電車で5分、日常からのプチ逃避行
夢を見た。
学校へと向かう、いつもの電車の中。
既に眠りの中だと言うのに、なぜか夢の中でも眠り込んでしまっていた。
気づけば、いつもの駅を乗り過ごし、夢の中でハッと目を覚ました。
見渡すと、そこは見知らぬ山の中だった。そして、一面が紅葉の絶景だった。
動画や写真の中でしか見たことのない――否、それ以上に極上で、胸に迫る、圧倒的な秋色の稜線。鮮やかな、朱と黄金のモザイク模様。
電車の窓という窓が、その景色で埋め尽くされていた。
電車がレールを進むたび、朱金の木々が、わずかに角度を変えながら、横に流れていく。
硝子一枚隔てた向こうは、色鮮やかな紅葉黄葉の洪水。
まるで、絢爛豪華な万華鏡の中を、電車の速度でくぐり抜けて行くようだった。
目覚めた後も、しばらくは、ぼんやり余韻に浸っていた。
それくらいに美しく、幸福な夢だった。
学校に向かういつもの電車は、現実では憂鬱の象徴でしかない。
毎朝通る改札も、ホームも、もはや見慣れた車内風景も……何もかもが、学校へと続く導入場面。
僕の気分を重く沈ませる。
必死に勉強して、入りたくて入ったはずの学校だ。それなのに、気づけばもう、厭きている。
自分には高望みな学校で、合格できた時は走り回って喜んだ。なのに……気づけば、選んだことを悔やんでいる。
自分には合わない、ついて行けない――そのことに、入ってしまってから気がつく。
だが、もう今さらどうしようもなく、卒業までの日数を思っては、毎度、気が遠くなる。
電車の席に座ってまずすることは、学校指定の参考書を取り出し、小テストの勉強をすることだ。
悪い点だと、ペナルティで居残りがある。だから、必死にならざるを得ない。
ペナルティ自体も最悪だが、それで周りに成績がばれるのは、もっと最悪だ。
見渡せば、車内には同じ参考書を広げる人間が、ちらほら見える。
皆、本にばかり目を落とし、窓の外も、車内の風景も、近くにいる同校生の顔すら見ない。
学校に着いてからも、似たようなものだ。皆、勉強が第一で、友情は二の次。
僕が選んだのは、そういう学校だった。
いつでも意識の片隅に、学力の階級構造が潜んでいる。
成績なんて気にしていない素振りで、実は密かに相手の実力を気にしている。
テストの学年順位が自分の存在価値そのものな気がして、その上下に一喜一憂する。
努力すれば、その分“上”に行けるなんて、そんな単純なものではない。
僕の努力以上に周りが努力していれば、結局は頑張り負ける。
そもそも頭の性能が元から違っていれば、並大抵の努力では追いつけない。
入学以来、僕の成績は、真ん中から下を乱高下してばかりだ。
元々が高望みな学校でも、もう少しは何とかなると思っていた。
何とかなると思っていられるうちは、まだ希望を持っていられた。
人が希望を失うのは、未来が見えない時と、未来が見えてしまった時、どちらなのだろう。
僕は、その両方だ。
自分の未来が何となく見えてしまって、だから未来が見えなくなった。
幼い頃は夢見ていられた“無限の可能性”が、今はもう見えない。
自分の限界がうっすら見えてしまって、将来の夢が急激に萎んでいく。
こんな僕が、将来何になれると言うのか――不安ばかりが膨らんでいく。
もう半ば諦めの境地で、余生のような気持ちで過ごしている。
だが、のんびりできるわけではない。
宿題も予習も容赦なく襲って来るし、休日にさえ模試の予定がねじ込まれる。
気づけば毎日、勉強しかしていない。
報われないと分かっている努力を、周りについて行くためだけに続けている。
誰かとの“差”を知るたびに、無力感に苛まれる。
テストの結果が返ってくるたびに、空しさが増していく。
心はずっと重く沈み込んだまま、浮かび上がる余地も無い。
電車の椅子に深く身を沈ませて、夜見た夢を思い出す。
頭の中で反芻して……その山々の雰囲気が、いつか何かで憧れた、実在の風景に似ていると気づく。
湖を横切る赤い鉄橋。その真ん中の島に浮かぶ、奥大井湖上駅。
碓氷峠の鉄道文化むらから、廃線跡の道を辿って行く、煉瓦造りの旧鉄道橋“めがね橋”。
いつか行くことを夢見ていた、鉄道にまつわる風景。
深い自然と、レトロな鉄道施設とが織り成す、ただ美しいだけではない、情動的な光景。
記憶の中に埋もれていたその断片が、合成され、数十倍に美化されて、夢の中に現れたようだ。
そう言えば、昔は列車の旅が好きだった。
幼い頃は、電車など滅多に乗れなかった。だから、それに乗れたというだけで、特別な非日常感があった。
今はそれに毎日乗っているのに、何ひとつ心が動かない。
開いていても全く頭に入って来ない参考書から目を離し、目蓋を閉じてみる。
憂鬱な通学電車も、車輪から伝わって来る振動は、ゆるやかで心地良い。
このまま眠り込んでしまえば、あの夢の中の絶景に着けないだろうか――そんな、あり得ないことを思う。
