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続 鹿谷村に小雪舞う

作者: ここのすけ

鷹山市の駅裏にあるホテルの一室で下半身血まみれの男が救急車によって搬送された。病院の一室で警察官から事情聴取を受けた男は自称会社員、野田誠四十歳と名乗るもホテルで同伴していた女については口を閉じたままだった。男の性器は切り取られていた。ホテルの防犯ビデオには男と入って来るマスク姿の女の姿が映しだされていた。入室後一時間女が一人でホテルを出る姿も映っていた。

二週間後鷹山市豊川町の郊外団地。一軒の住宅の前に捜査用車両二台と医者の車、それに葬儀社の車が止まっていた。

首を吊って死んでいたのは、あの性器を切り取られた男だった。男を発見したのは同僚の教師二人だった。鷹山警察署の木庭刑事が発見時の状況、男との関係を聴取していた。

「彼は教員だったのですか・・」若い教師の一人がその質問に答えていた。

「そうです。豊川中学校の教師です。病気で十日程休むと電話連絡して来た後、その後連絡がないので私達二人が校長の指示で様子を見に来て・・」

「玄関のドアにカギは掛かってなかったのですか」「いえ。インターホンを鳴らしても応答がないので、裏口のドアを開けて見ると開いたので家の中に入って見たのです」

「それで死んでいる先生を発見したと・・」「はい。階段の手すりのポールに紐を掛けて・・」

「死んでいたのは野田先生に間違いありませんか・・」「はい。野田先生に間違いありません」

「その野田先生ですが、学校で何か悩まれていた様な様子はありませんでしたか」

「真面目な先生で父兄との関係も良好で問題となるような事は聞いた事はありません。ただ頭の毛が薄いので結婚してくれる相手が見つからないとこぼしていました」

「それでは野田先生は独身だったのですね。他に家族は居なかったと・・」

「何処の生まれかは知りませんが、田舎に両親がいるとは聞いています」

「ご協力ありがとうございました。また何かあればご協力をお願いしますよ」

 木庭刑事は質問を打ち切り家の中に入った。

 部屋の中では横たえられた死者の検視が医師立ち合いのもとに行われていた。

「死後二日と言う処でしょう・・治療を受けた性器以外には外傷はありませんね」

 鑑識課員の説明に医師が合図地を打った。側で鈴木警部が検視に立ち会っていた。

 部屋の中を検分していた同僚刑事の柴田が木庭の裾を引いた。

「これを見て見ろ・・」柴田はスマホ携帯電話の中に収録されている写真を木庭に見せた。

 そこに映っていたのは女学生達の下半身を盗撮した写真の数々だった。その写真を元に戻してゆくと三人の女子中学生と一緒に映った写真があった。日付けを見ると三年前の写真だと分かった。

 他には顔が映った写真はなかった。


 山蔭玲は狭いアパートの二階の部屋で長い黒髪をかき上げ教科書とノートを閉じた。爆音を鳴らして走って来た二輪車がアパートの前で止まっていた。窓から覗くと三台のバイクの一台の後部座席に同級生の石田麻衣がまたがって乗っていた。時計を見た。午前零時を回っていた。居酒屋に勤める母はまだ帰って来ない。玲はアパートの階段を下りて行った。

「昨日は恥をかかせてくれたわね。土下座をして謝れば許してあげるわよ」

赤いジャンパーの茶髪の石田蘭が赤い口紅の口を歪めて玲に言った。玲の周りを三人の悪ガキが取り巻いている。「何を謝れと言うの。先に手を挙げたのは貴女の方なのに・・」

玲達が居るのは玲のアパートからほど近い公園の中だった。月のない暗闇の中、一つの防犯街灯だけが公園の中に薄明かりを照らしている。

 前日の昼休み。玲が通う公立高校の廊下で玲は同級生の石田蘭から絡まれていた。玲は学年で一二位を争う秀才である。その反面石田蘭は落ちこぼれに等しい学生だった。

「山蔭玲。勉強が少しばかりできるからってお高く留まっているんじゃないよ。山育ちの貧乏人の癖に・・」玲は笑顔で石田蘭の挑発をさけた。多くの同級生が二人を見ていた。

「何とか言いなよ・・」石田蘭の腕が玲の襟元に伸びた。その瞬間石田麻衣の体が宙に浮き尻から廊下に落ちた。「痛っ・・」石田蘭は何が起こったのか分からなかった。何食わぬ顔で立っている玲を見上げた。多くの同級生達が自分を見つめている事に気ずき麻衣は慌てて立ち上がり廊下を駆けた。

 玲は小学生の頃いじめに合い、母の言い付けで、近くの合気道道場に通い腕を磨いていた。その腕前は見ての通りだった。多くの同級生達がその技の早さ切れ味に驚きを隠さなかった。

その夜の事である

「そう・・なら少し痛い目にあいなさいよ。やって・・」麻衣の一言に麻衣を後部座席に乗せていた大柄の茶髪の若者が前に出た。玲は半身に構えて防御の姿勢をとった。

―ドンー大柄の若者が玲の前によろめいてきた。背中を蹴られた若者が振り向くと側頭部を押さえてうずくまった。黒い影が後の二人に襲い掛かった。バシッバシッと何かで叩く音が聞こえて二人の若者が側頭部、耳の辺りを押さえてうずくまった。

「殺すぞ・・」低いが若い声が若者達の上に落ちた。僅か数秒の出来事だった。「帰れ・・」

また低い声が玲の後ろから若者達の上に落ちた。起き上がった若者三人がバイクにまたがりエンジン音を響かせ逃げて行った。玲が後ろを振り向いた時その影は消えていた。

「あの男はあんたの何よ・・」青ざめた顔の石田蘭が玲に尋ねた。玲は首を傾げた。

「私も知らないよ・・でも私の敵ではないことは確かね。欄置いてきぼりにされたわね。歩いて帰る事になった・・送って行こうか・・」

 玲の言葉に欄はうつ向いた。黒い影の恐怖が舞の心を覆っていた。

「明るい通りまで送って行くよ・・」玲は先に立って歩き出した。その後ろを麻衣が黙って着いて来た。公園の植え込みの陰で黒い影が見つめていた。

 街灯の明かりが続く表通りに出ると直ぐに路地から出て来た二人の青年から声を掛けられた。二人の手には懐中電灯が握られている。

「高校生だろう。深夜徘徊は駄目だよ・・」側にやって来る二人に玲は身構えた。

「心配はいらないよ。鷹山警察署の者だよ」長身短髪の男が腰を叩いて見せた。木庭刑事だった。腰に特殊警棒と手錠ケースが見えた。玲は警戒を解いた。

「若い女の子が二人こんな夜中に何処に行くんだ」もう一人のがっしりとした体格のオールバックの青年が尋ねた。柴田刑事だ。

「私の家で勉強していた友達を家まで送って行くところです」玲が答えた。

「君の家は何処だい・・」柴田が尋ねると玲の後ろにいた欄が小さな声で「富町です・・」と答えた。日頃の威勢のいい石田蘭ではなかった。「君は・・」玲に顔を向けられ「中町です」と玲は答え「近いので直ぐに帰ります」と付け加えた。「そうだな。君は直ぐに帰りなさい。もう一人の君は送って行こう」私服の警察官のその言葉を聞くと玲は「さようなら」と一言。踵を返して走り出した。木庭と柴田は顔を見合わせ笑って玲を見送り「行こうか」と石田蘭を促し歩き出した。


