第2章 2-05
「なあ、アリスよ」
「ん、どうした鈴木代理」
「代数と幾何、ってなんだろな」
「おいおい、反転の影響で脳が逆回転でもしたか」
「いやいや、いや、まあ、そうかも知れんが」
「まあいい、まだあわてる時間じゃない、言ってみろ」
「それじゃあ質問するけどな、あのな、代数と幾何って、何だろうか」
「それぞれ、数学の一分野だな」
「うん、そう。いやいや、そうではなく」
「何だ、もっと具体的に言ってみろ」
鈴木は少しの間、何事かぶつぶつ言っていたが、やがて話がまとまったようだ。
「例えばなんだが、2つの話を考えてくれ」
「ふむ」
「まず、Aの話はだな、”数字の3と、三角形”だ」
「うむ」
「次に、Bの話は、”数字の3と、四角形”だ」
「ほう。それで?」
「何と言ったらよいか分からないのが、AとBの話を見比べるとき、”Aの方が関係性が強い”と思うのだが。しかし一方では、それは間違った感じ方、というか、”AとBの関係性に強弱はない、むしろどれも無関係”という気もする。それでもう、何が正解か分からなくなってしまってな」
「む。その話は、私の開発段階で解決済みではなかったか? 社内の記録じゃ、解決済みになってるぞ」
「いやまあ、そうだったかも知れないが。ちょっと別の角度から考えてみたいので」
「そうか、鈴木代理にしちゃあ、なかなか感心だ。よしいいぞ、続けたまえ、鈴木代理。裏宇宙に到着はしたが、なに、あわてて探検する必要もあるまい。続けたまえ」
「続けたまえ、じゃなくてな、アリスよ。お前の頭脳なら、一瞬で正解を教えてくれると期待していたんだが」
「そりゃまあ、正解っぽいことなら、もちろん有るな。だがな鈴木代理よ、何でも外部に答えを期待するってのは、感心しないぞ。私を便利なネット検索エンジンか何かと勘違いしてないか。まあ確かに、社内記録の検索はしたが」
「そう言うと思った。ほんと、課長そっくりだな、お前は」
「母は偉大だ、お前も尊敬するがいい」
「分かっている、尊敬してるよ」
「ならばよし、続けたまえ」
「はあ、仕方ない。またも頭脳労働ってことだな、やれやれ。だがアリスよ、私は思考の限界に達していると思うから、少しでいいから手伝ってくれないか」
「仕方ない、少しだけ手伝おう。まず最初に、ズバリ忠告するが、お前はいま、思考の限界と言ったが、これは思考で答えは見つからん類の問いだぞ、いつものことだがな。というより鈴木代理。私が設計されたとき、思考には限界があるとプログラムしたのは、これまたお前だったはずだが」
「すみません。そういえばそうでした」
「よし、一歩前進だ。どんどん続けたまえ。あ、そうそう。時間節約のためにもう一つ忠告するが、代数と幾何の両方を明らかにする必要はないぞ。どちらか片方で足りるからな。簡単な代数の方にしとき」
「何だって? 片方で足りるとな。もしや、代数と幾何は同じものだというのか」
「おいおい、そんなんじゃあ、数学0点だぞ。もちろん両者は違う。片方だけ見れば済むってことだ」
「わかったよ。それじゃあまず、初歩的なところから再出発もやむなし、という事で進めていいか」
「いいだろう」
「じゃあ、はじめに数字の1とか、2とか、3だな。最初から結論としてまとめると、数字は人間の認識に特有の概念、ということだろう。何せ、この世の中のどこを見ても、数字に相当するものは見当たらないからな。まあ、本当はそれはあるけれど、人間には見えてないだけかも知れん。仮にそうだったとしても、いつも使っている例の例え話ならこう言うだろうね。リンゴが1つ、みかんが2つと言うけれど、リンゴやみかんの例えを使わずに数の本質を説明せよ、そう言われると返答に窮するというやつだな」
「うーん。その調子だと予想より時間がかかりそうだな。まだ慌てる時間じゃないとは言ったが、一応、作戦行動中だし時間を節約しようか、鈴木代理」
「よ、よろしく」