このレールの先が、あの美しい景色に繋がっていれば良いのに――そんな、あるはずもないことを願う。
ほんの一睡もできないまま、次の駅を告げるアナウンスが聞こえてくる。
いつもの降車駅。学校の最寄り駅の名だ。
そろそろ降りる準備をしなくては、と思う。だが、目を開けたくない。
心が、あの紅葉の夢に囚われたまま、目を開くことを拒否している。
現実に戻りたくない。目を開けて、瞳に現実の風景を映したくない。
それは、衝動的な逃避だった。
目を閉じたまま、眠り込んだ振りをして、降りる駅をやり過ごした。
誰にも声を掛けられないまま、電車のドアが閉まる音を聞いた。
ようやく目蓋を上げてみれば、列車はもう駅を通り過ぎていた。
やってしまった、という思いと共に、胸が激しく脈打つのを感じた。
毎朝通る、通学路沿いの建物を、道とは真逆の、線路側から眺める。
これまで一度も見たことのなかった“裏側”の景色。
建物の合間からは、同じ制服の生徒たちが見える。まるでゾンビの群れのように、虚ろに一方向だけを見つめ、ぞろぞろ歩いていく。
僕もいつもはあの群れの中、疲れた気持ちで学校へ向かっているはずなのに……。
僕だけが、皆と違う、非日常の世界に迷い込んだ気がした。
日常の通学路の風景が、車窓の外を横に流れ、あっと言う間に消えていく。
さすがに、次の駅に着いたら降りなければと、ぼんやりした頭で思う。
逆方向の電車に乗り換えて、元の駅に戻らなければ……。
頭の中ではそんな風に、現実的なことを考える。
だが、次の駅までは自由だ。
この路線の、次の駅までの間隔は、およそ5分。
帰りも含めると、往復10分。電車の待ち時間も入れると、もう少しかかるだろう。
たかが数十分。
だが、その数十分の間だけは、テストのことも学校のことも考えず、心を自由に解放しておける。
もう参考書さえ鞄に仕舞い、窓の外を流れる街並みに見入った。
さすがに、あの夢の中のような絶景は見当たらない。
だが、初めて見る通学路線の“その先”は、それだけで新鮮に見えた。
この辺りではありふれた稲田の景色さえ、何か違ったものに見える。
知らぬうちに田の色が変わっていることに、今さら気づいて、はっとする。
もう、こんなにも秋が近づいているのに……参考書にばかり気を取られて、まるで気づいていなかった。
学校へ行って帰るだけの、狭い世界の“外”にあった、知らない景色。
何だか、とんでもない冒険をしているような、不思議な感覚だった。
わずかな背徳感と、ゾクゾクするような緊張感。
次の駅で降りるのも、初めての経験だった。
駅にもいろいろ特色があり、この駅は随分アットホームな雰囲気なのだと知る。
小さな駅のせいか、利用客はほとんど見当たらない。
ホームの隅には花の咲いたプランターが並び、ベンチには手作りらしき座布団が縫いつけられている。
そんな些細なものが、何だか物珍しく見えた。
古びた階段を上り下りし、反対側のホームに立つ。
次の電車までは、15分ほど待つようだ。
時間を持て余して構内をぶらついていたその時、自販機の中に、あるものを発見した。
毎日のように飲んでいたのに、学校の自販機コーナーからは消えてしまった、お気に入りのパック飲料。
お前、こんな所にいたのか――心の中で、そんな風に呼びかけながら、久々のそれを手に入れる。
帰りの電車の中、行きとは逆向きの風景を眺めながら“言い訳”を考えた。
つい寝入って、乗り過ごしてしまった――そう言えば、うっかり者のレッテルを貼られ、馬鹿にされるかも知れない。
だが、ありがちなミスとして、特に疑われることはないだろう――そんなことを考える。
突発的で、ささやかな、ほんの数十分間のエスケープ。
戦利品は、もう飲めないと思っていたジュース1本と、1区間分の新しい風景の記憶。
夢の絶景には遠く及ばない、ほんのわずかな収穫だ。
だが、それでも、沈みきっていた心を、ほんの数十センチ浮上させることはできたようだ。
車窓を流れる景色に、夢で見た壮大な山景を重ねながら、ぼんやりと思う。
この路線には無くても、日本のどこかの路線には、あんな絶景が存在するかも知れない。
いつか、それを探して、見に行くことはできるだろうか。
将来就く仕事だけが“夢”ではない。
未来がほとんど見えた気がして、将来をろくに思い描けなくなった。
そんな僕にも、そんな未来を夢見ることくらい、許されるだろう。
夢の中ほどの絶景でなくても、いい。他人に自慢できるような、豪勢な旅や特別な旅でなくても、いい。
それまでに見たことのない景色、日常とかけ離れた風景であれば、それでいい。
そんな場所を旅できたなら、きっと僕の心はまた浮上するだろう。
見慣れた電車の車体の中で、束の間、そんな夢想に浸る。
いつか、見知らぬ列車に揺られ、見知らぬ景色に夢中で浸る――そんな自分を、夢に見る。
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