 翌朝鷹山警察署の刑事部屋では鈴木警部が夜景組などから報告を受けていた。

「警部。今日はまだ忍び込みの被害届は出ていません。昨夜は闇夜で奴は必ず現れると思ったのですが・・。ここ二か月。曇天暗闇、闇夜には必ず現れていた奴が昨夜に限り現れなかったと言う事は何か仕事を断念する出来事があったと・・」

「奴に張り込み夜警を気ずかれたか・・まあ次の闇夜まで待ってみよう」

 報告していた木庭刑事を席に返すと鈴木警部は次の組を呼んだ。

「どうだ。学校で何か聞き込みが出来たか・・」鈴木警部が尋ねた。

「はい。これが役に立つかどうかは分かりませんが、三週間程前に野田先生のスマホがなくなり、先生は相当慌てて探していたと体育の先生が教えてくれました。スマホはなくなって二日後に職員室の自分の机引き出しから見つかった様だとその先生は笑っていました」

「三週間と言えばホテルの件の少し前と言うことか・・分かった。ご苦労様」若い女性捜査員を帰して鈴木警部は次の組を呼んだ。「スマホの通話記録はどうなった・・」

「あの電話の発信場所は鷹山駅前の公衆電話ボックスからのもので野田が死亡する前日に掛けられたものと判明しました。駅前の公衆電話ボックスは防犯ビデオから僅かに外れており、通話時間帯に付近を通行した者は、学校の下校時間と重なり多くは高校生でした。ですので電話を掛けた者の特定は無理でした」「そうか・・無理か・・あの電話が野田の自殺に関係あるのか知りたかったのだが」

 鈴木警部は捜査員を席に戻し机の上の冷めたお茶を飲み干した。その日以降闇の忍び込み事件は影を潜めてしまった。


 年を越えて半年後、ここ鹿谷村の高峰家に四十がらみの色白の女が尋ねて来た。

 高峰の家を継いだ幸一こと剛造は、滅多に製材工場の会社には出社することはなく家にいた。

「ごめん下さい。剛造様は御在宅ですか・・」応対に出た剛造の顔をしげしげと眺め「あの・・剛造様は・・」と再度尋ねた。

「麻紀さん久し振りだな。元気だったかい」名前を呼ばれて山蔭麻紀は、またしげしげと剛造の顔を見た。「あの・・何故私の名前を御存じで・・」「麻紀さん私だよ。ほら貴女の旦那岩夫さんの仕事の邪魔をしていた。貴女の手作り弁当を食べさせて貰った幸一だよ。知恵遅れの谷田の幸一だよ」

「えっ。あの幸一さん・・。でも何故・・」「驚くのも無理はないよ。私だってまだ高峰の剛造になり切ってはいないのだから。まあ上がりなさい。募る話はそれからにしよう」

 幸一こと剛造に促され応接間に通された麻紀は革張りのソファーに腰を下ろした。

「麻紀さん。ちょっと待ってくれ。娘が会社に出ているので俺がお茶を入れるから・・」

「えっ。娘さん・・何時の間に・・よろしかったら私がお茶を入れましょうか」

「そうしてくれると有難い。キッチンではない・・台所に来てくれ」剛造は笑って麻紀をキッチンに案内した。麻紀がお茶を入れるのを待って剛造は再び応接間に戻った。

「早いものだ。岩夫さんが屋根から落ちて亡くなり十数年になるだろう」

「はい。十六年になります・・」「そうか・・十六年か・・その間麻紀さんは随分と苦労をしただろう。そう言えば子供さんがいた筈だが・・あの時一歳位だったから今は十七八歳になっているだろう。今は高校生かな。学費も馬鹿にならないだろう。困った事があれば私に言って貰いたい。あの麻紀さんの握ったむすびは美味かった。あの頃の恩は死ぬまで忘れないよ」

「そんな恩だなんて。岩夫も手伝って貰って大変助かっていたのよ。岩夫は何時も話していたのよ。

幸一さんは馬鹿じゃない。どもるけど言っている事に間違いはないし正直だと・・」

「そうか・・若かった岩夫さんは私の理解者だった・・有難い事だ。もっと長生きしてくれていたら恩返しが出来たのに・・」

 剛造がしみじみと言うのを避ける様に麻紀は話を元に戻した。

「何故幸一さんが剛造さんになったのか。私は不思議で仕方ありません。未だに信じられません」

「それではお話しますよ。私は生まれて直ぐに高熱を発して、そのせいで発育が遅れてしまった。高峰家の将来を案じた父親が一年先に生まれていた使用人の谷田の息子幸一と私を交換してしまった。

依頼私は谷田の息子幸一として育った訳だ。私が実家の高峰家に帰るには紆余曲折があった事は言うまでもない。その件については貴女に会ってもらいたい人がいる。私の腹違いの弟だ。会って見るかい」「私がその人と会って何かが変わるのでしょうか」

「麻紀さんは神林の美祢さんを覚えているかい」「神林の美祢さんと言えば、あの千里眼と言われたお婆さん・・」「その神林の美祢さんが腹違いの弟の母親だよ。今の私が居るのはその美祢さんの御蔭なんだよ。どもりも治っているだろう。読み書きも全て美祢さんから教わった。私のもう一人の母親と言って良いだろう」「その美祢さんの子供は・・」「そうその子だが生まれて間なしに養子に出されてしまった。その腹違いの弟を何とか呼び戻す事に成功して、今は廃れた神林の家に移り住んでいる。名を秋葉健介と言う。その弟と会わせたい。弟は本県の本部に居た元刑事なんだよ。何かと力になると思うのだが。どうかな・・」「元刑事さん・・」麻紀がコクリと頷いた。

 剛造が買って間もないスマホで秋葉健介を呼び出した。


 丘陵地の高台にある高峰家に一台の軽四輪トラックが坂道を登ってやってきた。

 来意を告げる事無く応接間に入って来た秋葉健介はソファーから立ち上がった麻紀に顔を向けると「いらっしゃい」と笑顔で挨拶すると、差し向かいでソファーに座っている剛造に向かって「兄さん。いい人が見つかったのか」とソファーに腰を下ろした。

