運命の恋
アリーヤの時間は三つに分かれていた。
一つは、あの男がいる悪夢のような時間。
男が触れるたびに、そこから肌と一緒に自分が剥がれ、失われていくような気がした。
アリーヤと言う女がいなくなって、男の望むままのただの人形になってしまいそうだった。
いつかあのわけのわからない、あり得ない言葉に頷く時がやってきそうで。
それが自分の終わりだと感じていた。
一つは、自分ひとりの時間。
そのたびに、彼女は言い聞かせる。
これは一時的なものなのよ。
そう、何かの間違い。悪い夢なんだわ。
家のことだって、きっと何かの間違い。
目を覚ませば、お父様もお母様も、お優しいお兄様も。
何もかも、戻ってくるわ。
――ああ、ああ、それなのに、どうして未だ夢が醒めないの!?
時々発作のように訪れる絶望がやってくるたびに、アリーヤは自分をなだめる。
落ち着いて。
わたくしはお姫様なのよ。
いつか、王子様が迎えに来るわ。
あの獣を殺して、わたくしをここから連れ出してくださるの。
そして、幸せに暮らすの。
二人は結婚して、幸せに暮らすの――。
彼女の身体はすでに成熟しつつあった。
けれど心はいつまでも少女のままだった。
アリーヤは少女の殻に閉じこもって、自分を保とうとしたのだから。
最後の一つが、彼がやってくるとき。
その時が生きがいと言っても差し支えなかった。
その時があるから、生きていられると言っても良かった。
褐色の肌に琥珀の瞳、かすれた声の仮面の男。
王子様と呼ぶと、お姫様と心蕩ける低音で囁いてくれる彼。
それは偶然彼女の部屋に迷い込んだ高貴な男だった。
「驚いた。最近何か隠していると思ったら――」
最初に彼がそうつぶやきながら部屋に入ってきたときは、本当に現実の出来事なのか一瞬信じられなかった。
なぜなら、あの獣はアリーヤに誰かが近づくことを極端に嫌がった。
男の私邸に無理やり連れて来た時、うっかり彼女の顔を見てしまった使用人をその場で切り殺した程度に、彼は彼女を別の男に会わせたがらなかった。
それはある意味で正しい。
彼女の美貌に惑わされない者は常人にはいなかった。
女ですら、彼女に魅了されるものは少なくなかったくらいだ。
男はすぐに、世話係の侍女もなくしてしまった。
彼らが全員、ほろほろと涙を流してここから出してと訴えるアリーヤに落ちるのを知ると、衝動のままに逃げ惑う彼らを捕まえ、骨が折れるまで首を絞めて死体を屋敷の外に積み上げた。
「何故、他の者に色目を使う? 私をこれ以上苦しめて楽しいのか? 一体お前は何人殺せば気が済むのだ?」
そうやって毎晩、男はアリーヤに乱暴した。
けれど、彼女が泣きじゃくると次の瞬間には優しく抱きしめて謝るのだ。
「愛しい人よ、憎らしい人よ。あなたは私を恨んでいるかもしれないが、この胸の苦しみがわかるはずもない。あなたの瞳は私をすり抜ける。こうして、抱きしめている今でさえも。
ああ、アリーヤ、アリーヤ! どこにも行かないでおくれ。私だけを見つめておくれ。どうか、私の女になると言ってくれ。あなたがそれを許してくれたとき、ようやく私は報われる。そうしてもらうしか、もう道はないのだ。――あなたが私を愛するしか、私には救いが残されていないのだ!」
もちろんアリーヤは拒否をして、男は激昂し、再び彼女を責め立てる。
ずっとその繰り返しだった。
そんなわけで、仮面で素顔を隠していたにしろ、その男が彼女が閉じ込められていた小さなその部屋に現れたことは、劇的で奇跡的――運命だとアリーヤは感じた。
だから、あなたは王子様なの? と迷わず聞いた。
仮面の男は彼女の無邪気な言葉に驚いたように眉根を上げると、口元を緩める。
――純情な彼女はその邪悪さに気が付かない。
