【第十一夜】 還りたい
どういう理由なのかわからないが、十歳のころまでは「ここではないどこかへ帰りたい」という想いが、ふと湧いてくることがあった。
上手く説明はできない。それはなにをしていても、突然にやってくる不思議な気持ちだった。
帰りたいとはいっても家族がいる家ではない。どこへ帰りたいと思っているのかも、自分ではよくわからなかった。
馬車に乗ったこともなければ馭者台に乗ったこともない。ましてや石畳を馬車で走ったこともない。
それなのに妙にリアルな夢を見たのは、七歳か八歳のとき。
夢の中の女性は私だった。年は二十歳前後だろうか。
風景や服装や肌や髪の色からして、場所はヨーロッパのどこかの国だと思われた。
石造りの納屋の中にいた。石の壁には松明をくべる石の台があり、赤黒くて頼りない火が燃えていた。火の後ろ側の壁は黒く煤けていた。
納屋の中は灰暗い。
そこで私が会っているのは恋人の男だった。甘い密会などではなく、街から今すぐに逃げろと説得されていた。男は憲兵に追われていた。街にはもうすぐ大変なことが起こる、すぐにも男との繋がりをたどられて、私にも危害が及ぶ。そんな理由だった。
とても緊迫している状況だということは理解できたが「あなたも母親も置いてはいけない」と、私は必死に訴えていた。男は「あとから必ず追いかける」と約束をしてくれたが、男も私も、それが無理なことだと理解していた。ここで別れたら、おそらく二度と会えはしないだろう。
それでも男は私を残して納屋を出ていく。
私は夜の街を、必死で馬車を走らせて母親を迎えに行った。馬車とは云っても、荷台を一頭の馬が牽いているような簡素な作りのものだ。
馭者台から見ているのは、小さなランプにぼんやりと照らされた石畳の道が流れていく光景。身体に響くガタガタとした振動も感じた。
「お母さん!」
家の粗末な木戸を開け放ち母親を呼ぶ。
暗い家の中には誰もいなかった。椅子やテーブルは倒されていて、母親の身に何かが起こったことだけはわかる。パニックになりながらも、「お母さん! お母さん!」と叫んだ。
家の中も、外までも狂ったように母親を探し回ったがどこにも見つからない。
……遅かったのだ、連れて行かれてしまったのだと悟った。
私は号泣し、絶望しながら馬車を走らせた。
街を抜けるために、暗い森の道を目指していた──。
そこで目が覚めた。
心臓の鼓動は強く、早く打っていた。わけの分からない夢のはずなのに、胸が潰れるようなとても哀しい気持ちだけはそのままに残っていた。
その夢と「どこかへ帰りたい」という気持ちは、ある匂いで結びついていた。
酸化したオイルのような臭いのする、父の整髪料の香りだ。
なぜだかその香りを嗅ぐと、夢と気持ちがセットのように組み合わされてよみがえってくる。不思議な気持ちと、なにか言いようのない気持ちの悪さを覚えたものだ。
歳を経るにつれて「どこかへ帰りたい」という気持ちは次第に薄れていった。あの香りを嗅ぐことも、もうない。
当時は言葉を知らなかった。今にして思うと「帰りたい」と願うあの気持ちは、郷愁に近いものではないだろうか。
だとすると……夢は私の前世?
なんて。
流行りのライトノベルのようなことを想像してしまう。