「健介早とちりはしないでくれ。この人は昔私が恩を受けた人だよ。十数年振りに尋ねて来てくれたので、是非ともお前に会っておいて欲しいと呼んだのさ」

「山蔭麻紀と申します。突然高峰家を訪問しました処、昔主人がお世話になった幸一さん・・ではなく剛造様にお会いし、たいそう驚いた次第です」

「それは驚かれて当然です。誰だってあの着た切り雀の薄汚れた幸一が突然高峰剛造に変身してしまったのですからね」秋葉が笑って言うと麻紀も微笑んだ。

「おいおい今日は私の事を話すために呼んだのではないよ。まだ麻紀さんの来訪の訳を聞いていないので、お前も一緒に聞いて貰いたいと思ったからだよ。麻紀さんが前の剛造に会いに来るとは余程の訳があると踏んだのでね」

「そう言う訳か。麻紀さん一つ聞いてもいいかい」秋葉はソファーに腰を下ろした麻紀に顔を向けた。

「はい。何を答えれば良いのでしょう・・」「麻紀さんの家族とこの兄の事だよ。取り調べではないので、何でも遠慮なく話してくれ」

「そうですか・・何から話せば良いのでしょう・・」

「それでは麻紀さんとご主人の話から聞かせてください」秋葉はそう言うと立ってキッチンに行き出がらしのお茶を入れた茶碗を持っつて帰って来た。片方のてに灰皿を持っている。

「悪いがタバコを吸わせてもらうよ。昔からの癖でね」ポケットからタバコを取り出し一本口に銜えて火を点けた。

「私は県境の山の中で四人姉妹の末っ子として育ちました。父が山蔭の父とどう知り合ったのか知りませんが、父親同士の話し合いで主人の岩夫との結婚が決まったのです。私の家も山蔭の家も裕福な家ではありませんでした。ですから私も主人の岩夫も中学校しか出ておりません。主人の岩夫は優しい人で真面目な人でした」

「ちょっと待ってくれ。真面目な人でしたと言うことは、ご主人はもう・・」

「そうです。十六年前に屋根ふきの仕事中に屋根から落ちて亡くなりました」

「それは・・悪い事を聞いてしまったようだ・・」

「いえ。もう昔の話ですから気にしないで聞いてください。主人はこの高峰家の山仕事や農作業の仕事もさせていただいておりました。他にも石垣積や土木作業等いろいろな仕事をしておりました。其ころ幸一さん・・ではない剛造様と知り合ったのです。山蔭の義父も井戸掃除の途中側壁の石が崩れ石の下敷きになって主人より先に亡くなり義母はそれよりずっと先に亡くなっておりました。主人の岩夫は二十六歳の若さでこの世を去りましたが、私には生後一年の娘がおりました。このままこの村での生活は出来ないと高峰様にお願いして小屋の様な家を買い取って貰いました。それから私は子供を連れて姉達の処を転々と回って子供を育てました。色々苦労は御座いましたが今は居酒屋に勤め何とか暮らしております」

「それでは再婚はしなかったと・・」「はい子育てと日々の暮らしに追われ再婚など考えもしませんでした」「それは何と・・」秋葉は二本目のタバコに火を点けた。

「健介もう良いだろう。麻紀さんの苦労は聞かなくても分かる。それより麻紀さんの来意を聞かせて貰おう。麻紀さん話してくれるかい」剛造がタバコをくわえた秋葉から麻紀に話を向けた。

「はい・・実は・・」口ごもる麻紀に剛造は優しい目を向け「大丈夫だよ。麻紀さん話してごらんなさい。私からも麻紀さんにお願いする事が出来た様だ・・」

「えっ・・それでは・・お話します。私の娘の事なのですが・・私が言うのも何なのですが・・今娘は鷹山の公立高校に通っていますが・・トンビがタカを生んだと言いますか学年一二を争う子供でして先生方から医科大学進学を進められているのです・・」

「ほう・・医科大学をな・・それで・・」「それで不躾なお願いですが資金援助をお願い出来ないものかと・・他に頼る処がないものですから、こうしてお願いに参った次第です」

「そんな娘に育ったのか・・あの麻紀さんの背に背負われていた子がな・・可愛い子だった・・」

 天井を仰ぎ感慨に耽る剛造に秋葉が口を開いた。

「兄さん。資金を援助してあげなさいよ。これも何かの縁ではないですか・・それに兄さんのお願いにも関係した話ではないのですか・・」秋葉の目元が笑っていた。

「この千里眼が。私の心を読んでいたのか・・」怒った仕草を見せた剛造だったが、直ぐに顔を改め麻紀に告げた。「いいよ麻紀さん。進学その後の費用も全て見させてもらうよ」

 それを聞いた麻紀の目に涙が溢れた。「本当に資金を出して下さる・・」

「私がそう決めたのだから心配はいらないよ麻紀さん。亡き岩夫さんも喜んでくれると思うよ」

 麻紀が声を上げて泣き出した。

 麻紀が泣き止むのを待って秋葉が剛造に早く言えと顎をしゃくった。それを見た剛造は口を開いた。「麻紀さん。今度は此方からのお願いがあるのだけれど・・」

 ハンカチで涙を拭った麻紀が赤い目を剛造に向けた。

「剛造様私に願いとは・・何なりと言って下さい。どんな願いでもお受けします」

「そうか・・では話そうか。見ての通りこの高峰の家はこの剛造一人で生活している様なものだ。

広い屋敷で掃除も行き届かない。それにも増して掃除洗濯食事の用意全てを私がやっている。谷田の娘を養子にはしているものの会社の仕事を任せているので、家の仕事までさせるには可哀そうだ。

そう考えて家政婦を雇おうとしたが、何分この高峰家は世間に評判が悪い。麻紀さんは知らないだろうが、前の屋敷が放火され三人が命を失いこの屋敷の別棟でも殺人事件で谷田の後妻と会社役員が死んでいる。今はその建物は更地に戻しているが、この高峰家は呪われた家と世間では噂されていて家政婦のなり手がなくて困っている。そこでだ麻紀さん。この高峰家で住み込みで家政婦をやってくれないか。当然今麻紀さんが今貰っている給料より多く支払うつもりだ。それに・・娘さんだが進学するまでこの家で暮らしたらどうだろう。無駄にアパート代を支払う必要もなくなるではないか。空き部屋が何部屋もある好きな部屋を使ってくれればいい。どうだろう・・」

 麻紀があっけに取られて聞いている。

「麻紀さん。兄さんの願いを聞いてやってくれないか。兄さんも良い年だ。老後の心配もあるだろう。麻紀さんが来てくれれば俺の心配もなくなるしな」

「私の言いたい事を先に言うなよ。この六十何年一人で生きて来た。身近な人と暮らしてみたい。それも願望に過ぎないのかも知れないが・・」

 麻紀が俯いて聞いている。

「麻紀さん。この高峰家の呪いを解いてくれるのは麻紀さん以外にはないと山神岩清水様が告げている」秋葉の目が怪しく宙を漂っている。麻紀が顔を上げた。

「はい。山神岩清水様のお告げに従います。このお屋敷に参ります」

 麻紀の声に剛造の顔色が変わった。麻紀の声が母里江の声神林の美祢の声にも聞こえたからだ。

「どうだ兄さん。山神岩清水様の社に土足で上がり込んだりはできないだろう。しっかりお参りしなよ」剛造の顔色が穏やかな笑顔に戻った。


 鹿谷小学校は鹿谷村本村を取り巻く十数の小集落から集まる全校生徒三十六人の吸収合併まじかの過疎地の学校だ。その三年生の担任に今年鷹山の北小学校から赴任してきた松木直人教諭がいた。三年生は僅か五人。父兄も素朴な村人でストレスを受ける要素は何処にもなかった。夏休みを終えて松木先生の様子が可笑しくなった。教える授業を間違えるのだ。「先生。国語じゃなくて算数です」子供達に言われて初めて自分の誤りに気が付く有様だった。噂は直ぐに校長の耳に届いた。校長は松木先生を呼んだ。目は落ち込み隈が出来た青い顔の松木が校長の前に直立不動の姿勢で立っている。