ただ表面の形良さに、うっとりと逆上せるのみである。
「私は、この屋敷の主の友人です。私たちは互いに秘密のない友人だったのだけど、最近様子がおかしいから、心配してこっそり見に来たのだが……」
苦笑して、そんな風に自らを説明した。
アリーヤは考える。この男がどういう人物なのか。
彼女は馬鹿ではなかったが、世間を全く知らなかった。
大事に大事に育てられ、男と言うのが時として残酷に牙をむき、女を蹂躙する生き物だと言うことを知らなかった。
悪意を持って語られる嘘があることを、知らなかった。
彼女にとっての男は二種類しかない。
王子様か、獣。
アリーヤの目はある意味で正しかった。
彼女はベリアル公が仮面で顔を隠し、質素で簡素な武人に身を窶していても、一目で彼が爵位持ちの男だと見抜いた。
けれど、ベリアル公の精神については終ぞ見抜けなかった。
彼女は彼を王子様だと信じ込んだ。
だから、すぐに言うことを聞いた。
何の疑いも迷いもなくその手を取り、その腕に抱かれた。
溺れてむせて、夢中になっていた。
そしてある時、男がここから連れ出してあげると言うと、ついにその時が来たのだと心を躍らせた。
彼女の目からは、ひどいことをされた姫が王子に助け出される――完璧なシナリオが描かれていた。
けれど屋敷の外に出て少し離れた場所で、貴公子は立ち止まると――残酷な真実を叩きつける。
「吾輩は王子様なぞではないのだよ、可愛くて愚かなアリーヤ。
さあ、教えてあげよう。吾輩の名前はベリアル。君を閉じ込めていたあの男の、弟。
そして、君の父君と兄君の仇でもあるんだ。君があんな目に遭ったのは、全部吾輩のせいなんだよ。今、全部教えてあげよう――」
ベリアル公は仮面を剥ぎ取り、今こそその醜悪な微笑を彼女に晒して見せた。
整った彼のそれは、最高の暇つぶしを満喫することによって、凄絶な光を宿していた。
「さあ、自分の境遇が理解できたなら、選びたまえ。
この手を取るか、振り払うか。
ああ、それとうぬぼれないでくれたまえ。吾輩は君のような、誰にでも足を開く娼婦を妻にするような趣味はないんだ。
君の相手は、吾輩の奴隷だ。一応格好を整えるために、騎士にはしたけれどね。
吾輩の獣と番う道を選ぶなら、君には自由と名誉の回復を約束しよう。
それが嫌なら、今すぐあの部屋に戻って兄上とよろしくやりたまえ。
君が一言愛していると言ってしまえば、あの世界は完成する。兄上は全部報われる。
――さあアリーヤ。君には希望の道なんてないんだ。どちらかに、堕ちるしかないんだ。
迷っていると兄上が来てしまうよ? そうしたらもう、あそこに戻るしかない。二度と外になんて出られない。だけど外に出たいなら、この吾輩の手を取るしかない。
――どうするの? アリーヤ」
ベリアル公はうきうきとそう言葉を紡いだ。
彼は、彼女のところに通い詰めるうちに、その顔が気に入るようになっていた。
その尋常でない造形の顔が悲痛に歪む様子を見ると、心が、身体が興奮で沸き上がった。
だから、どの道を彼女が選んでも、その顔になってくれるように。
最高の絶望で、自分を満足させてくれるように。
期待して、行動を起こした。
一方のアリーヤは、彼の言っていることはあまり理解できなかった。
けれど、彼が自分を傷つけようとしていることは、なんとなくわかった。
その眼が爛々と期待に輝いていたのだから。
「――この手を離せば、もうあなたとは会えない。そういうことなのですね?」
彼女はそっと、華奢な手にわずかに力を込め、そう問うた。
ベリアル公は少しだけきょとんとしてから、高らかに笑う。
「まあ、そうなるが――何故それを今聞く?」
「だって、あなたがわたくしの王子様なんだもの。だったら、わたくしどこまでもついていくわ。あなたがどれほど、わたくしを突き放そうとも」
