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浮気で離婚した前世の夫がストーカーしてくる

作者: としさと

「騎士団副団長ギルベルト・マスグレイブです。本日は私がご案内させていただきます」

 

 

 うわ、この人前世の夫だわ。

 

 

 

 騎士団訓練施設にて、学生を前に自己紹介をしたギルベルト・マスグレイブを一目見て、わたしは頬が引き攣らないように口元を引き締めた。

 

 わたしはイルメントルート・バスラー。18歳の子爵令嬢だ。

 

 バスラー子爵家の跡取り娘であり、現在は王都の学園で将来のため領地経営を学んでいる。

 今日は授業の一環として、騎士団に見学と仕事内容を把握しに来た。

 領地はそれぞれ領主が管理している。

 領地の管理は多岐にわたる。農業、産業の統括から人員、農民、自衛の為の騎士の管理。

 騎士といっても万が一の謀反を恐れて、王は領地が騎士を持つことを許可していない。領地には国から派遣された騎士が勤務することになっている。領地に事が起こった場合、常に王都から騎士を派遣するには非効率だからだ。

 領都に騎士が所属する本部があり、そこからまた領内の支部に決められた人数が派遣される。

 国から派遣されるといっても、基本的な管理は領主に委託されているのだ。

 

 騎士達の健康管理から仕事内容、働きぶりなどで給金の配分が変わる。国が7割持ってくれるとはいえ、当然護って貰っている自領からもお金は出る。

 その為に、騎士とはどんな仕事をどのように行うのか、食事内容や休憩などの生活サイクルを確認する為、また、査定にも関わる仕事のポイントを押さえる為にも、領主経営には騎士団の見学も含まれているのだ。

 

 そうして、本日の領主候補生を引率する、騎士団副団長ギルベルト・マスグレイブ。

 

 彼はわたしの前世の夫だ。

 

 わたしは前世を覚えている。

 前世のわたしは脳味噌お花畑の綿菓子女だった。

 

 侯爵家の末っ子で、クリーム色のフワフワした髪に透き通った蒼い瞳、華奢で小柄などこからどう見てもお姫様な容姿。

 蝶よ花よと育てられ、社交デビューしても付き合う相手は父母が管理し、許可がなければ茶会にも出ない。それを不思議に思わない。

 殆ど屋敷にいて、刺繍とお花とお菓子に囲まれて、嫌なことは誰かが先回りして排除してくれているという箱入り娘だ。

 世の中に悪い人はいない、話し合えば分かり合える、みんな一緒みんな仲良し、なんて素面で言える超善性。

 

 みんな一緒なら貴族や平民なんて身分社会はないっつーの。

 そんなことも分からない、与えられた善性を素直に受け取り、それが選別されたものだと思いもしない。

 

 そんな甘くて柔らかい綿菓子メンタルの女が、恋をした。

 

 相手は伯爵の嫡男で、婚約者のエディ・オコーナー。

 薄い茶髪に碧目。背が高くしっかりと必要な筋肉が鍛えられ、整った容貌で優しげな目元にいつも笑顔を浮かべている紳士。

 王子様然とした彼は、性格は穏やかできめ細やか、いつもわたしに丁寧に接してくれていた。

 親しい男性が親兄弟しかおらず、学友も選別された女性のみ。そんな彼女が婚約者に恋に落ちるのは必然といえば必然。

 

 時が来て二人は結婚。

 これから幸せな夫婦生活が待っていると思っていたのだが、そうはいかなかった。

 

 浮気されたのだ。

 しかも屋敷で、自分が不在の間に。

 

 その日は数少ない友人との茶会があり、朝から出かけていたのだが、途中で馬車の車輪に不具合が見つかった上に雨が降ってきた。

 予定を変更して一旦辻馬車で自宅に帰れば、なんと夫婦の寝室で目合(まぐわ)っていたのだ。

 

 真っ昼間っから性交。

 

 しかも夫婦の寝室で。

 

 最悪だったのは、わたし達は白い結婚だったということ。

 自分なりに初夜は期待していたのだ。この人と夫婦になるのだと、これから二人で幸せになるのだと。ところが夫は初夜を拒否した。やんわりと。

 

「体調がよくないのかな。今日はやめておこう。早目に休んだ方がいい」

 

 なんて、いかにも親切ぶって。

 オマケに初夜から浮気が発覚するまでの一年間、なんだかんだと理由をつけて、白い結婚は継続された。

 

 確かにわたしは緊張していた。ガチガチで顔色も悪かったかもしれない。でもそれは、朝から晩まで結婚式からお披露目から挨拶周りからと、怒涛のイベントをこなして疲れたからだ。

 それでも、初夜はやるべきじゃないんかい!

 お陰で、初めての夜から夫に顧みられない妻、というレッテルが使用人の間で貼られたのだ。

 その時のわたしは気付かなかったが、今考えると多少使用人の態度に差があった。

 

 それが、屋敷内の浮気を黙認された上に、嫌がらせのように誰も寝室へ行くのを止めなかった、最悪の事態を目の当たりにすると言う悲劇を起こした。

 

「おめー愛されてねえから。その目で確かめれば?」

 

 ってことなんだろうな。

 今思い出しても腹立たしい。

 

 初めて見る男女の性交に、パニックを起こしたわたしは寝室を飛び出て階段ですっ転び、全身打撲の全治3週間。

 気を失っている間に実家に戻らされ、その間にわたし達の離婚が成立した。

 

 夫からは何度も会いたい、話し合いたい、謝りたいと伝言と手紙やお詫びの品を貰ったが無理だった。

 もう彼が気持ち悪くて、あの場面が鮮明に蘇って吐き気がして、彼からの手紙や贈り物だと認識すればそれだけで性交の瞬間まで思い出されて、手紙の返事をすることも出来なかったのだ。

 存在自体が無理!

