表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

止まない雪とスノードロップ

作者: 如月このは

 銀世界の森。色彩はごく少なく、わずかに常緑樹の緑が見られるが、ほとんどは白一色だ。

 もう春が来ていてもおかしくない時期のこと。それでもなお雪は降り続き、この小さな森など埋め尽くしてしまいそうだった。

 

 俺はそんな銀世界を、今日もひとりで散策している。この季節では、仲間や友人もいない。雪の冷たさと、雲の厚さに陽が遮られる。春はまだ遠い。

 しかしそれでも、生きている者たちはいる。羽ばたきに目を見遣れば、白い梟が飛び立つ。視界を横切るのは、埋めた木の実を探すリスだ。

 

 ある木の横を通り過ぎる時、白い雪とよく似た銀髪が広がっているのに気づいた。そっと覗き込むと、華奢でどこかにまだ幼さを残す少女が、雪の上で丸まるようにして眠っていた。

 規則正しい呼吸を繰り返す、華奢な身体がまとっているのは白のドレスで、銀糸で雪の結晶が刺繍されていた。しかし裾から覗くフリルは若菜色で、いずれ訪れるであろう春を予感させる。

 

 かすかに身じろぎした少女の瞳が、ゆっくりと開かれる。澄みきった冬の夜空を思わせる、深い紺の色。

 

「……はじめまして」

 

 彼女が紡いだありきたりな言葉は、星が瞬くような音で呟かれた。冷たい風の吹きすさぶ森の空気に、さらりと溶けて消えていく。

 

「ああ、はじめまして」

 

 上体を起こした彼女が、手を差しのべた。握り返すと、ひんやりしつつも暖かさを感じる。

 俺は、この温度を知っている。

 

「あなたは……花なんだね。早咲きなの? 冬はまだ、終わっていないのに」

「まあ、そんなところだよ。そういうあんたは雪か。……綺麗、だな」

「綺麗? わたしが? だって、わたしのせいで冬はまだ終わっていないのに。花がまだ咲かないのもそうよ。わたしは……色とりどりの花が咲く季節を、迎えたいのに」

 

 伏せられたその目は、透き通るほどに紺の色味を深くした。

 

「あんた、春が好きなのか?」

「うん、好きよ。色に溢れた春が好き。雪の世界は、白一色だけでしょう?」

「俺は……そうは思わないけどな」

「ふふ、変なの。あなたは花なのに、雪に悪い感情を持っていないなんて」

 

 笑った。ふわりと、柔らかな雪が舞うように。静かに、それでいて可憐に。

 降る雪のせいでそう思えるのだろうか。ふわふわと音もなく、雪の花弁は降り積もる。わずかな風にさえ散らされながらも、他の色彩全てを覆い隠してしまう。

 

「俺は他の花とは違うからな」

「そうなの?」


 首を傾げた彼女の動きに合わせ、白銀の髪が肩からさらりと流れた。

 

「知らないのか?」

「何を?」

「……なら、いい」

「待って!」

 

 立ち去ろうとした俺を、彼女は腕に抱きついて引き止めた。近づかれると、小柄だということがよくわかる。冬の夜空が、すがるような上目遣いで俺を映す。

 

「お願い、これで終わらせないで。わたし、あなたのさっきの言葉の意味が知りたい」

「別に、あえて隠してるわけじゃない。でも、あんたが知らないなら、これはきっとどうでもいいことなんだ」

「煙に巻かないで。それを決めるのは、わたしのはずよ」

 

 俺は沈黙だけを返す。彼女は手を離さない。はらはらと、雪が静かに降った。

 

「お願い……」

 

 彼女は、頼むことしかできない。話すか否かの決定権が、俺にしかないからだ。

 ひんやりした手は、暖かさを帯びていた。冷たい風が、彼女の白銀の髪にたわむれる。雪と同じ色。真っ白で純粋な、穢れを知らない色。俺と、同じ色だ。

 

「あんたが望むなら、いつか」

「ありがとう……! できるだけ遠くない『いつか』を、信じてるわ」

 

 やっと離れたと思うのと裏腹に、遠ざかる温度が名残惜しい。

 