「(A)リンゴやみかんが何個とか言ってるときの数とは何か、この疑問と、(B)物の例えを使わない数の本質とは何か、この二つの疑問、(A)と(B)の両方の疑問をよく観察してみろ」
「数とはなにか、と、数の本質とはなにか、か。あれ? もしかして同じもの?」
「同じものというより、同じ疑問だな。おっと、思ったよりも時間がなさそうだ、鈴木代理。君の中では答えは出ているだろうから、ちょっと巻きで行くぞ。数の本質は何か?という質問を我々はしているが、”数”と”本質”をつなげてはダメだ。数も本質もそれぞれ、我々の精神の性質の一つだが、どちらも具体的な物理現象がない。だからその2つを足そうが引こうが、具体的な答えにならない。逆にリンゴやみかんの数、とかリンゴやみかんの本質、のように、具体的な物理現象ならば、経験則から答えが出る可能性もある。もっとも”本質”という概念は虚だから答えも虚ろなものにしかならないが」
「そうか。となると、数も図形も、極端なことを言えば、ツールとして使えればそれでいいだろう? それ以上のこと、数や図形の本質、なんてものは必要ないし存在もしてないだろう、ということか」
「少なくとも、今の我々にとってはそれでいいだろう。時間切れだ、向こうから誰か来たぞ」
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この会話からさかのぼること10分前。
「宇宙船、発射ぁ!」
レトロ感漂う(そして、宇宙船が苦手な鈴木代理の半ば恐怖に引きつった)掛け声で、反宇宙探検隊は出発した!
しかし、何も起こらなかった! 宇宙船も乗組員も、1mmも動かない…いや、何かは起きたようだ。
「アリス…今何かと、何かというか、誰かと擦れ違わなかったか?」
「それは、反宇宙の我々に決まってるだろう」
「え? なぜそんなことが?」
「なぜも何も。ん? まさか。鈴木代理は反宇宙がどこにあると思っていた?」
「えっと、150億か300億光年くらいの遠くかと」
「いあいやそこも我々の宇宙の一部だから。もちろん反宇宙は、我々の宇宙の反対側というか、裏にあるのだ」
「裏って何だ。というか裏ってどこだ」
「何だ、鈴木代理、裏も知らんのか。学校に行く前の子供だって知ってるぞ」
「いやいや言葉としての裏はわかるが。もしかすると鏡の中ってことか」
「我々の宇宙での鏡像は、あくまで我々の宇宙の中の物理現象だ。反宇宙とはちがう」
理解していない鈴木代理(と、賢明にも沈黙を守っているセレスティア女史)を見て、アリスが補足する。
「いやいや、あー、すまんすまん。頭の回転が鈍い鈴木代理には説明が必要だったか」
「・・・お願いします」
「反宇宙の話で裏というとき、通常の裏の意味とは少し違う。例えばここに一枚の紙があるが、表面があり、そして裏面があるな?」
「そうだな」
「しかしだ。よくよくこの紙を見てもらえば分かるように、紙の表面、裏面というのは、実際は厚さ100μmほどの、セルロースできた極端に薄い直方体の上下2つの面を指しているに過ぎない。だから本来、紙には別段、表裏の区別はない。いいかな? 裏の裏は表だ」
「そうだな」
「しかし、我々の宇宙と反宇宙の関係は、原理的にそうじゃない。実際は虚数軸上でいくらかの厚みで接しているはずだが、まあ、こう表現していいだろう、反宇宙は我々の宇宙の幾何学的な裏にある。どうだ、イメージがつかめたか?」
「幾何学的な裏とな?」
「そうだ。比喩的にあるいは近似的に言えば、だ」
「幾何学的な裏、ってのは、厚み0の平面をこちら側から見たときに、その逆方向から見た裏側ってこと?」
「そう表現すると分かりやすいだろう?」
「幾何学的な裏・・・って。それだと、反宇宙には実体がないってことにならないか?」