 

 体調不良と夫の存在から離れるべく、わたしは実家の領地に篭り、心と体の安寧に努めた。

 そうして三年、領地での穏やかな日々に癒されて、そろそろ砕けた恋心も見て見ぬふりは出来るようになったという頃。

 

 わたしは死んだ。

 

 殺されたのだ。

 元夫の浮気相手に。

 

 大きなナイフを振り回し、血走った目で何度も滅多刺しにされたのはトラウマだ。

 その時の叫びで判明したことだが、元夫、浮気相手共にかなり困窮していたらしい。

 わたし達の離婚が成立してから、わたしの実家は相当お冠だったらしく、裏どころか正々堂々と二人に関する全てに手を回した。

 不貞はすぐ社交界に知れ渡り、実家から伯爵家への融資は取りやめ、それ以外の事業や農作物の買取にまで二度と関わらないと宣言。

 伯爵家には慰謝料と今までの借金を厳しく取り立て、浮気相手は社交界に居られなくしてしまった。おまけに、浮気相手には、下位貴族への後妻の話や修道院に入る話まで潰してしまう始末。人の夫と性交するのが好きなのならば、その仕事につけばいいと言わんばかりに、娼館に追い立てられたとか。

 

 実家ェ……。

 

 やりすぎだよ。逆恨みが娘にきたよ。

 

 と、まあそんな感じで、わたしは齢22にて人生に幕を閉じた。

 

 ところがどっこい、すぐに生まれ変わっちゃったんだなこれが。

 同じ国だけど違う場所。以前とは真逆に位置する領地で家格も下だし、時代もあれから数十年は経っている。

 記憶を思い出してから驚きだ。国以外は全く違う。思い出すまでにわたしの性格は確立されていたらしく、昔の面影などひとつもない。

 しかもわたしは跡取り娘だ。よけいに脳味噌お花畑の綿菓子女ではいられない。

 

 けれど思い出してから、なんとなく色恋沙汰に否定的な気持ちを持っていた理由を理解した。

 他人の恋バナは別にいい。幸せそうでよかったね、勝手にやってろ、で済んだから。けどどうしても自分に置き換えれない。お陰で未だに婚約者も恋人もいない。

 跡取りなので結婚はしなくちゃいけない。だからそれなりの人と、政略でも穏やかに。愛とか恋とかいらないと思っていた。

 その根源は、前世の修羅場にあったというわけだ。

 

 そうして思ったことは。

 なんてつまらない人生を送ってしまったんだろう、ということだ。

 家族に甘やかされた綿菓子生活に、表面上は優しいけれど裏切っていた元夫。女主人を見下す使用人に、人の屋敷に乗り込んで股を開く浮気女。

 それもこれも、自分の目で何も見ずにいた、わたしの脳内お花畑も原因のひとつではないのか。

 もちろん、不貞を犯す方が悪い。

 けれど当時のわたしの頭の中には、愛だの恋だの裏切られたという哀しみしかなくて、伯爵家に嫁いだというのにまともに領地の状況も知らなかったのだ。

 

 あの時、あの滅多刺しにされていた時、叫ぶ女の言葉を覚えている。

 彼も伯爵家の領地も追い詰められているということ。わたしが少しでも他所に目を向けていれば、領地返納を考えさせるほど追い詰めることもなかった。領民が苦しむこともなかった。

 

 記憶を思い出してから、跡取り娘として貴族年鑑や現在の他領の動向を見て思う。

 

 裏切っていた元夫相手に、いつまでも忘れられずにグズグズメソメソしてないで、もっと楽しいこと建設的なことしとけばよかったー!

 

 って。

 

 だからこそ、今、人生を謳歌するべく、次期領主として勉学に邁進中なのだ。

 

 そして、今回の騎士団施設見学にて、前世の元夫と再会してしまったというわけだ。

 わたしは一目で分かってしまったけど、彼はどうだろう。黙っていればバレはしないと思う。なんせわたしは前世とは外見も性格も違う。

 前世はいかにも砂糖菓子で出来たような、フワフワキラキラなお姫様だ。性格だって甘っちょろい善人だ。

 今世は鳶色の真っ直ぐな髪に、気の強さが出てる釣り目の黄檗色。

 標準体型だが、領地視察の為に馬に乗るからそれなりに鍛えられているし、領主教育で揉まれたお陰か人には善悪裏表があり誰とでも分かり合えることはないと既に知っている。

 

 いや、元夫だからといってなんなのだ。

 確かに初見は動揺したが赤の他人だ。前世でだって他人になった。今世も他人がいい。

 昔は昔、今は今。

 お互いに今の人生を歩むことが一番大事だ。

 

 そう思っていたんだけどね。

 

 

 

 

 

「バスラー嬢、施設内について何か質問はあるだろうか」

「いいえ。分かりやすいご説明をありがとうございます」

「では次に行くが、少しでも不明な点があったらなんでも聞いてほしい」

「はい。お気遣いありがとうございます」

 

 なんでこの人、わたしに付きっきりで騎士団施設の説明をしてるのかな。

 

 領地経営のクラスは今期は8人。女子がわたししかいないとはいえ、他に7人いるのだ。もう一人案内役の騎士がいるにはいるが、1:7は比率としておかしいだろう。

 女子1人だから気を使っている? 説明くらいみんなと一緒に聞くよ。しかも階段や移動には必ず手を差し出してくる。エスコートなのか? 学業の一環で来てるのにレディファーストが過ぎるだろう。

 とりあえずエスコートされそうになるたびに、「全て授業だと受け止めているので、気遣いは不用」と断っている。

 

 なんだかこういうところを見ると、前世の紳士然としていたところを思い出してイライラする。

 

 優しい顔して人を馬鹿にしてたクセに。

 誠実そうに見せかけて裏切ってたクセに。

 親切な振りして、使用人に見下されてるの知らないふりしてたクセに。

 

 表情は全然違うのに。

 ピクリとも笑わないのに。

 

 薄水色の長髪を首の後ろで一つに束ねて、青い瞳と厳し目な目元が相まって、冴え冴えとした印象を与える。

 顔は前世と同じように整っていて凄く綺麗なのに、いつも朗らかに笑っていた前世とは全く逆だ。

 背は以前よりずっと高くて逞しい。騎士団副団長といわれると納得の体つき。

 全く違うはずなのに、昔の面影がチラついてしまう。

 

 何が嫌って、何かの拍子に、未だにそんなことが思い浮かんでしまう自分が嫌だ。

 

 

 

 

 

「バスラー嬢、相席してもいいだろうか」

 

 昼食時、やっと離れられると思いきや、騎士団の食堂で級友と食事しつつ感想などを言い合っていれば、トレイを持ったマスグレイブ副団長が目の前にやってきた。

 

「……申し訳ありません。副団長のお席だったんですね。どこでも自由だと聞いていたので。すぐに移動します」

「いや、違うんだ。席はどこでも自由に座ってもらって構わない。ただ、よければ君と食事をしたい」

 

 ざわりと食堂内が騒めく。級友達も目を丸くしてこちらを凝視しているではないか。

 正直拒否したい。けどできない。こっちは勉強に来てる学生なのだ。時間をとってもらっているのだ。胸を借りているのだ。

 嫌だなんて言えるわけないでしょう!?