 いつのまにか、夜が来ていた。冬の夕暮れは早く、昼との落差も少ない。しかし雪の白さに明るさを錯覚する。

 小さな星々が煌めく空は、彼女の瞳の色だ。雪である彼女は、まさに冬そのものだった。



             *



 朝陽に雪が輝いている。冷えきった朝の空気の中、ダイヤモンドダストが煌めいていた。

 見るともなしに見ていると、気づけば彼女が隣に立っていた。互いに口を開くことはなかった。

 きらきらと、ダイヤモンドダストは輝く。雪に音はない。静かに、ただ静かに。だが確実に降り積もってゆく。

 

「この景色も、あんたは綺麗じゃないって言うのか?」

「でも、好きではないの」

「あんたがどう思ってても、俺はいいと思うぜ。どんな雪だって、綺麗だと思う」

「わたしはこの景色、好きじゃないけど。あなたが綺麗と思ってくれることは、嬉しい」

 

 嬉しいと繰り返し、彼女は頬を染めた。薄紅の花に薄く積もった初雪のような色。

 けれどすぐに吹雪に埋もれ、花は冬に散る。彼女の夜色の瞳から、涙がこぼれた。

 

「本当は、そんなこと思ったらダメなのに。わたしは、早くいなくならなくちゃいけないのに」

 

 春が来ないと、彼女は泣いた。透き通った氷のような涙を流して、雪は嘆く。

 彼女の感情に呼応して風が強くなり、雪が激しさを増した。もはや脅威でしかないそれは、俺たちを容赦なく襲う。

 

「おい、移動するぞ。こんな風じゃ、いくらあんたでも辛いだろ」

 

 雪の彼女ならばともかく、早くも俺は耐えきれそうにない。情けないが、しょせんは花だ。冬に咲くことはできても、弱いことに変わりはない。

 だが、泣き止まない彼女を放置することもできなかった。ただ寄り添っていてくれる心強さを、俺は知っていたからだ。

 

「……っ」

「……あ、ごめん! ごめんね、大丈夫?」

 

 強風によろけてしまった俺を、彼女が支えた。それとは反対の手を一振りして、吹雪を退ける。

 守られている。花どころか大地全てを覆い尽くすこともできる雪に、俺は今守られていた。慈しむようでいて健気な、そんな優しさで。

 

「ああ、なんとかな」

「本当にごめんね。あっちに洞窟があるんだけど、行けそう? 風くらいは避けられるから」

 

 彼女に支えられ、守られながら歩いていく。

 花を守る雪。この温度を、俺はよく知っていた。

 

 真っ白に染まった視界の中、なんとか洞窟にたどり着く。そこには、動物たちがいた。俺たちと同じように、吹雪を避けに来たらしい。

 身を寄せ合い、争うことなく集まっている。俺たちを見ると、狐やうさぎなどの小動物が寄ってくる。

 

「やあ、参りましたよ。急に荒れるんですものねぇ」

「まだまだ寒いよね。でもみんなで一緒だと、あったかいよ」

「うん……。みんなごめんね。もう春のはずなのに、雪がまだ止まなくて」

「なんのなんの。冬くれぇ乗り切ってやるさ!」

「そうよ。それにあなたは春には、雪解け水として恵みになってくれるじゃないの」

 

 うつむく彼女に、動物たちがくっつく。言葉や態度で、彼女をなぐさめていた。

 

「ほら。あんたを邪険にする奴ばっかりじゃないだろ?」

「そう……みたいね」

 

 彼女が笑った。知らなかったことを初めて知った、子供の笑い方だった。

 

「あんたは……」

「なあに?」

「いや、なんでもない」

「またそれ? どうして、肝心なことは教えてくれないの? そうしてちらつかせるだけなんて、ずるいわ」

「…………」

 

 言えない。言いたくなかった。

 俺が隠しているそのことを、彼女が気にするほど。それで彼女が踏み止まってくれるならば、俺は何も言わない。執着になって引き止められるならば、隠し通す。

 おもわせぶりに口にして、それでいて全てを語らない。卑怯な手だが、俺にはこれしかできない。いなくなりたいと願う彼女を、こうすることでしか留められない。

 

「さて、吹雪が収まったようだ。戻るとしよう」

 

 羽づくろいをしていた梟が、軽く羽ばたく。狐やうさぎは耳を動かし、狸は匂いを嗅いで外の様子を探る。

 先導するのは、雪の彼女だ。雪に対しては自分が一番安全だから、と微笑む。凜とした美しさ。透き通った夜の瞳は、まっすぐに冬を見据える。

 