「松木先生。何処か体が悪いのか。随分やつれているようだが・・」

「いえ。校長何処も悪くはありません。ただ・・」「ただどうした・・」

「ただ夜に眠れなくて・・頭が冴えないのです・・」「医者に診てもらったのか」

「いえ。医者に行くほどの事ではありません。今後気を付けますので・・」

「そうして貰わなくては、父兄からの苦情がくれば対応を考えなくてはならなくなる」

「しっかりしてくださいよ、松木先生。子供達は先生の一挙手一投足を見ていますよ・・分かりました。私も見ていますからね・・」校長は帰れと手を振った。

 夏休みのある日、松木の家の玄関先に二度目の不審物が投げ込まれていた。それは女の子のシューズの片方でマジックペンでユミと名前が書かれていた。先月投げ込まれていた片方と同じシューズだった。

 それを見つけたのは松木の妻だった。

「貴方又女の子のシューズが投げ込まれていたわよ。前と同じユミと名前が書かれているわよ誰がこんないたずらをするのかしら」妻に見せられたシューズには目もくれず松木は「捨てておいてくれ」と投げ捨てる様に言った。

 それから一週間後五年生の教科書一冊が又玄関先に投げこまれた。その教科書は水に濡れたのか少し湿っていた。頁が破られ中の頁は黒く塗潰されていた。裏表紙には塗潰されたユミの名前が微かに読み取れた。

 其日から松木は眠れなくなった。目を閉じると悪夢を見て飛び起きた。夜中に酒を飲む様になった。

食も細り痩せてゆく。心配する妻が病院を進めるも松木は頑なに拒絶した。夏休みが明けた。松木は車を運転して鹿谷村の学校に通い始めた。その後投機物はなかった。松木の精神が落ち着いてきた頃又松木の家に理解不能の者が届けられた。それは赤い中古のランドセルで濡れておりランドセルの中には水が溜まっていた。朝松木は学校に出勤しようとして家の門扉に掛けられているこのランドセルを見つけた。其日松木は学校を休んだ。

 午後松木の姿が市営住宅の一つの部屋の前にあった。部屋には鍵が掛けられ人が住んでいる気配はなかった。この部屋は六年前松木が家庭訪問で来た場所だった。松木の手にはビニール袋に入れた赤いランドセルが、片手には白い菊の花束が握られていた。通りかかった住宅の初老の女が胡散臭そうに松木に声を掛けて来た。

「貴方。その部屋は空き家だよ。もう何年も人は住んでいないよ。六年前住んでいた住人が出て行った後何人かが此処に住んだけれど、夜になると女の子の鳴き声が聞こえると皆出て行ったの。それ以来空き家のままだよ」「そうですか。部屋を間違えた様です」松木は顔から血の気が引くのを覚えその住宅を後にした。次に松木が向かったのは市街地の西を流れる大川の橋の上だった。松木は車の通行が途絶えた隙を伺いランドセルの入ったビニール袋と菊の花束を川面に落とし手を合わせた。

 松木の心に市営住宅で会った初老の女の言葉が重くのしかかっていた。

 その夜も松木は酒を飲んだ。眠れぬ長い夜が又やって来た。


 秋の夜長。月のない星空が鷹山市上空を覆っている。明かりのない郊外の一軒家に黒い影が忍び込んだ。家人の初老の夫婦は二泊三日の温泉旅行に出かけていた。三日後帰宅した夫婦は家の中に入って仰天した。どの部屋もこれでもかとばかりに荒らされ、どの引き出しも抜き出されて物は部屋中に散乱していた。直ぐに通報を受けた警察官が駆け付けた。

「何か盗まれた物はありますか・・」私服の刑事に尋ねられ、この家の初老の主人は首を横に振って答えた。「この有様で何が盗まれたのか・・ただ現金は旅行に出かけていたので置いていませんでした。刑事さんこんな酷い現場を見た事がありますか。ただ私が大事にしていた庭の黒松の植木鉢が割られて松も折られています。これは金では買えない程の損害でショックを受けています」

部屋を見て回った刑事二人は「あいつの仕業だ・・」と口口に言って、後を鑑識課員と他の警察官に任せて聞き込みに出た。付近に防犯ビデオを設置している家はなく、目撃情報も得られなかった。


 鷹山市中町のアパートから引越しセンターのトラックが出発した。誰も見送る者がいない引越し荷物だった。

 鹿谷村の高峰家では一足先に来ていた山蔭麻紀が荷物の到着を剛造と共に待ち構えていた。

 鷹山市から鹿谷村までの所要時間は車で約四十分程の距離である。引越しセンターのトラックが丘陵地を登って行く。そのトラックの後ろを三台の軽四輪トラックが続いている。引越しセンターのトラックが高峰家の敷地内に止まると、後に続いていた軽四輪トラックも止まり一台から秋葉健介が降りて来た。後の二台からは農地を任されている本山和男と職員の初老の男二人が降りて来た。

 トラックの運転手と助手。高峰家の男達五人でトラックから下ろされた荷物は、あっという間に屋敷の中に運び込まれた。剛造と麻紀は決めた部屋へ大きな荷物を配置していった。

 荷物の配置を手伝っていた秋葉が「少し早いが言ってくる」と剛造に告げて部屋を出て行った。

 秋葉の軽四輪トラックが岡部商店道路向かいの農協支所の駐車場に止まった。バスを待つ間秋葉は岡部商店に行きタバコ一箱を買った。店前のベンチに腰掛けタバコに火を点けた。

「秋葉さん今日は高峰家へ家政婦さんの荷物がくるそうな・・いい人が見つかって幸一・・いや剛造さんも良かったな」顔見知りになった岡部の主人が声を掛けて来た。

「主人耳が早いな。此処にも買い物に来ると思うがよろしく頼むよ」

 剛造と秋葉の関係は既に村に広まっている。秋葉が元警官刑事であった事も。

「ああ・・いや此方こそご利用願えれば有難いです」店主が愛想笑いを浮かべて言った。

 バスがやって来て岡部商店前に止まり乗客一人が降りて来た。髪の長い色白のスラリとした若い娘だった。白と青のスポーツウエアー、運動靴姿で背中には黒いナップザックを背負っていた。バスが出発すると娘はベンチに腰を下ろしている秋葉には目もくれず左右を見まわした。

