赤い日傘
この日傘には持ち主がいない。私が好きな、赤色の日傘。雨をしのぐ為に作られなかったこれは、綿によってできている。裾に行くほどふわふわと広がる、布をたっぷり使った重たいフリルが悪趣味だ。けれど、当時はそこが気に入っていた。
これを買ったのは、祖母の還暦の折だった。遅くに産まれた孫の私は、小学校に上がったばかりで、還暦の祝いと言われても意味がよく分かっていなかった。赤いものを贈る特別なお誕生日なのだと、そのように曲解したのを覚えている。
キャラクターの意匠こそないものの、小さな女の子の好みだと一目で分かるその傘を、私は店先で見つけた瞬間気に入った。本当は自分のものにしたかったけれど、幼い私はそんな我侭をぐっと堪えた。共働きの両親に変わっていつも面倒を見てくれていた祖母は、初孫の私にたいそう甘く、いつも何かと贈り物をしてくれていた。お誕生日のプレゼント、クリスマスの贈り物、お年玉、お小遣い、買い食いや学校の必需品、お友達とおそろいが欲しくて駄々をこねたワンピース、日々の食事に、お帰りの言葉。その有り難さを理解していたわけではないけれど、してくれて嬉しいことはお返しするのだと、子供なりの礼節を確かに持っていた。だから私は老いゆく祖母に、お小遣いを叩いてそれを贈った。
「まぁ、こんな可愛らしいの、おばあちゃんには似合わんわぁ」
祖母は口ではそう言いつつも、たいそう嬉しそうに笑っていた。好きな人に、好きなものをあげる。子ども特有の自分本位な愛情表現を、祖母はきちんと受け止め、喜んでくれた。よしよしと私の頭を撫でた祖母は、しわくちゃでごつくて、爪の間が少し黒い、暖かい手をした人だった。
その体温は、もうこの世には無い。
墓石の横に立っている、石で出来た掲示板のようなもの。何度も見たことがあるはずなのに、三十路に入っても名を知らなかったそれは、どうやら墓誌というらしい。父と墓石を選びに行ったとき初めて名前を知ったそれには、祖母の戒名や命日が彫られ、その横には墓を建てた人物である父の名前も彫られている。ただ一つ違うのは、父の名前だけ赤く塗られているということ。
「生きている人の名前はね、命の色に塗ってあげないといけないんだよ」
墓石屋の、職人らしいオヤジがそのように教えてくれた。私は線香の煙で霞んだ視界の中で、ぼんやりとそれを見つめている。祖母はもう生きている人ではないから、この傘をさしてくれることもないらしい。
「おばあちゃんには似合わんわぁ」
あの時そう言った祖母は、年々、褪せた色味の衣服を身につけるようになっていった。田舎の、古い気質を持った人で、もっと明るい色を身に付ければ若々しく見えるのにと勧める私に、「年相応じゃないと、恥ずかしいでしょう」と、今時の美魔女に喧嘩を売るようなことを真面目腐って言う人だった。ただ、この日傘だけは、最後まで使ってくれていた。同じような感覚を持った近所の友達にからかわれても、もっと高性能な日傘を私が贈っても、幼い私が贈った厄除けの赤を、ずっと傍に置いていた。飼い猫を追いかけて階段から足を滑らせた、その最期の時までも。
「―――羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶…」
祖母の魂を何処かへ送ろうと続く念仏を、私は聞き流しながら手元に目を落とす。そこで初めて、それがもう、赤い色をしていないことに気がついた。
あぁ、一緒に褪せていったのね。
遠方から駆けつけた親類一同の列の中、私はそっと日傘を抱いた。祖母の葬儀は、納骨の直前に行われた。生まれ育った地で暮らしているのは祖母だけで、皆それぞれの場所で暮らしているからだ。死後の四十九日、私たちは大好きな祖母のために、私たちの大切な時間を贈ることを選ばなかった。昨日と同じ明日を過ごすために、それは選べないと結論した。私たちの生活からも、祖母は褪せて行っていた。
