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冠を抱く者  作者: 鳴田るな
2章:奴隷と情婦とその主人
9/25

騎士の最期

 二人の結婚式は、後の彼らにしては考えられないほど、とても質素なものだった。

 立会人はベリアル公のみ。

 彼の館にある妙に明るい祭壇の前で、彼らは互いに貞操を誓い合う。


 サタンは普段の薄布ではなく、簡素な騎士の服と皮の鎧を着せられ、若干の飾りを頭や首につけられて不思議そうな顔をしていた。

 背中は翼を通すために布に隙間が持たせられている。


 アリーヤは普段は垂らしている漆黒の髪を複雑に編みこみ、薄いベールの下に真っ赤なストラップドレスを纏っていた。

 引きずるようにして歩く贅沢な生地には金の刺繍が施され、ところどころに小さな宝石が縫い込められていて彼女が身動きするたびにきらりきらりと光り輝く。


 ベリアル公はその色合いの衣装を着ていても、見た目は社交界に出たばかりの少女のように可憐な彼女にさすがの造形だなと感心し、また自分の選んだドレスが似合ってることに満足する。

 可愛がっている奴隷の方も、やっぱり着飾るとなかなかいいじゃないかと微笑みを向け、まったくその気のない乾いた視線を返された。


 一通りの儀が終わったところで、仕上げにキスをとベリアルが言うと、花婿も花嫁もいかにも微妙な顔になる。

 当時はアリーヤの方が背が高かった。

 彼女は一度ベリアル公に助けを求めるように視線を送るが、彼がやれと目で返すと諦めたように身をかがめて目を閉じる。


 少年は困惑して主と彼女を見つめ、こっちも諦めたように肩をすくめると、少し背伸びをして彼女の額にぎこちなく唇を落とした。

 アリーヤが思わずはっと目を見開いた時には、彼はそっと身を離していた。


 ベリアル公は少し不満げな顔をしたが、どこにしろとは言われてないぞと少年がうそぶくと、まあそれもありかと目を細めた。



 ――と、屋敷の中が不意に騒がしくなる。

 まもなく部屋の扉が蹴破られ、案内人に使用されたらしい男が切り捨てられて投げ入れられる。


「――ベリアル、貴様ァっ!」


 血走った目のヒゲの騎士は酷い有様だった。

 いつも身に着けている群青の鎧は通り道のものを切り捨ててきたせいか赤黒く染まっており、アリーヤはそれを認めると悲鳴を上げてふらりとよろめく。

 彼女をそっと抱き留めてから、ベリアル公はにんまりと口の端を吊り上げた。


「やあ、兄上。早かったような遅かったような。それにしてもひどい有様だね。すっかり落ちぶれたじゃないか」


「アリーヤを……アリーヤを返せ!」


 騎士が唸るように言っても彼は全く意に介した風はない。

 白々しく応答している彼の前に、やりたくないけどもうすぐ自分の出番だな、と感知した少年がさりげなく数段高くなっている祭壇の上から降り、侵入者から主と妻を庇うように立った。


「さてね。彼女が言ったんだ。連れて行ってほしいって」


「私の妻だ! お前だってそう――」


「吾輩は兄上の犯罪の手引きはしたけれど、一度も兄上が彼女と釣り合うと言った記憶はないんだけどねえ」


 騎士はかっと目を見開くが、やがてそれはうつろに濁り、うなされるように言葉を紡ぐ。


「どうだっていい。もう、お前のことももうどうだっていいんだ。そのヒトを返してくれ。でないと、でないと私は――」


「それでは、彼を殺したまえ。でなければアリーヤは戻ってこないよ。だって、彼こそが彼女の正式な夫なのだから」


 サタンはほらやっぱり巻き込まれた、と思いながら騎士に社交辞令の微笑を浮かべる。

 騎士はその少年が誰であるかわかると、愕然とした顔になった。


「――嘘だ。そいつは――奴隷じゃないか」


「いいや? もう、立派な騎士の一人だ。名前はサタン」


「アリーヤが……こんな奴と……了承するはずがない……」


 サタンが、確かに了承どころか拒否したそうだったな、とどこか他人事のように思っている一方で、ベリアル公はうきうきと諳んじる。


「少なくとも君よりはましだと思ったんだろうさ。ともあれ、アリーヤ=アンドロマリウスはサタンの妻となることをきちんと式で宣言し、契約した。――なあ、そうだろう?」


「――わたくしは確かに、この方と結婚しましたわ」


 アリーヤはベリアル公がそっと促すと弱々しく答える。

 彼女が弟の腕にしっかり抱えられているのをようやくしっかりとした事実だと認識して、騎士の身体がぶるぶると震えだした。


「だから兄上。その剣で、彼を殺してごらんよ。そうしたら、今度こそ彼女は永久に君のものだ。吾輩もちゃんと認めて祝福してあげよう」


 ベリアル公は祭壇上の高みから言い放つ。

 アリーヤが怯えた顔を浮かべると、彼は彼女にそっと囁いた。


「――大丈夫。あれは死なない。負けることはないさ」


 アリーヤは翡翠の瞳を揺らし、異形とは言えど未だあどけなさの残る少年を不安気に見守った。


 入口の騎士はしばしの間微動だにしなかったが、やがてすでにすっかり赤黒く染まっている如何にも重たい剣を引きずりながら、その瞳にどこか悲哀漂う苦しげな光を浮かべながら、少年の方へとゆっくり歩み出した。