 彼女が一歩、踏み出した。収まりかけていた吹雪は、彼女が歩くほどさらに鎮まっていく。吹雪の残滓の風が、ふわりと彼女の髪を揺らした。

 彼女は、雪そのものだ。

 

「みんな、おいで。もう大丈夫だから」

 

 ぴょこんぴょこんと、うさぎが跳ねる。狐が軽やかに駆け、もふもふと毛並みを揺らして狸が歩く。彼女が差し出した腕に梟が止まる。

 動物たちとたわむれ、彼女は楽しげな笑い声を上げる。彼らをそれぞれ撫でる。彼らは順に立ち去っていった。

 梟は、彼女のまわりを一周してから飛び立つ。次いで鷹が腕に止まり、彼女はくるくると踊るように回る。柔らかくドレスの裾がひるがえる。その遠心力を利用して、鷹は勢いよく飛び去っていった。

 

「あなたは最後まで、わたしのそばにいてくれるのね」

 

 ぽつり、彼女が呟く。

 

「俺は、花だからな」

 

 答えにならない答えを返す。

 

「あなたは、何ていう花なの?」

「……スノードロップ」

「雪の、雫……。……わたしよりも、あなたの方が綺麗よ。雪なんて名前じゃ、もったいないわ」

「俺はそうは思わない。あんたと同じで、よかったと思う」

 

 例え彼女がどう思っていたとしても。俺は雪の名を持つことを誇りに思う。

 それが、彼女と縁がある証だからだ。

 

 

             *

 


 雪の止まない夜。俺は雪原に寝転がっていた。視界一面が夜空に満たされる。時折混じっている雲が、雪を降らせている。今夜の雪は穏やかだった。

 

「スノードロップ」

 

 彼女が呼ぶ声。透き通って、静かに響く。それが雪に吸い込まれるのを待って、俺は視線を向けた。

 

「あんたも、こうしてみないか?」

「うん」

 

 彼女は隣に寝転んだ。銀の髪が、踏み荒らされていない雪に広がる。夜の闇は他の何よりも雪を美しく魅せる。

 

 空気が澄んで、星が瞬く。煌めく星に混じって、雪は静かに舞い降りる。

 もう春なのに、銀世界は終わらない。美しい風景のまま、どこまでも続いていくように。雪で何もかもを覆い尽くして、全てを眠らせるように。

 

 ああ。雪にいざなわれて、夜空に吸い込まれそうだ。

 

「スノードロップ」

 

 彼女の声が引き止める。

 相容れないはずの花と雪。それでも、俺は彼女を引き留めたかった。

 

「わたし、あなたのことを見てみたいの」

おれを?」

「そう。わたしね、一つだけ雪にも好きなところがある。色があって、それが白なこと。灰色の寂しい空から降るとき、透明よりは寂しくないから」

 

 かつて、世界のあらゆるものには形と色が与えられた。

 空に青、葉に緑。動物たちには、それぞれが住む場所に溶け込める色。中でも花たちには、特別鮮やかでさまざまな色を。

 だが、形も色も与えられないものもいた。雨や風だ。だから、それらは時に荒れ狂うようになった。

 

 最後に、雪が残った。すでに色は使い果たされていた。しかし、今の雪は白い。

 ここから先は、花と雪しか知らないことだ。

 

「だから花が好き。綺麗な色を持っているから」

「……あんたの白の方が綺麗だ。他でもないあんたが、花を褒めたりなんかするなよ」

「どうして、そんなこと言うの?」

 

 彼女の瞳が俺を映す。泣きそうに潤んでいる、その夜空に見とれる。

 色とりどりの花よりも、モノクロの彼女の方がよほど綺麗だ。

 

「言いたくない」

「そう……」

「けどそれは、あんたが嫌いだからじゃない。それだけ、信じてくれ。俺は……」

「何?」

「俺は、あんたのこと、ずっと大切に想ってた」

 

 あの時からずっと、彼女を想っていた。

 

「……ごめんなさい。わからない。だって、だってあなたと会ったのは、ついこの前よ。それなのに、どうして?」

「…………」

「あなたは、いつもそうよ。何か大事なことを隠しているのに、わたしにすごく優しくしてくれる。返しきれないくらい、暖かい気持ちをくれるの」

 