 

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 愛想笑いを貼り付けて頷けば、マスグレイブ副団長は正面に座って食事を始める。

 しかしこの人、わたしと食事したいと言いつつ、何も話さない。マナー的には正解だけど、他の騎士の人達はそこそこ会話が弾んでいたけどな。まあその方達も、今はこちらの様子を固唾を呑んで見守っているのだが。

 

 ああもう、胃が痛い。

 

 

 

「マスグレイブ副団長ってバスラーのこと好きなんじゃないか?」

 

 学園に戻って騎士団施設見学のレポートを書いていると、級友の1人が突然そんなことを言い出した。

 

「俺も思った」

「俺も」

「僕も」

「つーか、みんな思ってるよ。あの副団長がバスラーに構ってるんだもん」

「もう贔屓とかも言えないほど堂々としてるもんな」

 

 あの(・・)ってなにさ。

 

「バスラー知らないのか? 騎士団副団長のギルベルト・マスグレイブ様は女嫌いで有名なんだぞ」

「女嫌い?」

「そう。女性からの好意や憧憬の眼差しには無言を貫き、黄色い声にはどこ吹く風。贈り物は部下に譲り、山のような釣書をちぎっては投げ、どんな美女の色仕掛けにも一夜の過ちも犯さない。孤高の独身貴族だそうだ」

 

 はあ?

 何その前世と打って変わった対応。

 彼は全人類に親切で丁寧だったけど、女性には殊更優しかったはず。

 わたし以外にも同じように親切な様子に、誇らしくもあり寂しくもあったものだ。

 それが女嫌い。

 副団長の対応が珍しかったのか、学友達は騎士達にわたしのこと聞かれたらしい。

 騎士の皆様としては、未だに婚約者もいない副団長に、そろそろ結婚して貰いたいらしいのだ。

 彼目当ての令嬢達は、騎士団の公開練習に通い詰めている。塩対応の副団長だけど、婚約者が決まっていないならまだ機会はあると、虎視眈々と狙っているそうな。

 その副団長が婚約者でも作れば、流石に令嬢達の目も、多少は他の騎士達に向くかも、と期待している。

 どうやらマスグレイブ副団長は、今世でも大層オモテになるようだ。

 まあ、前世とは方向性が逆だけれど、見目はいいものねえ。けど性格はかなり違う。

 誠実で実直硬派、真面目で融通がきかないところもあるのだとか。騎士たるものかくあるべし! というような人らしい。

 

 その女嫌いが、わたしに付きっきりで更に食事まで一緒にしたいなんて言い出すから、すわ一目惚れか! 副団長に春が! と話題になっていたそうだ。

 

 最悪だ。

 

 わたしはギルベルト・マスグレイブのことをよく知らない。会ったのも会話したのも今日が初めて。

 領主候補として、騎士団の主要陣の名前くらいは知っていたけど、顔も知らなければ人となりも知らない。

 なのにいきなり、本人からも周りからも距離を縮められても困る。それに因縁のある前世の元夫とどうこう、というのも嫌だ。

 

 だが、彼は、前世と今世は外見も違えば性格も人との関わり方も違う。

 なんだかそれに少しだけホッとした。

 人畜無害に見せかけて、人を裏切るような輩と関わるのは二度とごめんだ。

 

 けれど、前世と違うならそう構えることもないかもしれない。ちょっとこだわりすぎていたかも。突然だったから、わたしも気が動転してしまったんだ。

 それに彼からは何も言われていないし、前世の記憶はないのだろう。それならば研修が終わるまで一ヶ月、特に気にせず過ごせるかもしれない。

 

 

 

 なんて考えたのは甘かったのか。

 

 今日も今日とて護衛よろしくわたしに付き添い、解説しながら騎士の訓練風景を見学している。そして他の生徒達と多少距離があるのは何故かしら。みんなそんな生暖かい目で見ないで。

 相変わらず移動には手を差し出してくるし、見学中ベンチに座る時にはハンカチを敷こうとするし。制服なんですけど?

 昼食時はまた同席を訪ねて来るし、頷くまで横で突っ立ってるなんてどうぞとしか言えないじゃないのよ。

 極め付けに、研修終了後に別れの挨拶をしたら、手の甲にキスされた。

 これは本人も無意識だったようで謝り倒されたけれど。

 かといって別に、好意的な目で見られているわけではない。

 例えば本当にわたしに気があるだとか、そういう空気があるわけでもない。

 とにかくわたしへの説明はこの人が一対一で行うし、どこに行くにもついてくる。本人は隠れてこっそりついてきているつもりのようだけど、体がでかいからこっそりになってない。

 トイレに行きたくてやんわり断り席を外したら、少し離れた壁の影に隠れているのが見えた。

 

 ストーカーか。ストーカーなのか。

 

 なにがしたいのかさっぱり分からなくて、けど「ついてこないで」なんて、本当に同じ方向に行きたいだけだったら自意識過剰みたいで言えない。ストレスが溜まる。

 

 そんな感じで一週間目が終わる日に、何故か花束を差し出された。

 大輪の白百合だ。「花屋の友人が大量に仕入れて持て余していたから」なんて言われて誰が信じるのよ。いや、信じるわよ。深い意味などないと、信じ切ってやるわよ。

 

 けどわたしは白百合が嫌いだ。

 前世からキツイ匂いがダメなのだ。そして浮気相手の好きな花が白百合だ。

 彼が贈ってくれた花束だから、笑顔で受け取った。苦手だけど、贈り物をしてくれるその心が嬉しかったから。

 けど別にわたしの為じゃなかった。

 お陰で今でも大嫌いだ。

 

「結構です」

 

 もういい加減、この一週間でストレスが溜まりまくって限界だった。

 何がしたいのか理解不可能なこの人の態度も、周りの視線も、面白おかしく話題にされるのも。

 

「白百合嫌いなんです。いりません」

 

 半ば八つ当たりだった。キツイ口調で、ともすれば罰せられるくらい失礼な態度だったと思う。

 それなのに、一瞬目を見開いてからマスグレイブ副団長は嬉しそうな顔をしたのだ。

 

「そうか。じゃあこれは談話室にでも飾ろう」

 

 最初からそうしてよ。

 訳が分からない。

 というか、初めてこの人の顔が綻ぶのを見た。

 一週間も側で指導を受けているのに、表情が崩れるところを見たことがなかったのだ。

 誰に対しても無表情か、眉間に皺がよって厳し目な顔をしている。

 それが、ほんの少しだけど笑って見えるのだ。

 固唾を呑んで見守っていた衆人環視も、初めて目にした珍しいもののように騒ついている。

 そうだ、周りに人がいたんだよ。

 

 何故! 騎士団本館の裏口の! 内部の人間の出入りが激しい場所で! 人の目がある中渡そうとするのかっ!