墓石の下で眠る祖母を、車椅子に座った祖父は見ていない。宙の一点を見つめ、歯の無いゆるんだ口から唾液を漏らす。祖父をあずけている施設の介護士が、彼が着せてやった喪服に身を包んだ祖父の口元を、白いハンカチで拭っている。きっと祖父も、明るい色は身に付けない。そして私たちは、祖父にも時間を贈らない。
大人になるということは、大事に溜めたお小遣いで、本当は自分が欲しくて堪らないものを、ぐっと堪えて大好きな人に贈るような、そんな暖かさを遠ざけることだったのかと思う。生まれ落ちた場所に存在した家族という最初の社会から、いわゆる社会に踏み出していくその課程で、私たちは故郷を色褪せさせていく。建ったばかりのこの墓も、きっとすぐに草生してしまう。父は定期的に、ネットで墓守デリバリーを頼むのだと言っていた。だから祖母は死して尚、世の経済に貢献するのだと。それでもきっと、すぐに草生してしまうのだ。
「今年の盆にも帰れん?ええよ、さとちゃん頑張っとるもんね。忙しいのに無理せんでええよ。おばあちゃんはさとちゃんが幸せになるんが一番じゃけん、ずっと応援しとるからね」
毎年の恒例のなりつつあった、申し訳なさそうな声をこしらえてかける電話のやり取りを思い出す。いつから疎遠になっただろう。進学して寮に入った頃からだろうか。祖父の介護が始まった頃か。祖母がスマホの使い方を覚えようとしないことに苛立った頃からだったかも知れない。同じ生活ができない相手と、私たちは共に暮らせない。だから彼らは褪せていく。老いが始まったその時から、彼らはみんな褪せていく。刻々と変わりゆく世の中で、我々はみな、褪せていく。生した草の、向こうに隠れる。
誰もがいつしか老いて死ぬのに、どうして幸せになれるだろう。
科学によって、不老不死が実現すれば良いのだろうか。死の無い世界で語られる倫理の根拠は何なのか想像はつかないが、確かに死と老いの克服は医学の正義らしい。だがおそらく、それは祖母が言うところの幸せとやらと同義ではない。なら、最後まで毎年繰り返した、祖母が自分にとって一番だと言う、私が手に入れるべき幸せとは何だろう。
いつか昼間のドラマで見た、「私にだって幸せになる権利があるでしょう」と、法廷で泣き叫ぶ殺人犯の女が脳裏に浮かぶ。彼女の言う幸せとは何だっただろう。あんなに必死になるくらいだから、きっと彼女は幸せとは何かを知っていたのだろう。どうやらそれは、権利によって保障されるべきものらしい。
ならば、祖母は。自身の認知症が始まるまで夫を自宅で介護し、専門的な治療が必要になった夫が施設に入ってからは、頻繁に見舞いながらも自宅で一人で過ごし、同年代の友人が次々と先立つ中自身も迎えた死は誰に看取らたものでもなく、葬儀の直後に墓石の下に入った祖母の、幸せになる権利は、誰が保障していたのだろう。
考え始め、すぐに一緒にそのドラマを見ていた祖母の笑い声を思い出す。妙なことを言う人だね、と、そう言って笑っていたのではなかったか。明るい色を身に付けなかった祖母は、幸せの権利を気にして生きては居なかったのだろう。改めて思い返すと、そういう人として、私は彼女を記憶している。痛む膝も、曲がった腰も、当たり前だから平気だと言う。健康サプリもエステもお洒落も何も、もうじき死ぬからいらないのだと言う。私が当然とするあらゆる努力を、祖母は一つもしなかった。これが老いるということならば、私は御免だと、そう思った。
あぁ、だから疎遠になったのだった。違う世界の生き物のようで、なんだか気味が悪かったのだ。