 びょうと風が吹いて、雪が乱れる。不規則に降るはずなのに、何かが混ざると途端に雪の世界が崩れるのだ。

 彼女の白銀の髪も乱れる。色を得た雪に、風が嫉妬しているかのように。

 渡さない。彼女の白は、絶対に。俺にとっても、大切なものなのだ。

 

「スノードロップ?」

 

 彼女が腕の中から見上げる。俺が抱きしめたからだ。突然吹いた風から、彼女を守るために。

 変な話だ。花のくせに、雪を守ろうとするなんて。

 

「ねえ。わたし、雪よ」

「ああ、知ってる」

「なら、離して」

「嫌だ」

「わたしも嫌よ。だってあなたが……」

 

 彼女が手を伸ばす。小さくて冷たい手が、俺の頬に触れた。

 

 白銀の、綺麗な存在が俺の腕の中にいる。ふわふわと柔らかな雪を纏って。煌めく銀の髪を風に揺らして。

 冬の夜空と同じ色の瞳は、俺だけに向けられているのだ。

 

「あなたが、こごえちゃう。綺麗な花がそんなことになったら、わたしは悲しい。他でもないあなたなら、なおさら」

「綺麗って……」

「あなたは綺麗よ。今の姿でも、純白の髪に若葉色の瞳で、とても素敵だもの」

 

 彼女の瞳に、俺が映っている。

 彼女とほんの少しだけ色味の違う白い髪、艶やかな緑の目。そんな姿が、彼女には綺麗に思えるのだろうか。

 

「スノードロップ」

 

 触れるか触れないかの距離だった。近付いて、遠ざかる。柔らかく、雪が花に降り積もるのと同じように。

 

「わたしがあなたを守りたいの」

 

 俺から離れ、去っていく彼女がそう言い残す。追いかけることは拒絶されていた。

 白銀の髪が揺れ、純白のドレスの裾がひるがえる。覗くフリルは新緑色。冬の次に来る季節は春だ。

 

「そんなの、俺だって同じだ」

 

 俺の小さな呟きは、冷たい北風がさらっていったのだった。



             *


 

 夕日が輝いている。いつも散策する道だが、今日は時間帯が違う。

 表面だけが一度溶けてまた凍った雪が、まばゆいオレンジにきらきら輝く。白くも透明な雪だから、夕日の光と戯れて混ざり合う。そんな景色だった。

 

 散策の終着点、俺は目を奪われた。彼女がいる。雪の白に紛れそうな、小さな花を見ている。その姿は、氷のように透けていた。今にも儚く消えてしまいそうで、俺は駆け寄る。

 

「あんた……!」

「スノードロップ」

 

 ふわり、彼女が微笑む。

 

「ごめんなさい。約束していることだって、いくつもあったのに。わたしに出来ること、これしか思いつかなくて」

「何を……! あんた、まさか消えるつもりか!?」

「そうよ」

 

 それは透明で強固な、氷の決意だった。

 

 それは季節の移ろいで、降り積もった雪が雪解け水になるのとは違う。彼女という存在そのものの消滅。雪も全てが消え去る訳ではないが、普通よりずっと早くなくなる。

 遠い春を嘆く彼女が選択しても、おかしくはないことだった。動物や花を想うほど、彼女はじぶんを恨めしく思っただろう。

 だから俺は止めたかった。引き留めたくても、俺の手は彼女には届かなかった。この結末が答えだ。

 

「だから、最期に知りたいの。あなたのこと、あなたが隠していたことも、全部」

「最期、なんて、言うなよ……」

「それなら、子守唄の代わりだとでも思って。お願い、知りたいの」

「……わかった」

 

 俺は話した。世界の始まりの、色の話を。透明だった頃の、雪が主人公だ。

 彼女は不思議そうに聞いていた。それでも何も言わなかった。夜空色の瞳だけはまっすぐに俺を見つめ、信じていると言わんばかりだった。

 物語は進む。色をもらえなかった雪は嘆く。今の彼女はもう、自分のことなど憐れまない。他の存在ばかりを想うのだ。

 