 

 もうまた、明日からなんて言われるのか頭が痛い。

 

 

 そして頭の痛い事態はすぐに来た。

 研修に訪れた騎士団施設の演習場と本館を繋ぐ渡り廊下で、数人の令嬢に呼び出されたのだ。

 わたしがマスグレイブ副団長に気があり、付き纏っている、と聞きつけた彼のファン達のようだ。

 逆だ。わたしが付き纏われているんだ。

 そうしてキャンキャン騒ぐ令嬢達を冷ややかな目で見る。この人達は自分の立場が分かっているのだろうか。確かにわたしは子爵家だけれども、次期当主だ。もう卒業まで数ヶ月。実家に帰れば当主代理として多少の権限を持ち、父に着いて仕事をする。

 バスラー家より爵位が上だとしても、なんの爵位もないただの令嬢が、次期当主に楯突いていいものか。

 

 そんなこと、昔のわたしも分からなかったな、と綺麗なドレスを着た令嬢達を見て思う。

 

 ぼんやりしていると、反応のないわたしに苛立ったのか、一人の令嬢が腕を振り上げた。咄嗟に避ければ、空ぶった令嬢が体勢を崩して壁に手を打ちつけた。

 と、同時に乱入者が現れる。

 

「何をしている」

「マスグレイブ副団長」

 

 彼はわたしと令嬢達の空気を感じ取ったのか、厳しい視線で彼女達を見回す。けど言ってしまえばこの状況は、あなたのせいでもあるのよ。

 

「いいえ、マスグレイブ副団長、何もありません。そちらの方が怪我をしたようなので、医務室を案内して差し上げては貰えませんか?」

「しかし……」

「お願いします」

「……分かった。君も一緒に来てほしい。私と二人きりで、彼女によくない噂がたっては困る。その後に領主候補生達がいる会議室へ送ろう」

「……分かりました」

 

 彼の言葉でわたしが次期領主だと分かった令嬢達は、少し顔色を悪くしたけど、特に何も言われずに別れることができた。そして、怪我人を医務室まで送ってから、二人で会議室へ向かう。

 

「本当に、何もなかったのだろうか。何故怪我人が出るなど……」

「ありません。強いて言うなら嫉妬でしょうか」

「嫉妬」

「わたしがマスグレイブ副団長に、取り入っているように見えるようですよ。現状、一人だけ贔屓されているようなものですからね」

「贔屓などっ……!」

「周りにそう見えるのは事実です」

 

 本人がどういった思惑なのはこの際関係ない。彼女達には、そう見えたというだけ。けれど、怪我人が出るほどの事が起こるのはよくないだろう。

 

「マスグレイブ副団長」

「なんだろうか」

「正直に言いますが、この現状を作り出したのは副団長の責任でもあります。自分でも、あなたはわたしを特別視しているのではないかと感じますので」

「そんなことはない」

「では、過去にわたし以外の女性領主候補生がいた場合も、同じことをなさいましたか? 一対一で説明し、エスコートし、食事を共に、花を与えようと?」

「っ……」

「しませんよね。してないですよね。周りが騒ぐほどの違いで、依怙贔屓はないと言えません。副団長にその気がなくとも、周りは勘繰ります。そしてそれが、どのような影響を与えるか考えていただきたいのです」

「依怙贔屓などではない。私は……」

「ですが結果はこの通り、"怪我人が出るなど"ということが起こったのです。────わたしは領主候補生です。領地を守る、生かす、領民のために生きる、その為に勉強しに来ました。正直、この状況は迷惑でしかない!」

 

 言ってることは些か強引だと分かっている。全部が全部この人の責任ではない。勘繰る方が悪いのだし、悋気を起こして怪我人を出したのは、彼女達が先走ったのが悪い。

 けれど、そうなる影響を考えて欲しいのだ。

 前世も今世もこの人は、他人に影響を与える。

 それが周りにどんな余波を起こすのか、それによってどう思う人間がいるのか。

 

 わたしがどんな想いだったのか。

 

 少しだけ、周りを見て欲しい。

 

「生意気なことを申しました。お叱りは受けます。わたしだけの罰として、これからも学びを乞う領主候補生にはお咎めなしとしていただきたい」

「いや、罰など……」

「講義に戻ります」

 

 頭を下げて会議室の扉を開く。彼は追いかけてこなかった。

 

 

 それからは、平和な日々。

 

 マスグレイブ副団長のあからさまな依怙贔屓は鳴りを顰め、周りの騒めきも収まった。たまに壁の影からの視線は感じるので、ストーカー行為は継続中らしい。それも実害がないので放置している。

 

 そして研修終了日も近づいた頃、野外での実地研修が行われる。これは害獣が出た場合や盗賊対策として、野外で武器の使い方や狩りなどを学ぶ。当然、女性だとしてもわたしも参加だ。

 マスグレイブ副団長には、大変物申したいという目で見られたが、何も言わずにその日を迎えた。

 

 

 

 野外での実地研修は多少不安はあったけど、参加者全員大きな怪我もなく無事に、森の歩き方、見回り方、武器の使い方や狩りの仕方、狩った獲物の捌き方などを学んだ。

 王都付近の森に盗賊がいるはずもなく、そこは騎士が模した盗賊の効率的な捕獲の仕方や、各所への連絡方法などを実際にやってみる。女性でも、男性を捕縛する方法があるとは驚きだ。けれど、やはり最善は逃げること。逃げて生き延びることが大事。それから対策はいくらでも考えられるのだから。

 暴漢が現れた場合、それが一番重要だ。

 どうしてわたしは、あの時逃げなかったのだろう。

 いや、逃げたのだ。ただ、それほど必死だっただろうか。わたしより、元浮気相手の方が必死に見えたから、気後れしてしまったのかもしれない。

 それほど生にしがみつけなかったのは、きっとちゃんと自分で自分の人生を生きていなかったから。誰かに敷かれた綺麗な絨毯の上をただ歩いていただけだから、それから外れても誰かがなんとかしてくれると思っていたのかもしれない。

 死んでしまったら、誰にもどうすることもできないのにね。

 

 少し自嘲気味に森の中を歩く。

 前方にはマスグレイブ副団長。今日はこのまま午前中に森を見回って、昼前には王都に戻る予定だ。

 彼はあれから不用意にわたしに接触はしなかったけれど、今日は相変わらずわたし一人に彼が指導役として就いている。

 

「バスラー嬢」

「はい」

「研修中は申し訳なかった。私のせいで迷惑をかけた」

「いいえ。こちらこそ、失礼なことを申しました。改めてお詫び申し上げます」

「いや、いいんだ。言われなければ気付かなかった。……いや、気付きたくなかったんだ」

「は? それは……」

「君は、覚えているだろうか」

 

 ドクリと心臓が鳴る。

 覚えているとは? 何のこと? もしかしてそれは、前世の────。

 

 

 バキバキッ!

