【第十夜】 影
ファミリー向けのマンションの間取りはどこもたいてい同じようなものだ。
うちもリビングから玄関まではドアを隔ててはいるものの、廊下から一直線に繋がっている。
リビングのドアを開けていると、リビングからでも玄関のドアスコープが見える。
陽が落ちて暗くなると、外の共用廊下のオレンジ色のLEDライトが点灯する。明かり取りの窓のない暗い玄関では、ドアスコープからのぞく共用廊下の明かりは、小さな太陽のような点となっていた。
マンションの狭いエレベーターの壁には、管理会社からのお知らせや注意書きの紙がベタベタと貼られており、見映えはよくない。
最近に張り出された注意書きには「イタズラでエレベーターの昇降ボタンを押さないでください」とあった。
マンションの理事会で問題になり、注意書きが出されたらしい。持ち回りの当番として今年の理事会役員の副理事になった、隣室の鈴木さんが言っていたことを思い出す。
「誰も待っていない階に止まるの。一回や二回だったら、たまたまボタンを押したけど階段を使ったとか考えられるでしょう? だけどそうじゃなくて……。高層階でも頻繁にそういうことがあってね。管理会社のほうにエレベーターがおかしい、故障じゃないかって。住民から電話があるんだって」
そうは云っても、毎月必ずエレベーターの点検は専門の業者が行っている。故障ということはないらしい。
理事会では結果的にピンポンダッシュのようなイタズラではないか? との見解で一致したとのこと。
あまり気にしてはいなかったが、誰もいない階に止まることはたまにある。
その日の夕方もパートから疲れて帰ってきた。スーパーで買った食材の入ったエコバックを肩にかけて、エレベーターの階層ボタンを押す。
すると次の階で止まった。ドアが開くものの誰も立ってはいない。開閉ボタンを押してドアを閉じる。次の階でまた止まる。誰も立っていない──。結果的に部屋の階に止まるまでその繰り返しだった。
注意書きも貼られているのに効果はないようだ。それにしても、ずいぶんと手の込んだイタズラをすると呆れた。一階で人が乗ったことを確認して、階段を使って先回りしているのだろうか? 階段をダッシュで昇るのも降りるのも大変だろうに──。
そこまで考えて……いや、これは故障なのでは? と思い直す。イタズラとしてはいくらなんでもおかしすぎる……。
次の日の朝に管理会社に電話をした。担当者からは調べますとの返事をもらった。
後日にエントランスで理事会が開かれていた。そのあとはぴたりとエレベーターのおかしな挙動はおさまった。
隣室の鈴木さんに会ったときに話を聴いた。
「実はエレベーターの中にお札を貼った」のだという。
お札は地元の神社でいただいてきたとのこと。
エレベーターの背面にある鏡の下には、観音開きの扉がある。普段は鍵をかけているが、緊急時にはそこを開けばストレッチャーを運ぶことができる空間がある。そこにお札を貼ったそうだ。
「それからは管理会社に電話はないのよね……」
鈴木さんは気味が悪そうに呟いた。
しばらくすると今度は、エレベーターにこんな注意書きが貼り出された。
「誤解を招くような深夜の外廊下の歩行はご遠慮ください」
夜中の12時を回ったころに、朝のお弁当の準備も終わった。トイレに行ってから寝ようとリビングの扉を開ける。そこで玄関に違和感を覚えた。
……ドアスコープからの灯りが見えない。
外廊下のオレンジ色のライトが遮られているのだ。
「深夜の外廊下の歩行はご遠慮ください」
エレベーターの注意書きが思い出された。
チェーンと鍵を目視で確認してから、慌ててインターホンのカメラで玄関前を確認する。
誰も立ってはいなかった。
ごくりと唾を飲み込む。
ただ……ドアスコープに虫が張りついているだけなのかもしれない……。
神社でいただいてきたお札を玄関扉の内側に貼った。家族は不思議そうに「なにこれ?」と笑った。
夜は、玄関を見ないようにしている。