 色を与えたものは言った。花はたくさんの鮮やかな色を持っているから、分けてもらいなさいと。

 どんな色の花に話しかけても、雪は避けられた。冷たさから、嫌われていた。色を分けてくれる花などいなかった。

 

「それなら、なぜ今のわたしには白い色があるの?」

「初めて、雪に声をかけた花がいた」

 

 それは小さく、儚げな花だった。華やかな赤やオレンジも、神秘的な青や紫も持たない。可愛らしい黄やピンクでもないが、清らかな白い色をしていた。スノードロップだ。

 

「鮮やかな色なんて持ってない。それでも俺の色が役に立つなら、この白をもらってくれないか」

 

 物語の台詞に被せ、ひざまづいて彼女に手を差しのべる。

 

「他の色じゃなく、あなたの白い色が欲しいの。きっと、空から降るとき、積もるとき、とても綺麗に見えるはず」

 

 微笑んで、彼女は俺の手をとった。大切なものを受け取るようにそっと。

 

 あの時と同じだ。あの時も、今にも泣き出しそうだった雪は、ふわっと笑ってスノードロップから白を受け取った。

 透明だった彼女は白く染まり、白銀に輝いた。綺麗だった。俺の色を、美しいものにしてくれた。

 彼女が愛おしく思えた。彼女が大切になった。その時から、ずっと。

 

 今、彼女は手をとってくれた。結末は変わらなくとも、その事実だけで良い。ひんやりと優しいこの温度を、俺は忘れない。

 

「あんたは覚えてないだろうけど、あんたは冬中、ずっと俺を守っててくれたんだよ」

 

 色を分けてもらって以来、雪はスノードロップを守るようになった。他の花は冬に眠る。スノードロップが他より早く咲くのは、雪に守られていたからだ。

 春告げのスノードロップが何より大切に想うのは、暖かな春ではなく、すぐそばにある残雪なのだ。

 

「どうしてわたしは、そんな大切なことを忘れているの……?」

「それはあんたが、いつも消滅を選択するからだよ」

 

 季節の移ろいのまま巡れば、彼女とはまた冬に出会える。そうして、俺は何度彼女と出会っただろう。消滅するせいか、彼女はいつも何も覚えていなかった。

 それでも彼女は、姿も心も何も変わらない。いつでも優しく周りを想い、俺を守ろうとするのだ。

 だからこそ彼女は、消滅を選ぶ。それを止めたい俺が彼女を想うほど、彼女は強く消滅を望む。

 

「俺は、俺はあんたと春を迎えたいのに……」

「できないわ。わたしがいたら、春は来ないのよ」

「来るんだよ。他の季節、雪は姿を変えてるだけだから、あんたは春を迎えられるんだよ」

 

 雪は春になると溶けて、雪解け水になる。それは様々なものたちに恵みをもたらし、巡りめぐって、冬になると雪として戻ってくる。

 

「そんな……。ごめんなさい。わたし、もっとあなたのことを信じていれば良かった。いたらいけないって思い込んで、あなたにもずっと悲しい思いをさせていたのね」

「あんたは何も悪くない。俺がもっとうまくやれてたら良かったんだ」

 

 あと少し、何かが違っていたら。

 今俺が間に合っていたら。彼女が少し思い止まっていたら。この不思議な話を、信じてもらえるだけの関係を築けていたら。

 

 何もかも、もう遅い。

 一日の終わりを告げるオレンジが煌めいた。彼女の身体はその光に透ける。白くても、透明な雪。俺とは少し違う。だが今の方が、彼女らしくて良い。

 

「なあ、次こそあんたを止めるから……次の冬もまた、俺を信じてくれるか?」

「ええ、もちろん。それに、わたしはきっと次の冬には、もう少し雪が好きになれる」

 

 強い風が吹き抜けた。風向きは、いつのまにか変わっている。東風は、暖かな春の気配を運ぶ春一番だ。

 

「ゆ……」

 

 別れを告げる間もなく、彼女は消え去っていた。俺も約束も、春には消えゆく銀世界も残したまま。

 春が来た。だが、それを一番に待ち望んでいた彼女はいない。

 

 足下を見遣る。彼女が最後に見ていた花がある。他より早咲きの、そのスノードロップは俺だった。

 他の花より早く咲く、雪に守られた花。春告げの花と呼ばれても、俺は雪を大切に想う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