 

 

 と、突然背後から木々を踏み鳴らす音がする。

 振り向けば、すぐそこまで大きな猪が迫っていた。害獣に挙げられる一種だ。

 

「バスラー嬢逃げろ!」

「マスグレイブ副団長!?」

 

 わたしの腕を引き、庇うように猪の軌道から逸らすと背中を押す。剣を抜いたマスグレイブ副団長は、わたしを隠すように立ちはだかり、片手で早く行けと指示してくる。

 慌てて走れば、背後で獣の鈍い声が響き、血飛沫が舞うのが見える。そして、副団長の腕が赤く染まっているのも。わたしを庇った時に負ったのだ。

 ドクドクと心臓が鳴る。

 害獣駆除の場に立ち会った事がないわけではない。何度見ても恐ろしいものは恐ろしい。

 

 それでも。

 

 今度の生は、精一杯生きると決めたのだ。

 自分で考えて、自分で選んで生きると決めた。

 

 領地の為に。領民の為に。

 

 わたしの為に。

 

 逃げることが正解だと分かっているけれど、マスグレイブ副団長に守られるのは違う。

 学んだ事をこの人に見てもらいたい。

 そしてわたしは、前世のわたしとは違うのだと知ってもらいたい。

 

 辺りを見回して高台に登ると、そのまま握った弓に手をかける。落ち着いて。副団長が離れた瞬間を狙って────。

 

 

 バシュッ────。

 

 

 と、マスグレイブ副団長と猪の間に距離ができたのを見計らって射った矢は、綺麗に猪の頭蓋を貫通した。横倒れる猪を見届けた副団長は、わたしの姿を見つけると走ってくる。強い力で両肩を掴まれた。そうして。

 

フェリシア(・・・・・)! 無事か!?」

 

 ああ、やっぱり。

 彼にも記憶があるのだ。

 

「どこか、怪我はっ?! 大丈夫なのか? どうして逃げなかった!? 君に何かあったら……!」

 

 常に無表情を貫くその顔。それが大きく歪んで、瞳から涙が流れ落ちる。この人のこんな顔、初めて見た。

 前世でも、今世でも。

 

「マスグレイブ副団長、わたしは大丈夫です。怪我などありません」

「どうしてっ……! 逃げるのが最善だと教えたじゃないか! 逃げないと、危険だっ……、君がまた……死んでしまったら……!」

「マスグレイブ副団長、しっかりしてください。わたしは生きてます。怪我もありませんし、どこも痛くありません。それより、副団長の方が怪我をされているではないですか」

「そんなのはいいんだっ! ()のことより君だ! 君がまた、傷ついたら……、そんなのは耐えられないっ……!」

 

 この人はもしかして、わたしの死因を知っているのだろうか。わたしはあのまま離縁して領地に引きこもってしまったし、彼からの手紙には一度も返事はしていない。

 音信不通のまま疎遠になったものだと思っていたけど、そうでなく、彼はあの後もずっとわたしを気にしていたのだろうか。

 そもそも、あの時点で彼が幸せではなかったことは分かる。その後はどうだったのだろう。伯爵家は困窮したが、一時的なものだったのか、それともそのまま……。

 いや、貴族名鑑にはちゃんと伯爵家は残っている。だからわたしは、彼はきっと人生を全うできたと思い込んでいた。

 

「マスグレイブ副団長、わたしは学んだ事をちゃんと活かせましたか?」

「え……」

「わたしの弓の腕はなかなかのものでしょう? 領地でも、褒められるんですよ。わたしは、ただ()()()()()()()()()()ではありません。もう、お姫様ではないんです」

 

 涙に濡れた彼の瞳が大きく開かれる。

 きっとこれだけで、彼にはわたしも前世を覚えているのだと分かったはず。

 

「僕のお姫様」

 

 そう言って、彼は何度も抱きしめてくれたから。

 

 わたしが微笑むと、彼はまた、今度は静かに涙を流した。そうして二人、向かい合って座り込んだまま、ポツポツと話し出す。

 

「……ずっと、謝りたかったんだ。申し訳なかった。何度も会いたいと、侯爵にお願いしたけどダメで……。それは、そうだよね、娘を裏切って、怪我まで負わせた男なんて、殺してもたりないくらいだ」

「わたしこそ、何度も手紙をいただいていたのに、無視してごめんなさい」

「いいんだ……。謝りたかったけど、許して欲しかったわけじゃない。許さなくてもいい。君はその権利がある」

「いいえ。ちゃんと向き合うべきでした。子供じゃないのだから、いつまでも逃げるべきではなかったんです。謝罪を受け取ります」

「無理はしないで。……ただ、僕が楽になりたくて謝罪したかったわけじゃなくて、謝っても許されない事で、認識を改めたかったんだ……。だから、許さなくていい」

 

 それは、どういう意味だろう。

 そもそも、彼はわたしを愛していなかったから浮気したのよね? 初夜だって、そうなのよね? 一年も白い結婚を継続したのも、浮気相手を愛していたからなのよね?

 

「けど、君の死因も結局は僕のせいだ……。許すとか許さないとかそんな話じゃない。僕はやっぱり、僕こそ、早く死ぬべきだった」

「待ってください! どうしてそんな……、そこまで……。ねえ、あなた、ちゃんと幸せになったのよね? 彼女とは……その、残念なことになっていたかもしれないけど……わ、わたしが言うことでもないのだけど……」

「まさか。……そうか、僕は君が亡くなった後に死んだから、知るわけないよね」

「あの……」

「僕は、君が亡くなった十年後に死んだよ。自殺したんだ」

「じっ……!? ……な、何故……」

 

 まさか、そんな。どうして。

 困窮はしたけれど、伯爵家も続いているし、寿命で死んだとばかり……。

 

「正確には、自殺って言わないかもしれない。当時飲んでた薬の飲み過ぎ、かな。君が亡くなって、精神的に不安定になって薬を処方してもらってたんだけど、なんだかそれが凄く楽になって、そのまま……」

 

 だ、ダメな感じの方向だった。

 でもどうして、精神的に不安定だなんて。婚約時や結婚した時にそんな兆候は見られなかった。もしかして、わたしと結婚したから? そんなに恋人を愛してた? それとも、侯爵家が追い込みすぎたから?