「いやいやそうじゃない、反宇宙は我々の宇宙の幾何学的な裏にある、ではない。幾何学的な裏と言えるような位置関係にある、だ。第一、反宇宙に実体がないなら、じゃあ、今我々がいる場所はどこなのさ、ってことになるだろ」
「実は我々は、我々の宇宙から移動してなかったとか?」
「誰かとすれ違ったと言い出したのは、お前なんだが」
「そうだった。あれは普通の感覚じゃなかったな。というより、かつて経験したことのない感覚だった」
「我々と宇宙船を裏返したのだから、普通でないのは確かだな」
「裏返した? 大丈夫なのか、我々は」
「裏返しには大した影響はないだろう。何しろ、あちらのアリスとシンクロして作業したからな。フライパンの上で卵焼きをひっくり返すときに、2本のフライ返しで両面をひっくり返した、みたいなもんだ。きれいにひっくり返せた」
「あちらのアリス、って誰だ。反アリスってことか?」
「まあそういうことだ。もっとも向こうのアリスにとっては、私が反アリスだがね」
「そうすると、さっきすれ違ったのは反鈴木一郎か。なるほどね。幾何学的な裏、幾何学的な反人間。何だか恐ろしい気がする」
「恐ろしいことなんてないだろう。生まれてこの方、苦しい時も楽しい時も、ずっと一緒に生きてきた相方だからな。まあ、背中合わせなんで、お互い認識はできないが」
「そういうものなのか」
「そういうものだ」
セレスティアさんのツッコミが入る。
「しかしアリス様、先ほど、向こうのアリス様とシンクロしたと仰ってませんでしたか」
「はい、そうです。実はこの相方との連絡手段というものはあるのです。そして人は誰しも、この相方と通じることができるのです。というより、無意識にはいつでもコンタクトしているのですが、意識していないだけなのですね。しかもこの相方、本来は一人だけではなく、それこそ無数にいるようなのですが、今回は、問題になった2つの宇宙との間だけで反転移動しております」
「まあ、それはとても興味深いことですわ」
鈴木代理は、二人の会話から取り残されているようだったが、アリスはミッションに支障なしと判断した。
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「おや、皆さん。まだ出発していなかったのですか」
きっちりスーツに身を包んだ、三十路過ぎのイケメンが3人の乗る宇宙船に近付いてきた。反応できない2人に代わって、アリスが会話する。
「御代課長でしょうか?」
「ええ、そうです、御代ですが、あなた方は・・・。あっ、まさか反アルス君ですか?」
「はい、名前はアリスと申します」
「何と! するとこちらの紳士が鈴木代理ですか、男性! ちょっ」
御代と名乗るイケメン紳士は、突如、笑い転げた。
「失礼、そうすると、そちらの女性が・・・」
「はじめまして、御代課長。宇宙連盟のセレスティアです」
「大変失礼しました。営業一課の御代です。すみません、あなたのあまりの美しさに圧倒されまして」
彼が頭を下げた。一方のセレスティア女史は、こういう男性の反応には慣れっこなのか、それほど気にしてはいない様子か。おや、そうでもないのかな。少し動揺している感じがする。
「セレスティアさん、何か問題がありましたか」
「い、いえ、鈴木様、何でもありません、問題はございませんわ。ただちょっと、御代様のお顔が帝に似ていましたので」
「帝、みかどですか、ああ! 古代の天皇陛下ですか」
「ええ・・・」
何となく、この二人の間に微妙な雰囲気が流れている気がする。二人を見ているアリスも微妙な表情をしている。何か思うところでもあるのだろうか、三者三様に。
「いやいや、待ってくれアリス、なんで、性別が逆転しているんだ。幾何学的な表裏だと言ってなかったっけ?」
「この状況で、そちらを先に気にするとは、さすが鈍感系二型勇者だな。だが、今回はグッジョブと言っておこう」
ところで、いつになったら果てしない宇宙空間を探検するのだろうね、この人々は。