「玲ちゃんだろう。高峰剛造の弟秋葉健介だ。迎えに来たよ」

 振り向いた玲に秋葉が声を掛けた。「あの母が話していた警察の・・」

「ああその小父さんだよ。着いておいで・・軽トラだけど送るから」秋葉は道路向かいの農協支所駐車場に止めている車に玲を乗せた。

 秋葉の運転する軽四輪トラックが高峰家の駐車場に滑り込んだ。待ち構えていたのか麻紀が玄関から走り出て来た。続いて剛造が顔を出した。引越しセンターのトラックの姿はなく、家に入ると応接間に手伝いに来た本山と農業職員の初老の男二人がお茶を飲んで休んでいた。

「もう終わったのか・・早いな」秋葉はソファーではなく床に腰を下ろした。直ぐに麻紀がお茶を運んで来て秋葉の前に置いた。玄関内で玲が剛造に挨拶しているらしく笑い声が聞こえた。


 朝、松木の家の庭先で松木の妻が叫んだ。「貴方また汚れたノートが投げ込まれているわ。早く来て・・」酒の飲みすぎで赤く潤んだ目の松木が玄関から出て来てそのノートを拾い上げた。落書きだらけの汚れたノートは水を含んで重かった。松木は濡れたノートをめくった。ー死ね‥ブス・・ー

汚い言葉でページは埋め尽くされ、それを消そうとしたのか鉛筆で塗潰してあった。最後のページをめくるとー先生たすけてーお母さんごめんなさいーと書かれそのページの下が破り取られていた。

そこに何が書かれていたのか分からなかった。前のページをめくって見た。同級生の女の子の名前が書き綴られていた。松木は夢遊病者の様によろめきノートを投げ捨て屋内に戻った。部屋に戻った松木はウイスキーのボトルをラッパ飲みしベッドに倒れ込んだ。ここ数日松木は学校に出勤していなかった。

 その夜松木は酔いが冷めぬまま自転車で市内の居酒屋、スナックとはしご酒して夜中に帰途についた。どんよりと雲った闇空の下、自転車のライトが明るく暗くふらつきながら郊外の住宅地に向かって行く。遠く住宅地の薄明かりが見える農業用水路の横の暗闇の道を松木は帰っていた。

「先生・・た・す。け・て・・」何処からか声が聞こえて来た。また「せん・せい・たす・けて・」

それは幼い女の子の声だった。声は酩酊状態の松木の耳にも届いていた。「なに・・たすけろ・と・」

「おまえ・・は・しんだ・・はず・・ユミ・・」松木の自転車がよろめき、バランスを崩し用水路の中に消えた。松木が水路に落ちるのを確認した水路脇に潜んでいた黒い影が古いテープレコーダーのスイッチを切ってその場を立ち去った。

 松木の死体が道路から二メートル下の農業用水路で自転車と共に発見されたのは翌日の午後の事だった。下校途中の子供達によって発見された松木の死体は僅か二十センチの水の中に顔を漬け水死していた。引き上げられた死体の下に水路を伝って流れて来たのか、ビニール袋に入った赤いランドセルがあった。警察はこの男を酒に酔って誤って自転車に乗ったまま水路に落ち水死したものと断定した。

検視が行われた鷹山警察署にショートカットの三十代の女が刑事部屋を尋ねてやってきた。

水死した松木の妻美津子だった。部屋に入って来た女を見た鑑識課員が、木庭刑事に何やら耳打ちをし、木庭は鈴木警部の耳元で一言呟き刑事部屋の炊事場に若い女性刑事を呼んで何やら指示をした。

 鈴木警部は松木美津子を応接セットに座らせ悔やみを述べた。若い女性刑事がお茶を運んで来てテーブルの上に置いた。

「奥さん。御遺体を確認していただきますが大丈夫ですか畳の上の遺体と違って水死は少し凄惨というか・・お嫌でしたら衣服の確認だけでも」松木の妻がお茶の茶碗を持ってゴクリと飲んだ。

 松木美津子がお茶を飲むのを確認した鈴木警部は松木美津子を遺体安置所に案内していった。

 ビニール手袋をはめた木庭刑事が松木美津子が飲んだお茶の茶碗を鑑識課員の元へ運んだ。鑑識課員は待ち構えた様に茶碗から指紋を採取した。

「どうだ。合致したか・・」以前ホテルの部屋のコップから採取した指紋と比べていた鑑識課員が頷き言った。「間違いなくあのホテルの防犯ビデオに写っていた緑色のヒールを履いたショートカットの女に間違いない」

「そうか・・良く緑色のヒールに気がついたものだ。さすが鑑識さんだ」「いや。緑の靴なんかそうそうお目に掛かれる代物ではないのでね・・」「それにしても、あの奥さんは大したものだ。間男した男の子間を切り取るなんて・・女は恐ろしいな」木庭が首をすくめた。「木庭刑事またこれで婚期が遅れるのでは・・」独身である木庭を妻帯者である鑑識課員が半分茶化して言った。

 松木美津子を送り返して鈴木警部が戻って来た。「どうだ。指紋は取れたか・・」鑑識課員に尋ねた。「警部ばっちりです。本人に間違いありませんでした」「澄ました顔をして夫を裏切る怖い女か。さあどうするかだな。被害者は死んでいるが、葬儀が終わった後に呼んでみようか・・それでも犯人が判ってよかった」鈴木警部が滅多に吸わないタバコを銜えた。

松木先生死亡の連絡は鹿谷小学校にも届けられた。


山蔭玲は自分に当てがわれた部屋で引越し荷物をかたずけていた。その中に覚えのない、靴箱程の包みが目に付いた。ーこれは何・・ー包みを開き箱の蓋を開けて見た。中には鎖で繋がれた黒い硬質ゴムの棒二本が入っていた。ーこれは、もしかしてヌンチャク・・ー玲は直ぐにあの夜の公園での出来事を思い出した。玲が襲われそうになった時突然現れた黒い影が瞬く間に悪ガキを打ちのめしたのは、このヌンチャクだった。玲はそのヌンチャクを持って庭に出た。黒い硬質ゴムの棒の片方を握り軽く上下に振って見た。更に左右斜めに、横へと振って右手から左手に棒の握りを変えて同じ動作を繰り返して見た。ーそうか・・やはりこのヌンチャクに間違いない・・ー玲は部屋に戻った。

ー佐山龍・・君だったのか・・ー同じアパートに住む同級生で同じ学級に通っていた目立たない男の子。よく授業中に居眠りをしていた大人しくてドン臭い男の子。玲は改めて佐山龍を想った。


 山蔭親子が高峰家に来て十日が過ぎた。玲は製材会社に朝出勤する小百合の車でバス停のある岡部商店前まで送ってもらい、そこからバスで鷹山市の学校に通った。玲はバスで帰って来ると、必ず秋葉の家に立ち寄った。「小父さん只今・・」玲の元気な声で秋葉は退屈な日々の暮らしに活力を得ていた。実家に残している娘を想うのもこの時だった。