 

「ご、ごめんなさい……、あの、恋人だった彼女から聞いたわ。実家が、その、圧力をかけたって……。だから、領地の経営が厳しくなって、それで……」

「違うよ、侯爵家は関係ない。侯爵家からすれば、当然の報復だ。それに彼女は恋人でもない。僕は、元々そうなんだ……」

「え……」

 

 驚きに顔を上げれば、彼の困ったような笑顔が目に入る。この人は、こんなに頼りない顔をする人だっただろうか。

 

「僕の話を聞いてくれる……?」

「ええ。聞くわ」

「ありがとう。……伯爵家って、君にはどう見えてた? 厳格な両親と愛想のいい息子とで、それなりに上手くいってる貴族って感じかな」

「そうね。伯爵夫妻は厳しい方達だったけど、わたしには、難しいことを押し付ける方達ではなかったわ。ただ、今考えると表面的な付き合いだけで、あまり親身ではなかった気がする」

「うん、正解。彼らは自分達が一番なんだ。二人はよくある政略結婚だけど、厳格に見える父は外に愛人がいたし、母はプライドが高くて酷く貞淑だった」

 

 政略結婚の二人は、子供ができると父親は愛人を作り用がなければ家に帰らなくなった。母親は貞淑といえば聞こえがいいが、男女の営みに激しく嫌悪感を示す人だった。

 夫が外に愛人を作ったことも妻のプライドを傷つけ、その捌け口が息子の彼に向かった。

 息子が女性に興味を持つことを禁じ、性的な成長をする前に彼の体の管理までし始めた。初めて見たのは母親の性器で、それを罵倒しろ、汚いものだから嫌悪しろとまで言われたらしい。

 家ではそうなのに、外では誰にでも優しく紳士であれと指導される。時には鞭まで出して。

 

 なんてことだ。虐待じゃないか。

 

 ちくはぐな教育に、心と体がついてこれるはずがない。いつしか彼自身も、母親と同じ女だと思うだけで内心は女性嫌いになってしまった。

 そんな彼にも年頃になれば婚約話が持ち上がる。

 彼の婚約を決めたのは父親だった。普段は知らぬ存ぜぬを通すくせに、利益を見込んでの婚約者ができた。両親と同じ政略結婚だ。

 このまま両親と同じ道を歩むのかと、絶望しつつ会った婚約者は、この世のものとは思えないほど綺麗だった。

 何も知らない。どこも汚れていない。

 見た目だけじゃなく心も真っ白で、善性を信じて疑うことすらしない。

 そんなお姫様。

 浮世離れしていて、フワフワした空気を纏って、ニコニコといつも笑顔で、嫌なことなんてひとつも言わない、しない。

 綺麗な綺麗なお姫様。

 そんなお姫様に、惹かれた。

 

「え……」

「君だけじゃなくて、侯爵家は仲が良かった。家族も兄弟もみんな。夫婦円満で子供を大事にしてて、とても羨ましかった。君のそばにいれば、僕も綺麗なもののなかに入れると思ったんだ」

 

 彼女は宝石のような人で。

 花のような人で。

 甘くて美味しいお菓子のような人で。

 陽だまりのような人で。

 優しい風のような人で。

 

 綺麗な綺麗なお姫様。

 

 そばにいるだけで、どんどん好きになっていく。

 

 だから、触れるのが怖くなった。

 

 結婚できて幸せだった。この人となら、幸せな家庭を築ける。愛人なんて考えられない、抱き合う事を嫌悪しない、子供に鞭を持ち出さない。理想の家庭を作っていけると思っていたのに。

 初夜がダメだった。

 事前に学んだ閨の知識と、昔の虐待が思い返されて、どうしても先に進めない。だから、無理やり体調のせいにして、やり過ごした。

 そうしてずるずると一年、白い結婚のまま。

 

「……そうだったの…………」

 

 どうして話してくれなかったのか、なんて言えない。それすら、きっと彼には拷問に近い責苦に違いない。

 けど、じゃあどうして、恋人は?

 

「恋人じゃない。恋人のような関係でもない。そんなこと一瞬だってありえない。ただ、一年経って、このままじゃいけないと、何度も思ったんだ。君に打ち明けて、でも、受け入れてもらえなかったら……。そんな時に、本当に女性が苦手か試してみるかと持ちかけられて」

「……彼女は、あなたが女性嫌いなこと、知っていたのね」

「言い寄られた時の断り文句でね」

「……それで、試したから?」

 

 あの現場だった?

 

「違うよ。断った。彼女には昔から言い寄られていて、その都度断り続けていて。最初は余裕がある様子だったけど、だんだんしつこくなってきて……。それで、遂に、鬼気迫る様子で君にこのことを告げられるか自分と寝るか選べ、と」

「そう……」

「抵抗したら、薬を盛られた」

「え……」

「彼女、裏で使用人と通じてた。自分が伯爵夫人になるからって、その時には優遇するからって。それもこれも、全部僕が悪いんだよね。……知らなかったんだ。初夜をしない、夫婦の営みを行わない妻が、使用人からどう見られるのか。きっと、母もそうだったんだと思う。それに気付かなくて……」

「そんなの! 気付くわけないわ!」

 

 わたしだって、今だから分かることだ。当時はなんだか使用人の態度に差がある? 程度にしか気付いてなかった。家を守る夫人(わたし)がそうなんだもの。そんなの、外に仕事に出てる()が分かるはずがない。

 

「君をすぐに追いかけたかったのに、薬のせいで自由が利かなくて、気付けば離縁が整って君は領地に戻ってた」

「酷い薬だったの!? 体は大丈夫だったの?!」

「ありがとう、大丈夫だよ。二、三週間で元に戻ったから。でも、君を助けられなくて怪我を負わせたし、君とは二度と会えなくなってた」

 

 酷すぎる。

 そんな理由なら……。いえ、当時のわたしならどんな理由を掲げられても、きっと彼には会えなかった。

 それだけ、わたしは弱かったのだ。

 

 その後は、元浮気相手……いいえ、人に薬を盛るなんて犯罪者だ。わたしを殺したし。

 その犯罪者の言う通り、侯爵家からの報復で領地は困窮した。苦しかったけれど、彼の父親も領地の隅に別荘を建ててそこに追いやれたし、母親は精神不安定になったと同時に治療院に押し込んだ。遠縁から養子を貰って、その子が成人するまで十年。

 そうして彼も、息を引き取った。

 

「どうして……」

「なにがだい?」

「どうしてあなただけ……酷すぎる。わたし、どうしてあなたに寄り添えなかったの……。どうしてあんなに弱かったの。お姫様なんて何の役にも立たないわ」

 

 結婚する時に誓ったのに。

 あなたを幸せにするんだって。二人で幸せになるんだって。

 

「そんなことないよ。僕は君と出会って別れるまでの数年間は幸せだった。きっとあれを本当の幸せって言うんだ。穏やかで落ち着いて、君が愛しかった」

 

 愛しい。

 ああ、わたしは、彼に愛されていたんだ。

 ちゃんと、わたしを愛してくれていたんだ。

 彼の心はわたしのものだった。

 浮気なんてしてなかった。

 

 ほろりと、一筋の涙が溢れる。

 