「今度こそ……今度こそ……ああ、何度繰り返せばいい……何人殺せばいい……なぜ、君は――」


 サタンの方は邪魔だとでも感じたのか騎士がゆっくり近づいてくる間に手早く装飾品を引っぺがし、身軽になった。

 檀の下はちょうどおあつらえ向きに何も置かれていない無駄なスペースが広がっており、決闘に十分な広さだなと確認しつつ彼は壇上の主に声をかけた。


「マスター。どうすれば」


「応戦しろ」


 当然のように彼が答えると、薄く微笑みを浮かべる少年の表情がほんのわずかにイラッと崩れた。


「いや、うん。そうじゃなくて」


「――ああ。殺すかどうかは好きに判断したまえ。その男をどうするかは、お前に任せる」


 丸投げか、面倒なとサタンは軽く息を吐きながら、いよいよ切りかかってきた男の刃をひとまずかわす。

 斬ると言うよりは、叩き潰すと言った動作に近いほど荒々しいものだったが。


「――ねえ、その――えっと」


 躱しながら、彼は自分の妻だと紹介された女にちょっと聞こうとして――なんと話しかけたものか迷う。

 彼の意図を察したらしいベリアル公がそれに答えをくれた。


「アリーヤと呼びかけたまえ。妻だから様はいらない」


「じゃあ、アリーヤ。答えてほしいんだけどさ」


 少年は血走った目で大きく上段に振りかぶった男の懐にすかさず入り込んでとん、と手で押し、やや遠くにまで突き飛ばす。見た目にそぐわぬ怪力だったせいもあってか、一瞬だけ騎士が停止した。