 この日も「小父さん只今・・」と玲の声に誘われて玄関に出ると庭先に捜査用車両が一台止まり鈴木警部が一人で降りて来た。玲は自分の家の様に家の奥に上がり込んで隠れた。

「警部。今日は一人でどんな用件でお出でかな。まあ上がりなさい」秋葉の声で二人が仏間に上がって来た。「小父さん・・お茶・・インスタントコーヒーもあるけど・・」玲が台所兼茶の間から顔を出して尋ねると「インスタントコーヒーをブラックで頼む」と秋葉が言うと「私も同じで・・」と鈴木警部が笑顔で言った。「はーい」と玲が奥にひっこむと、「秋葉さんの娘さんかね」と警部が尋ねると、「いや兄の所に来た娘だよ。鷹山高校の三年生だ。よろしく頼むよ」と秋葉は答えた。

「そうか。剛造さんは良い人を見つけた様だ。秋葉さんも安心だろう」

「安心と言うか。どちらかと言うと羨ましい気がするよ。こちらはヤモメ暮らしだからな」

「秋葉さんらしくないね。神と言われた人の言葉とは思えないよ」

 秋葉が「そうか・・」と笑った。玲が湯気の立つコーヒーカップを持って現れ二人の前に置いた。

「ところで警部この鹿谷に又事件でも・・」秋葉が尋ねた。「事件があれば私達より秋葉さんの方が早く気ずくだろう。事件と言うより少し気になった事があって、それを確かめに来たのだよ」

「ほう・・。その気になった事を聞かせてもらおうか」

「実は最近、鹿谷小学校の教諭が酒を飲んで自転車もろとも用水路に落ちて死んだんだよ」

「それは何処の話だ。まだこの鹿谷村では噂にもなっていない話だが・・」

「まあ、学校では病死って事にして口を塞いでいるからね。世間体を考えて伏せているのだろう」

「それでその先生について学校に聞きに来たってことか・・」

「そうですが・・それには少々訳がありまして、ここだけの話ですが、その先生の女房が妙な話を警察に持ち込みましてね。主人の死は、以前担任していた女の子が自殺したその復習ではないかと言って来た訳です」

「それで鹿谷小学校では何と・・」「校長先生が言うには夏休み後その先生の様子が可笑しかったと言うのです。何でも痩せて目を落ち込ませ、授業科目を間違えたりする事が度々あったようです。

校長先生自ら注意したり病院にも行く様に説得した様ですが本人が拒んで最後には無断欠勤をしていた様です。これを見て貰えますか・・」

 鈴木警部が持って来たカバンから一冊の教科書とノートを取り出して見せた。

 教科書とノートは水に濡れたのか字は滲み皺が寄っている。

「死亡した先生の女房が庭に投げ込まれた水に濡れた教科書とノートを乾かして主人に黙って保管していたらしいのです」

黙ってページをめくっていた秋葉の目に涙が湧いた。

「これはひどい・・辛かっただろう。悲しかっただろう・・この子の親は何も言わなかったのか」

「母親は学校に何度も抗議に訪れていたようですが、学校側がいじめはなかったと結論ずけていた様です。その子が自殺した後親は離婚したようで、母親は息子を連れて家を出た様です」

「父親は何故抗議に加わらなかったのか・・」「父親は公務員で職場での面子にこだわったのかもしれません。これは私の考えですが・・」

「これだけの証拠があれば学校も苛めた子供の親も訴える事が出来た筈だが・・死んだ子供の死に座間は・・」

「ランドセルに重しの石を入れて、橋の上から大川に飛び込んだのですよ」

 秋葉の頬を涙が伝い落ちた。

「佐山ユミちゃんか・・」教科書とノートを神棚に供えて秋葉は手を合わせた。警部も手を合わせ目を閉じていた。

 ー佐山ユミとはまさか龍の妹なのー玲は同じアパートに住んでいた佐山龍の家庭が玲と同じ母子家庭だと知っていた。玲も茶の間で見知らぬ女の子に手を合わせっていた。

「これが例え復讐だとしても、家族と死んだ子供の事を思うと私には捌く事は出来ないね・・」

神棚から教科書とノートを下ろすと秋葉はぼそりと言った。

 その時鈴木警部は何かを掴んだのか急いで帰って行った。


 翌日高校に登校した玲は佐山龍の下駄箱の上履きに小さな黒い封書を差し込んだ。

授業が始まり玲は斜め前方の席を見た。佐山龍が何事も無かった様に前を向いて授業を受けていた。

 ー龍君お願いだから解ってねー玲は無言で龍の背中に語り掛けた。

 佐山龍が下駄箱の上履きの中の封書を取り出し、中のメモ書きに目を通してその場に立ち竦んでいたことを玲は知らない。玲が龍の下駄箱に入れた封書の中身のメモ書きにはーもうやめてー

ーありがとうーユミーと書いていた。

 佐山龍は動揺し頭は混乱していた。自分しか知るはずのない復習を知って止めようとしている者がこの学校にいる。短いメモからは本気で止め様とする優しささえ感じられた。ーでも何故俺の妹の事を知って居る。彼女ではない。俺があのアパートに越してきたのは、あの事があって一年も後の事だ。では何故知って居る。俺しか知る筈のない復讐を。龍の心は暗闇の底へと沈んでゆく。教壇に立つ先生の存在すら龍の頭から消えていた。そんな龍の思いを玲は知らない。


 鷹山市の葬儀場では松木直人の葬儀が行われていた。頬に古傷のある五分刈り頭の松木の父親巌とその横に鹿谷村の消防団長寺田の姿があった。松木の父親と寺田は従兄弟同士だった。焦燥した面持ちの松木の父親を寺田が慰めていた。その横に松木の妻もいた。鹿谷小学校の校長など父兄や生徒十人程も参列していた。

 鹿谷警察署の刑事部屋では鈴木警部が刑事課員に指示を与えていた。

「闇夜の忍び込み事件だが被害者の職業欄に不明の点がある。無職と書かれている者の以前の仕事や地方公務員と記載されている者の職種も早急に確かめて貰いたい」

 指示を受け被害者十数人が記載された名簿の紙を持って刑事達が部屋を出ていった。鈴木警部の机の上に被害届が積まれている。鈴木警部が捜査書類を担当する刑事を呼んだ。

「これら事件の被害金品欄に記載のあるものは数点しかない。それも確かではない物でしかない。

これはどう言う事だと思う」尋ねられた刑事も首を傾げ「私も不思議に思っていたのです。もっと多額の金品が盗まれていても不思議ではないのですが・・もしかして物取りではないのかも・・」

「君もそう思うだろう。これらは盗難事件ではなく家宅侵入器物損壊事件、窃盗未遂事件ではないのか・・」

「何も盗んでいないのであれば、そう言う事に・・」「そうだろう今迄、それに気が付いた刑事が一人もいなかったとは、闇夜の忍び込みに目を奪われ過ぎていたのかも・・俺も含めてだが」