 これはフェリシアの心だ。

 前世を思い出してから、ずっとどこかで引っかかっていた気持ち。やっとフェリシアとわたしがひとつになった気がする。

 

「でも、汚ない僕はやっぱり君に相応しくなかった。君と一緒にいれば、綺麗でいられると思った。その中に入れると思ったけど、そうじゃなかった。だから、許さなくていい。僕は許される人間じゃない」

「エディ……」

 

 今世になって、初めて名前を呼べば、彼は泣きながら嬉しそうに笑う。

 

「僕はそういう(汚れた)人間だって、許されないことで納得したいんだ」

 

 そんなことはない。

 汚れた人間なんかじゃない。彼はそんな人じゃない。

 自分が嫌だと、汚いと思う人間にならないようにと、苦しくても我慢してしまう人だ。

 彼こそ、高潔であろうとしている人だ。

 

 そんな彼だからこそ、いつまでも昔に囚われてほしくない。だってわたし達、今を生きているんだ。お願いだから、今度こそ彼にも幸せになって欲しい。だってわたしは死ぬまで幸せだった。裏切られたと、恋心を押し殺して生きていたけど、思い出すのはエディとの幸せだった記憶だ。

 だからマスグレイブ副団長と、前世の話はしたくなかった。また引きずられてしまうようで。

 

 もう、お互い囚われるのはやめよう。

 わたし達は今を生きているんだ。

 

 立ち上がり、わたしを見上げる彼を見据える。

 

「マスグレイブ副団長」

「フェリシア……?」

「起立!」

「!」

 

 大きく叫べば、彼も立ち上がって直立する。騎士として、条件反射というやつよね。

 騎士がするように、右手を心臓に当てて、宣誓する。

 

「マスグレイブ副団長! わたくし、イルメントルート・バスラーは、本日まで副団長に師事し、ご教示いただいたことを深く感謝いたします! あなたほど、誠実で真摯、実直、真面目で高潔な方はいない!」

「……フェリ…………?」

「わたくしは、マスグレイブ副団長にこれから先、未来永劫深い尊敬を持ち、あなたの教えを遵守し、必ずや領地を守ってみせます! これからのわたくし達領主候補生を見守っていてください!」

 

 わたし達には未来がある。

 お互い、もう前を見よう。

 前を向く努力をしよう。

 あなたの教えで培われたわたし達の知識と経験で、きっといい領地にしてみせる。

 だからお互い、別の道を進んで行きましょう。

 

 わたしの決意は揺るがない、そんな気持ちで彼を見つめていると、フッと口元が一瞬緩んだ。そして、次には"マスグレイブ副団長"の顔になる。

 

「バスラー嬢、怪我はないな」

「ありません」

「では、宿舎まで戻ろう。そろそろ王都に向かう時間だ」

「はい!」

 

 それから何事もなく、わたし達領主候補生は王都に戻り、騎士団での研修も終わった。最後はストーカー行為もなくなっていたので、彼の中でも変化があったのだといいなと思う。あのストーカーは、やはりわたしが殺されたことに関係していたらしい。

 

「君の安全と健康を今度こそ守りたかった。でも結局、僕のせいで絡まれていたけど……」

 

 と、苦笑していた彼は、少しだけスッキリしているように見えた。

 そうして無事に学園は卒業し、わたしは意気揚々と領地に帰った。これからは、父に倣って領地を守る。マスグレイブ副団長への言葉に嘘のないように。

 婚活に関してはもう暫くはいい。ちょっと前世の話でお腹いっぱい。

 それにこれからは、仕事を覚えるのに忙しくてそれどころじゃないだろうし、縁があればそのうちいい人と出会えるだろう。貴族令嬢より、次期領主の方が有望な人と巡り会える機会も増えるもの。

 

 

 

 なんて考えていたわたしは、やっぱり甘かった。

 

 

「い、イリー、イリー! ちょっと、降りて来なさい! 早く!」

「お父様? どうしたの?」

 

 学園を卒業して数週間。

 新たな年度が始まると共にこれから冬がやってくる。領内でも、新年度を迎え色んな場所で様々な変更が行われていた。

 今日は書類仕事を習う予定だったのにな、なんて呑気に書斎から玄関ホールへ向かうと、両親と家令が困ったように立ち尽くしていた。嫌だ、お客様がいらしてるのに、そんな大声を出して。子爵といえどウチは小さい屋敷だから、声が響いてしまうのだ。そして開かれた扉の向こうには、ひと月見慣れた姿があった。

 彼はわたしを見とめると、ピシッと直立して口を開く。

 

「バスラー嬢、久しいな。息災だろうか」

「マスグレイブ副団長……、お、お久しぶりです。はい、つつがなく……」

「それはよかった」

 

 え、なんなのその笑顔は。

 そんなの、研修中だって見なかったわ。

 

 わたしが呆然としていると、父がおずおずと話しかける。

 

「あの、マスグレイブ副団長様が、何故こんなところに……?」

「ああ、本日付けでバスラー子爵領の騎士団に派遣されました、ギルベルト・マスグレイブです。領主ご家族にご挨拶に伺いました」

「はあ!?」

 

 思わず、本当に思わず口から淑女らしからぬ声が飛び出てしまった。

 何故!? なんで!? どうして? 

 騎士団副団長なんていう方が、こんな小さい領地の子爵領なんかに来るのよ!?

 

「お、お待ちください、マスグレイブ副団長様! 何故騎士団副団長ともあろうお方が、このような子爵領に……」

「異動申請したら通りました。子爵領の騎士団は、これから私が指揮指導していくこととなります」

「な、何故こんな……い、異動申請を……」

 

 お父様もわたしと同じこと言ってるわ。

 そんな父を横に、マスグレイブ副団長はわたしに向き直る。

 

「君が言ったんだ。私の教えを遵守し、領地を守るから見守ってくれ、と」

「イ、イリー! お前、そんなことをマスグレイブ様に言ったのかい!?」

「い、言いました。言いましたけど、それは比喩です! これから先の話で、わたし達領主候補生を見守ってくれと、広義の意味で言いました。個人的にだとか子爵領をということではありません!」

「うん、そうだな。けれど、もう申請したし受理されて私はここに来た。今更変更はきかないし、これからよろしく頼む。いや、よろしくお願いします。では早速、領地の警備について御当主と確認したい」

「あ、ああ、はい、そうですね。では執務室へご案内いたしますので……、少々お待ちくださいませ」

 

 な、なにを、堂々とのたまっているのこの人は……。領地にまでストーカーしてくるなんて。

 両親は慌てて会議の準備をしにその場を離れ、残されたのはクラクラする頭を押さえているわたしと、マスグレイブ副団長のみ。

 

「何故……ここに……」

「異動申請をしたから」

「それは聞きました。そうではなく、何故ここに異動など?」

「君が言ったから」

「またなの? 今度は何でしょう。わたしはマスグレイブ副団長の出世を阻むような事を……」

「未来を見てほしい」

 

 え?