 その隙に少年は主にしっかり抱えられているアリーヤを向いて質問する。


「あのヒトは君の事取り返しに来たとか言ってたけど、それって本当?」


「……」


 少年は好きに判断しろと言われたので、材料が欲しかったのだ。

 どの程度、本気を出していいのかの。


 アリーヤは蒼白な顔で黙り込む。彼の言うこと自体は嘘ではない。だが、肯定したくはなかった。

 サタンは彼女が渋っている様子を見てとると、吠え声を上げながら戻ってきた男の鋭い突きを身体をひねって躱し、再び声を上げる。


「わかった、質問を変えよう。君はこのヒトと一緒にいたいの?」


「絶対に、嫌!」


 それにはすぐに答えられた。ほとんど反射と言っていいくらいだった。

 ヒゲの騎士がうろたえ、凶暴でうつろなその眼がぐらぐらと揺れる。


「アリーヤ!」


「嫌われてるねえ、小父さん。俺といい勝負だ」


「奴隷風情が、馬鹿にするような口を!」


 サタンが苦笑気味に言うと、再び男は激昂する。

 横に大きく薙ぎ払った斬撃がついに彼の腹部をかすめ、そこから鮮血が散った。


「――っ」


 サタンはそのまま一気に追撃しようと突進する騎士の頭上をひらっと飛び越え、後方に着地して腹部を押さえる。

 翼を持つ身ゆえか、彼は身軽な方だった。


 かすったと表現したが、騎士の狙っていた両断がかなわなかっただけでそれなりに傷は深い。

 いい腕してるな、と感心すると同時に、とどめを刺そうと猛攻を加えてくる騎士から後方にジャンプして躱すことを繰り返しつつ、彼はやっぱり苦笑する。


「……乱暴だなあ」


「お前を殺す――アリーヤは、取り戻す――私にはそれしか道がない――」


 男がうつろに繰り返しながらなおも凶行を続けると、少年は目を細める。


「悲しいね、小父さん。それじゃ、無理だと思うよ」


 サタンは攻撃が飛んでこない間合いまで一際大きく飛び下がると、腹部に当てていた手をどける。


「だって俺、死なない身体してるからさ」


 先ほどまで中身が見えそうなほどざっくり斬れていた線は今はもうかけらも見当たらない。

 そのことにけして怯んだわけではなかったが、騎士はその後の少年の攻撃を受けきれなかった。

 いや、攻撃してきたと思っていなかった。


 少年は片手を腹部から退けると同時に、もう片方の手を上から下に、手刀で空の何かを切るようにすっと下ろす。

 それに呼応して――遠くの騎士に見事な一撃が入れられていた。


 騎士の肩口が鎧ごとぱっくりと割け、袈裟切りの痕が現れるが、その割には出血が派手ではない。

 少年が得意とする、手刀からかまいたちを放つ技によるものだった。


「――あっ、が、ああああああああ!」


「きゃああああ!」


 一瞬遅れてから騎士は呻き、肩を押さえてがくりと膝をつく。

 アリーヤが彼の咆哮に反応して悲鳴を上げると、これ見よがしにベリアルはなだめるように彼女を引き寄せ、ぽんぽんとその背中を叩いた。

 そんな彼らを見比べ、どこか呆れたような目をしながら、獣は深く息をつく。


「小父さん、もうやめなよ。ここで引いておきなって」


「う――るさい、うるさい、うるさいっ! だまれ、だまれェっ!」


 騎士は動く片手で剣を地面に突き、それを支えにして立ち上がる。

 煌々と光る瞳はとっくにけだものの色に濡れていた。


「言ったはずだ――私には、もうこれしか――道がないんだァっ! アリーヤ、あれが私を狂わせた! あれがなければ、生きてはいけない――ならっ、取り戻すしかっ」


「そっか」


 少年は獣の遠吠えにつぶやき、ふらっと身体を前に倒す。

 戦いのさなかでも薄く口の端を吊り上げている彼の口元がほんの一瞬だけ真剣なそれになり、金の瞳に何かの光が揺らいで灯った。


「――それじゃあ、終わりにしよう」


 次の瞬間、彼の姿は一度消え、騎士の前に出現していた。

 反射的に彼の首を落とそうと騎士が動くが、遅かった。

 間合いのはるか内側、懐深くまで飛び込んだ少年の腕は、騎士の胸の真ん中を甲冑ごとしっかりと貫通していた。


「……あっ」


 少年は一度背中から突き出ている拳を確認するかのように開いて閉じて、それからゆっくり引き抜いた。

 騎士の口からそれに合わせてどこか魔の抜けた声が上がる。

 大きいようで小さい風穴の開いた騎士の身体から力が抜け、剣がその手から滑り落ちて乾いた音を立てる。


「あ……ああ……」


 彼はがくりと手をつき――身体を支えきれずに無様に地面に倒れこむ。

 咳き込むとどぶりと音を立てて赤黒い塊が吐き出される。――勝負はあった。


 それでも呻きながらなおも顔を上げ、愛しい愛しい女神を見つめる。

 血で染まった鬼のような形相で睨み、手だけで這って行こうかとするように空しく地面を掻く。


「姫――アリーヤ――こんなに、こんなに――愛している、のに……」


「い――や――」


 彼の悲痛な叫びは、けれど彼女に届かない。

 それはただ、醜い獣の悲しい吠え声として認識される。

 男は最期の力を振り絞って懸命に喋ろうとする。


「私の何がいけなかったのです? 顔、心、身分、獣人混じりの血……あなたには、そんなものの方が大事だったのか。この私の、何よりも、強い、愛、よりも――」


「違うわ! だって、わたくしの言うことを聞いてくれなかったじゃない! わたくしに、ひどいことをしたじゃない!」


 アリーヤは泣きながらそう返す。

 ベリアル公がまた彼女を撫でて慰めるかのような仕草をし、兄にざまあ見ろと言わんばかりの顔をしてみせた。

 老いた騎士の狂気に満ちていた目が、暗い絶望に、そして死の色に塗り替えられていく。


「そ、で……も……」


 血泡を含んだ口はもう限界であった。それ以外の身体の方も。

 懸命に伸ばした腕からは力とともに命がみるみる抜けていく。


 自らの血糊に埋まった彼の瞳から、何かがこぼれて落ちていった。



 彼の脳裏に一瞬だけ初めて出会った時の彼女の姿が蘇る。

 可憐な少女は父に促され、どうでもいい男にもその笑顔を向けてくれた。


 それがもう一度、欲しかっただけなのに。

 もしも想いを告げた時の断り方が、慈愛に満ちた笑顔で、優しい言葉だったら諦められたかもしれないのに。


 ――けれど。

 貴女がそんな愚かなヒトだからこそ、私はあなたが放っておけなくて。

 貴女が求める一人に私がなれないと知っていたからこそ、あんなことをしてでも結ばれたくて。


 あなたが、あなただけが。


 ああ、アリーヤ――かなしい私の女神よ。

 あなたの運命でありたかった。そうすれば、あなたと――あなたは、幸せになれたのか。



 視力と色が急速に失われつつある世界に最後に映るのは、勝ち誇った満足そうな弟と、彼にすっかり自分を委ねているアリーヤ。

 それと、彼らをそっと見てから目を伏せる――どこか自分に似た、血濡れの惨めな少年だった。



 ――そうして、空を泳いだ手がばたりと落ちる音とともに、騎士の命は終わりを告げた。



 アリーヤは事が終わると恐怖からベリアルに縋り付いて泣きだし、ヒゲの騎士の傍らには少年が座り込む。

 死体が見開いていた瞼をそっと閉じてやって、彼は終わってしまった男にぽつりとつぶやく。


「ほら、小父さん。楽になったでしょ? それって幸せなことだと思うよ。

生きられなければ死ねばいいんだ。簡単なことじゃないか。

あなたたちには、それが許されているじゃないか……」


 彼の密かな呟きは、アリーヤの啜り泣きとそれをなだめるベリアル公の穏やかな声に紛れて消える。



 ちらりと少年を目の端に入れた彼女はもう、目の前で繰り広げられた蛮行ゆえに、すっかり彼を獣としてしか見られなくなってしまった。

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