 午後になり調査に出ていた刑事五人が戻って来た。

「木庭君君がまとめて報告してくれ」警部に言われて木庭刑事が鈴木警部の元にやってきた。

「警部。分かりましたよ。無職と書かれていた被害者の中に二年前に小学校校長を定年退職した者や地方公務員と記載された物は小学校の教頭を務めている者でした。この二人の先生の他、数人を我々より先に接触した者がいました。誰だとお思いですか。死んだ松木先生の父親ですよ。頬に古い切り傷がある鉄工所勤めの男です。何か思い詰めた様子で尋ねて来たと皆が言っていました。尋ねて来た話の内容は六年前に自殺した子供の家族の居住先だった様です」

「やはりそうか・・これから松木の父親の動向を交代で視察してくれ・・」木庭刑事にそう指示を与えると鈴木警部は腕を組んで考えこんで、もう一度木庭刑事を呼んだ。

「六年前自殺した佐山ユミと言う子供の家族と今何処に住んでいるか調べてくれ」

そう指示をして鈴木警部はもう一度腕を組んだ。


 鹿谷村の高峰剛造の家では山蔭麻紀が甲斐甲斐しく家政婦の仕事に勤しんでいた。その姿を目で追う剛造は幸せそうに見えた。高峰家の高台から見下ろす田畑は稲刈りも終わり枯れた晩秋の姿にかわっている。高峰家の農業倉庫の農機具置き場は増設され真新しい大型農機が並んでいる。

 毎日の様に倉庫に出入りしていた係長の本山は、今は製材工場に戻っている。

「剛造様。気候の良いこの時期には少しは散歩でもされたらどうですか・・」麻紀に言われて剛造は家を出て坂道を下った。麻紀が高峰家に来て剛造はほとんど家から出ていなかった。話し相手は時折訪れる腹違いの弟秋葉位のものだった。剛造は孤独な一人暮らしから今は三人の女に囲まれ、恵まれた生活を送れる幸せに浸っていたかった。剛造の足は自然と秋葉の家に向かっていた。

 秋葉の家の庭先に赤い乗用車が止まっている。家の中から笑い声が聞こえて来た。剛造は玄関で声を掛けた。「お邪魔かな・・誰かお客さんか・・」剛造の声を聴いて秋葉が顔を出し「兄さん良い所に来た。嫁と娘が来ている。上がってくれ」と手招いた。「嫁さんと娘さんか・・」剛造は仏壇と神棚が有る座敷に上がった。品の良い白髪の初老の女と、秋葉の母親神林美祢にそっくりの三十代の女が出迎えた。

 剛造は膝を折り頭を下げて、二人の女に秋葉の腹違いの兄だと挨拶した。白髪の女が膝を改め頭を下げ秋葉の妻だと名乗り「お初にお目に掛かります。お噂は鐘がね主人から聞いております。この度は実家にお戻りになられたそうでお祝い申しあげます。此方に居りますのは娘で御座います。以後お見知り置き下さい。娘は弁護士です。何かありましたらご相談下さい」

 母親に紹介され娘は志乃と名乗り、顔を見つめる剛造に言った。「小父さん私の顔に何か・・」はっと目を見開いた剛造は娘ではなく秋葉の顔を見た。秋葉の顔は笑っていた。

「兄さん驚いている様だな。。どうだ。そっくりだろう母さんと・・」「ああ心底驚いている。若かった美祢母さんと瓜二つだよ」「俺も写真を見て驚いていたんだよ」

「ちょっとお父さん。私がお婆さんにそっくりと言う事なの。写真を見せてよ」

 娘に言われて秋葉は仏壇から写真を下ろして娘に見せた。

「あら本当。着物を着せたら志乃そっくりよ」秋葉の妻も驚きの声を上げた。黙って写真を見つめていた志乃の目は何故か涙ぐんでいた。「私は美祢・・・」志乃の口から意味不明の言葉が漏れた。

 剛造はドキリとして志乃の顔を見た。「・・お婆さんに会いたかった・・」仏壇でコトリと音がした事を秋葉以外誰も気ずいていなかった。剛造は、ほっとして胸の動悸を押さえた。志乃が写真を胸に抱いた。「もういいだろう・・」秋葉が志乃の手から写真を受け取ると仏壇に戻し、背を向けた位牌をそっと元の位置に戻した。その時秋葉にひらめいた事があった。秋葉はスマホを握ると屋外に出て鈴木警部に電話を掛けた。

「警部。自殺した娘の家族の保護を・・」「秋葉さん。今家族の居所を探させている。判り次第そうするよ。貴方と言う人は・・」秋葉は電話を切って部屋に戻った。

 夕刻前妻と娘は帰って行った。後に残った秋葉と剛造は向かい合った。「健介。志乃さんには驚かされたよ。本当に美祢さんが憑依したかと思って肝を冷やしたよ」「兄さん憑依したんだよ。母さんが志乃に・・」「えっそれは・・」「いいじゃないですか。時空を超えて母さんは孫に会えたのだから」

 秋葉と剛造は仏壇に手を合わせた。

 

 朝、洗濯物を干し終えた麻紀が剛造に声を掛けた。「剛造様今日はお願いがあるのですが・・」

「麻紀さん。その様は止めてくれないか。どうも他人行儀でいけない。せめてさん付けにしてくれないか。ところで願いとは何だね」「はい私。昔住んでいた家に行って見たいのです」

「昔住んでいたとは、あの中谷の谷奥の家かい。あの家は取り壊されて山に帰っていると聞いているが・・」「家はなくても良いのです。短くても私と玲が住んだ土地ですもの・・」

「そうだね。一度は行って見なくてはな。それでは私と行って見るかい」「はい。お願いします」

麻紀は嬉しそうに微笑んだ。

 剛造と麻紀が狭い谷間の山道を登ってゆく。小さな谷川のせせらぎが聞こえる。杉林を抜けると少し開けた山の斜面が段差になっている場所に着いた。雑木が生えていた。その段差の斜面を麻紀は懐かしそうに見上げた。「私も十数年振りだよ・・」剛造も懐かしそうに見上げた。

 何時までも斜面を見上げる麻紀に剛造が言った。「家族の墓はなかったのかい。元々墓はなかったのでお寺に頼んで寺の墓地に埋葬して貰っています」「それでは位牌は・・」「はい。私の荷物の中に・・」「麻紀さんそれは駄目だよ。良かったら我が家の仏壇にお納めしてくれないか・・」

「高峰家の仏壇にですか・・そんな由緒あるお屋敷の仏壇になんか・・」「いや、古い仏壇は火事で燃えてしまった。今は新しい仏壇に親父とお袋の二つの位牌しか入っていないよ。私の恩人の位牌なら喜んで迎えてくれる筈だよ」「そうですか。剛造様がそう言われるなら・・」「ほらほら又様付けだ。剛造さんだろう」「はい剛造さん・・」「それでよろしい。麻紀さん」二人が微笑んだ。