 

「君が言った。未来永劫領地を守ると。だから見守ってくれと。君がいるここはきっといい領地になる。私はそれを側で見てみたい」

「マスグレイブ副団長……」

「君の側で見ていたいんだ。そしてそれを、助けたい」

 

 守るのではなく、助け合う。お互いに協力し合って。

 以前できなかったことを、やってみたい。

 そう笑うマスグレイブ副団長が眩しくて、何も言えなくなってしまった。

 

「こんなところに異動して、出世に響いたらどうするんです」

「上昇志向はないんだ。ただがむしゃらに騎士として仕事を遂行していたら、いつの間にか副団長になっていた」

「小さな領地の平凡な土地です。暇すぎて時間を持て余すかもしれませんよ」

「そんなのは怠け者の台詞だろう。仕事なんて、探せばやることはいくらでもある」

「後悔しませんか?」

「私が選んで望んだ」

 

 そうか。彼は自分で先へ進もうとしているんだな。

 

「そういうことなら。正直言いますと、副団長がいてくれるのは大変心強いです。助け合いましょう。これからよろしくお願いします!」

「ああ、よろしく」

 

 お互いに手を取り合って固く握手を交わす。

 次期領主と、その領地の騎士団として、それぞれの道を歩いて行こう。そう固く決意して安心したのも束の間、いつまで経っても手が離されない。

 

「あの、マスグレイブ副団長? 手を離していただきたいのですが」

「うん。ひとつ言っておきたいことがあってな」

「何でしょうか?」

「実は、ここに異動を申し出る時の話で、私が君を追いかけて来たことになっている」

「は?」

「研修中の事が、団長にまで届いてしまって。私が君を嫁取りしたいのだと……そういうことなら娶るまで帰ってくるなと団長に言われた。だから、よほどのことがなければ、私の異動は今後ありえない」

「はあ!? あ、あれは、一時の気の迷いでしょう? ま、前のアレと混同した上での奇行ではないですか!」

「一概には言えない」

「えっ……」

 

 そ、それは、もしかして、わたしを、とか言う?

 待って。ちょっと待って。

 お互い前を向こうと決めたじゃないか。それぞれの道を歩もうと。それがどうして。

 

「君に拒絶されるのが嬉しかった」

「へ、変態ですか」

「違う。君は、私が何を言っても何をやっても、拒否しなかっただろう。私を否定したことがない。あの時はそれがとても嬉しかった。私のような人間が受け入れられているのだと」

「私のような、なんて言わないでください」

「うん。それもいい」

 

 な、なんなんだ。言うな、なんてダメ出ししたのに、なんで嬉しそうなんだ。この人そういう変な趣向があったの? それともあまりにも過酷な人生で、少しおかしくなってしまったのか。

 

「君がいなくなって、初めて白百合が嫌いだと知った。嫌いなのに、私の気持ちを慮って笑顔で受け取っていてくれたのだな。それで、歓喜と同時に申し訳なくなった。私は君を見ようとしなかったのだな」

「それはマスグレイブ副団長が謝ることではありません。誰でも言われなくては分からないものです。わたしが言わなかったんです」

「うん、そういうハッキリしているところもいい。君に白百合を拒否されて、私とは違うところがいいと思った。私のように過去に囚われていない、前を向いて自分を貫いてる姿に好感を持った」

 

 マジか。

 この人、本当に、また、わたしを好きになってしまったのか。

 でも、それでは、本末転倒では……?

 

「君はやっぱり、過去も今も私とは真逆で、そういう君がいいと思う」

「お待ちください。大変申し訳ありませんが、わたしにはそういった気持ちはありません。お言葉はありがたいのですが、受け入れる気はございません」

「うん。でも嫌いなわけではないだろう? 迷惑でもない。なんだかんだと、私の奇行を許していたお人好しなところは、つけ入る隙がある」

「つ、つけ入る隙とか言います!? 奇行だと分かってたのならやめて下さいよ!」

「それはできない。君の安全には変えられない」

「誰のせいで絡まれたと思ってんだ!」

 

 淑女にあるまじき怒鳴り声をあげてしまうと、彼は破顔して声を上げて笑った。

 

「うん。やっぱり、そういうところがいいな」

「どういうところなのか分かりません! 副団長なら引く手数多でしょう!?」

「残念ながら、前世の影響なのか女性は嫌いなんだ。君にもそういうのはないか?」

「それは……、あります、けど……」

 

 わたしの場合は、男女間の恋愛事に不得手なところだろう。誰かに心を寄せるということが、とても苦手だ。どうしても一線引いてしまう。記憶を思い出してから、前世の影響だと自分で納得している。

 

「だが、君なら大丈夫なんだ。二人きりでいるのも、会話するのも、手を握るのも」

「っ……!」

 

 そう言われて、まだ手を握ったままだったのだと気付く。慌てて離そうとするのに、彼は強く手を握って離さない。真剣な表情で、ゆっくりと近づいてくるのに身動きがとれない。

 

「イリーと呼んでも?」

「え……。っ、だ、ダメです! それは親しい人だけの愛称です!」

「ははは。そうか、じゃあ親しくならなければ。なに、時間はある。これからもっと親しくなる為に君に尽くそう」

「そ、そういう誤解を招く言い方はよしてください!」

「どうして? 管轄の領地に尽くすのは騎士の勤めだ。なあ、次期領主殿」

「!」

 

 ちゅっと握った手に口付けされて、頭がオーバーヒートしそうだ。わたしの真っ赤になった顔を見て、彼は嬉しそうに笑っている。

 ちょっと、キャラ変わりすぎてない?!

 こんな人だった?

 でも、なんだか、初めてエディじゃない、マスグレイブ副団長(彼自身)の笑顔を見たようで、胸が温かくなる。

 いいえ! 負けてはいられない。流されるわけにはいかないのよ!

 

 

 

 

 

 なんて思っていたけれど、結局数年後、彼はギルベルト・マスグレイブからギルベルト・バスラーとなる。

 女領主であるわたし、イルメントルート・バスラーの入婿となり、一生涯子爵領の治安維持に貢献した。

 

 そうして、わたし達は五人の子宝に恵まれ、前世では考えられないほど慌ただしくも幸せな毎日を送ったのだった。

2023年3月4日恋愛ジャンル日間ランキング1位になりました。嬉しかったので記念に書いておきます。エヴァンスの方が3位最高だったので本当に嬉しい。

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