よく、死者は生者の記憶の中に生きると言う。誰にも看取られずに死し、葬儀の直後に納骨されて尚、祖母は私の記憶の中で、科学に依らない不老不死を成し遂げたのかも知れない。最期の時、誰かが自分を記憶していると知っていること。唐突に思いがけぬ死を迎えた祖母が、そんなことを考えながら呼吸を止めたかどうかは分からない。けれど、普段からそのように安心していられたならば。だから多くのことを気にせずに、日々衰え逝く身体のまま、泰平に構えていることが出来たのならば。私のように、幸せを追い求めて忙しく過ごすことが無いのなら、それはそれで、きっと幸福なことなのだろう。忙しく過ごせる身体では無くなったとき、データではなく、生きた人として、誰かの記憶に遺ること。そうして誰かの、人生の血肉になれるというのは。
スマホの使い方を覚えなかった祖母は、きっとそういう世界で生きていた。
ほう、と。丸い息を吐き出した私は、褪せた赤を撫でながら、晴天にくゆる線香の煙を見上げた。
私は仕事が出来る。信頼されている。高給をとっている。交友関係も広く、趣味も充実し、美容と健康に気をつけている。いつだって実年齢より若く見られる。加えて複数の専門店の優良顧客で株主でフィットネスクラブのゴールド会員で…盆にも暮れにも帰郷せずに努力した私は、田舎娘が夢見た輝く女性の、その多くを実現することに成功していた。それでもきっと、祖母が願った幸せとやらには、とても足りない。
いくら貯金があったとしても、幸せを保障してくれる保険会社は存在しない。現実はゲームのようには行かない。もっと私が満ち足りるために、私が私のために集め、築いた多くのものを、私は死後に持ち越せない。ならば、私が幸せになるために日々頑張っている私は、どんな死に方をするのだろう。誰が弔ってくれるのだろう。どのように老いればいいのだろう。誰の記憶に、どのように遺っているだろう。そこで生きる不老不死の私は、何の役に立つだろう。一昨日、満ち足りて幸福だった私は、明後日、何のために生きているだろう。
お前はきっと、幸せだった。
腕の中の褪せた赤に、雨を降らせてそう思う。あの満ち足りた箱庭の日々、私は保障などいらなかった。幸せになるために生きていなかった。その日々こそが幸せだった。その中で生まれ、その中で生き、その中で褪せたお前は美しい。その骸を、記憶を遺し、私を涙させたところが、また、尊い。
一度も揺るがず、ずっと祖母の日傘だったそれを、私は明日、捨てに行く。私が看取ってやるために、私はお前を捨てに行く。そしてその帰り道、奇跡的に潰れていない、地元の商店街の寂れに寂れたあの店に、また新しい日傘を買いに寄るのだ。悪趣味な赤い日傘を買って、小学校に上がったばかりの、姪にでも贈ってやるとしよう。そうして姪が一度も会ったことのない、私の祖母の話をするのだ。きっと鬱陶しい若作りの女として、姪は私を記憶するのだろう。
彼女が、私より長生きすると良い。いつか誰かに、私のことを語ってくれると尚嬉しい。そうして受け継がれるささやかな永遠の輪に、祖母と、祖母を語る私と、私の話の中に出てくる大勢と共に、先の世代へ遺るのだ。そう思って死ねることの幸福を、私は今から準備しよう。いつか誰かに、心から。おまえの幸せが一番だと、僅かも気取らずに告げられる、そんな生き方が出来るように。
参列者が欠伸をかみ殺す気配を感じながら、私はそっと、祖母の遺骨に手を合わす。
「次の盆には帰ります」
繰り返される念仏にかき消された声が、線香の煙と共に天に昇った。
最後まで読んで下さって有り難うございます。
終活って、最近よく聞きますね。でも私は、生まれた瞬間から終活って始まっていると思うのです。人は生きたように死ぬという言葉を聞きますが、それは死に様に全てが現われるというのではなくて、どのように記憶に残って受け継がれていくかという意味なのではないかなぁと、最近気付きまして。それを文章にまとめたくて、このような形となりました。
少しくどい文章になったように思いますが、これがどなた様かの心を前向きに動かす切っ掛けとなれば「幸い」です。