「剛造さん。ここには私には忘れられない苦い思い出があるのです。聞いてくれますか・・」

「苦い思い出か・・。聞かせて貰おう」

「あれは主人岩夫の葬儀を終えた夜の事でございました。私は何か悪い予感がしたので枕元に草刈り鎌を偲ばせて寝ておりました。すると深夜三人の男に襲い掛かられたのです。幼い娘が隣で眠っておりました。私は声を出さず枕元の鎌を握って振り回しました。すると最初に襲い掛かった男の顔に鎌が当たったのです。豆球電灯の明かりに血が布団の上に落ちるのが分かりました。男達は逃げ帰って行きました。次の日私は玲を抱いて高峰家に家を売り村を後にしました。あの時傷つけた男の人が誰だったのか。高峰家にきてずっと気になっているのです」

 麻紀の話を聞いて剛造は十六年前の村の噂を思い出していた。夜這いに言った松木巌が女に切りつけられて顔に傷を負い、噂になるのを恐れて家族を連れて村から姿を消した事案だった。

「麻紀さん。その男ならもうこの村には住んでいないよ、鷹山市に移り住んでいると聞いているよ」

「そうですか。よかった・・」「麻紀さん何があっても私と頼りになる弟がいるのだから心配しないでいいよ」「そうですね。私気持ちが楽になりました」

 剛造がそっと麻紀の手を握った。


 「松木巌が佐山千沙のアパートを見つけました。今周囲を徘徊しています」

 鈴木警部が部下の刑事からの一報を受けたのは昨日の午後だった。その時以来アパートの警戒は緩める事無く二十四時間続いていた。

 それは翌日の深夜だった。アパートが見える公園の隅で見張っていた木庭刑事と柴田刑事は公園脇に止まった軽四乗用車を認め腰を浮かせた。「来た。松木の軽四乗用車だ・・」薄明かりの中、車から降りる松木巌の姿が目撃された。手には何かを持っている。暗くてそれが何かは二人の刑事には確認できなかった。「おいアパートに入って行くぞ・・」二人は足音を消してアパートの入口に向かった。「警部松木がアパートに・・」柴田刑事が短くスマホで語り直ぐに電話を切った。

「管内全車両に告ぐ。サイレンを消して指示しているアパート周辺に集まれ」鈴木警部が握る無線マイクが管内の車両に指示した。

 アパート二階で大きな物音がして怒鳴り声が響いた。二人の刑事が特殊警棒を抜いて階段を駆け上がった。女の悲鳴と「邪魔をするな殺すぞ」と男の声が聞こえた。破られたドアの部屋に二人の刑事は飛び込んだ。手に包丁を持った松木巌が男の子を守る様に立ちふさがる女と対峙していた。女の腕から血が滴り落ちている。「松木止めろ。警察だ。殺人未遂銃刀法違反で逮捕する」木庭刑事が素早く松木の持つ包丁を取り上げると柴田刑事が手錠をかけた。白髪交じりの五分刈り頭、こけた頬の古傷がピクピクと痙攣している。「俺は悪くない。悪いのは息子を死なせたこいつらだ」「殺人未遂銃刀法違反で現行犯逮捕しました。怪我人が居るので救急車の手配を願います」木庭刑事の無線の声が刑事部屋に流れた。「怪我人は誰だ。怪我の状況は・・」「怪我人は母親。怪我は腕を切られているが命に別条はない模様」鈴木警部と木庭刑事の通話が途切れた。「ふーっ。と鈴木警部は大きく息を吐き椅子にどっかと腰を下ろした。


 佐山龍は取り調べを受けた。側に色白の目元が涼しい若い女弁護士が付き添っている。龍は妹の靴や教科書やノートを松木先生の家の庭先に投げ込んだ事。それにランドセルを門扉に掛けて置いた事を認めた。取り調べた刑事はそれ以上の取り調べは行わず、龍は母親の待つアパートに帰された。

 取調室から出て来た女弁護士が刑事部屋に姿を見せた。

「秋葉弁護士ご苦労様でした。調べはどうでしたか」鈴木警部が声を掛けソファーを勧めた。大抵なら挨拶もなく立ち去る男の弁護士とは違い秋葉弁護士は素直にソファーに腰を下ろした。

「先生。この件につきご意見はありますか」鈴木警部が尋ねた。

「そうですね。不法投棄だけの調べならあれで良いと思います。子供の靴が一足、それに教科書一冊ノートが一冊ランドセルが一つ。これらはまとめて投機されたのではなく一つ一つ投機された物で

ペットボトルのポイ捨てやタバコのポイ捨てと何ら変わりはない行為です。それを行った少年をどう言う処分にしようとするのですか。家庭裁判所送りですか。少年鑑別所送りにしたいのですか。

そんな事は出来ないでしょう。警察での見解はどうですか」

「ああそれは処分保留、保護観察と言ったところですね」鈴木警部が答えた。

「その件は横に置いて。六年前小学五年生の女の子がイジメで自殺した。その時一歳年上の六年生の兄がいた。妹の死に子供心に兄の心は大変傷ついた。両親は学校に抗議はしたが、イジメなど無かったと拒絶され、マスコミ報道に曝される事を恐れて両親は抗議を断念した。そのせいで両親は離婚し残された兄の心は更に傷ついた。明らかにイジメの証拠が有りながら保身に走った教育者やイジメた子供や父兄に罪の意識はあったのか。もしその時適切な対応をしていれば今回の事案は発生しなかった。心痛の余り酒に溺れ水路に落ちて死んだ先生には少なからず同情はする。なぜなら、その先生が担任を持ったのが教員になって僅か三年だったことだ。その歳で校長や教頭の弁に逆らう事は出来なかった筈だからだ。その先生にも罪の意識があったればこそ酒に溺れたのでしょう。六年間亡き妹の事を忘れなかった少年こそ温かい世間の風で包んでやるべきではないのでしょうか。血も涙もある警察なら少年をこれ以上傷つけないで欲しい。これが私の弁護士としての見解です」

「弁護士先生。お父さんの見解とよく似ていますね。警察にも血も涙もありますから・・」鈴木警部が答えると「父と私は関係ありません。父の事は言わないでください」と言ってソファーから立ち上がった弁護士秋葉志乃は怒ったと思いきやニッコリと目を細めて刑事部屋を出て行った。

「やれやれ、温かい世間の風か・・血も涙もか参ったよ」鈴木警部はタバコで燻された汚れた天井を見上げた。


 「アパートで傷害事件」マスコミの報道で玲は事件を知った。これが龍の最後の試練であればよいと玲は心から願った。剛造と麻紀も事件を知って驚いた。犯人があの松木巌だったからだ。

「身から出た錆って事だよ。因果応報ってこと事かも・・」二人は顔を見合わせた。二人の息はあっていた。家政婦から妻へ変わるのは時間の問題かも知れない。外には早い小雪が舞っていた。

 秋葉の家に捜査用車両がやってきた。

              完             

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