋の中の空気をかき混ぜていく。
暑苦しいはずもない。それなのに、なぜかその夜は寝付きが悪かった。しばらくベッドの上でゴロゴロと丸まっていたがまるで寝付けない。仕方がないのでスマートフォンで動画を観たり、漫画を読んだりしていた。
そんなことをしているうちに、いつの間にか寝落ちしてしまったのだと思う。
ふと気が付くと、カーテン越しに部屋の中に空の明るさがしのんでいた。うっすらと夜が明け始めたらしい。夏の朝は早い。
──ベッドの横に誰かが立っていた。
眠っていても部屋のドアが開けられるとパッと目が覚めるのに、横に立たれるまで分からなかったなんて……。
父か母か兄か。こんな早朝になんの用だ?
開いた窓からの侵入者かもしれないという疑念は、なぜだか一切持たなかった。
ただただ不可解な思いで、つつっと顔を見上げる。
立っていたのは私が幼稚園のときに亡くなった祖父だった。
その瞬間に、これは夢だと思った。夢の中で目が覚めた夢を見ているのだと。
見ず知らずの他人が立っているわけでもない。
十年以上昔に亡くなった祖父が立っていても恐ろしさはなかった。それどころか懐かしさを覚える。
「おじいちゃんだ……」
そう思った。
祖父は普通の会社員だった。それなのにお坊さんが纏う、紫色の法衣と金色の袈裟を身につけていた。髪が薄かった頭の上にも、なにやら金色の冠のようなものを載せている。いや、先の尖った帽子だったかもしれない。
祖父の足元に視線をやると、脛から下は揺らぐように消えていた。ご丁寧なことに法衣の裾も、足と同様に空気に溶けるようにして消えている。
しばらくは祖父の顔を眺めていた。深い皺のある顔も、薄い頭髪も亡くなったときそのままのようだ。
祖父は私を見下ろすでもなく、じっと正面を向いていた。
厳格な祖父だった。亡くなるまでずっと臥せっていたので遊んでもらった記憶はないし、笑った顔もあまり見たことがない。ただ、私がふざけてじゃれ付いたときに、祖父の身体に障るからといってやめさせようとした父に、「このままでいい」と言った威圧感のある声だけはよく覚えている。
祖父はそのままじっと正面を向いたままで言った。
「ケツアツ」
けつあつ? ……血圧かな?
私は声に出してはいなかったが、祖父はゆっくりと頷いた。
「武彦の血圧に気を付けてやれ」
武彦というのは父だ。
「わかった」
祖父にそう返事をすると、私はまたすうっと寝入ってしまった。次に目が覚めたときにはもう朝陽が昇り、カーテンの外はすっかり明るくなっていた。もちろん枕元に祖父がそのまま立っているはずもない。
「おじいちゃんが夢に出てきたんだよね。紫色の法衣に金色の袈裟を着てた」
朝食の席で父と母に今朝の夢の話をする。兄はまだ寝ていた。
「へえ。紫色かぁ。親父も偉くなったもんだなぁ」と父。
聞けば紫色の法衣は、階級の高い僧侶が身に付けられる色だという。
「お義父さんはなんで出てきたのかしらね?」
父と母は夢の話だからね、と云うように軽く笑って言った。
「ああ、なんか父さんの血圧に気を付けろってさ」
すると父と母の箸を持つ手がピタリと止まった。お互いに顔を見合わせている。
「なに? どうしたの?」
私の質問には答えずに、父は質問を返してきた。
「お前、おれの健康診断の結果を見たのか?」
「なにそれ? そんなの受けてたの?」
「ちょっと待ってろ」
そう言った父は持ってきた健康診断の結果をテーブルに広げた。血圧の数値が高くて要観察の赤い文字が記されていた。
今度は三人で顔を見合せた。
「とりあえず……減塩からだな」
塩辛く濃い味の大好きな父は残念そうに、それでもどこか嬉しそうに笑った。
2025年版『誰かのはなし』です。
数話を追加していきます。
読んでくださってありがとうございます。