アリーヤの翡翠の瞳は、真っ直ぐに琥珀を射抜く。
虚を突かれた琥珀の瞳を、ただただ強い感情でもって見守る。
そう、彼女は恋していた。
かつて初恋の彼に向けていた淡いのよりもずっと、胸の内を燃えたぎらせていた。
これが運命なのだと彼女は確信した。
ベリアル公になら、ひどいことをされてもいい。何をされても、愛し続けられる。
彼女にとって愛されることは自明のことである。
ゆえに、彼女は愛することに執着した。
そして彼女の愛とは、相手が自分に全てを捧げるまで信じて待ち続ける――そういうものだった。
だって彼女は勝利の星の下に生まれてきた女。
必ず最後は勝つことが約束されているのだから。
彼はそれを悟ると、奇妙な顔になる。
「――吾輩は勘違いしていたよ。君にとっては、家名も名誉も財も贅沢も、家族の事さえも、本当はどうでもいいことだったのだな。
君は高貴な姫なんかじゃない。ただの夢想家なんだ。――吾輩が思うよりずっと、狂った女なんだ。
だから君の美しさは、なおのこと浮世離れしているのだね」
「恐ろしいことを言って、わたくしを試しているのね、ひどい方。
けれど、わたくしは知っている。王子様は、最後にはお姫様を迎えに来るの。
試練はいつか終わるもの。わたくし、最後まで耐えて見せるわ。
あなたがわたくしを愛していると言う時が来るまで、あなたの側で待ち続けましょう。
愚かな人、あなたがわたくしをどんな目にしようとも、いつかはわたくしに赦しを請うその時がやってくるのだから」
アリーヤが瞳に涙を浮かべて言うと、ベリアル公はふっと目を細めた。
目の前の女は、呆れるほど愚かで、呆れるほど美しかった。
――これはこれで、面白いかもしれない。
この女の言うとおり、自分もいつか彼女に惚れるときが来るのなら、それはそれで。
その前に、彼女が折れるなら、それもそれで。
彼はそう結論付けると、彼女の手を引き、誘う。
彼女の言うところの試練を施すために。
自分の退屈を紛らわす遊びを続けるために。
――そんな出来事があったとはつゆ知らず、少年は花嫁に引き合わされた。
彼は思ったよりもいいものをもらったと喜んだ。
何も知らないまま、無邪気に。
アリーヤは確かに、常人とはかけ離れて美しかった。
しかし、少年が彼女に真に個人的な興味を抱いたのは、もっとくだらない――本当に取るに足らないことからだった。
花嫁の美しさに感動していた獣は、主に教えられる。
「それがお前の妻となるアリーヤだ。仲良くしろ」
途端に少年は、彼の事をよく知っている主も、全く知らずに怯えている花嫁も目を見張るほどの、それはそれは無邪気な笑顔になった。
「アリーヤ――アリー……アル」
少年は心から笑って、自分にしか聞こえないくらいの小さな声で囁いた。
「……アル……」
それはかつて――彼に歪で悲しい笑顔を残して逝ってしまった、獣が拠り所にしていた存在の名前だった。
鈍く重い痛みとともに心に引っかかっている、忘れられない思い出だった。
誰にも言わない――けれど、片時も忘れたことはない、大事な記憶。
「アル」
それは獣であったサタンと、ほんの一時だけ檻の中で身を寄せ合った最初の友達。
サタンはけしてアリーヤの美しさを好きになったわけではない。
内面を見抜いてほれ込んだわけでもない。
彼が彼女に最初に特別な「好き」を感じたのは、名前が「アル」に似ている――そんな本当に、些細でどうでもいいことからであったのだ。
理由は何であれ、結果として彼は彼女に惹かれた。
孤独な幼い少年は、美しい妻のぬくもりを期待してしまった。
「アル」がもう一度自分に寄り添ってくれるのではないかと、儚く淡い夢を見た。
けれど、彼女は彼を拒絶した。少年が獣であったがゆえに。翼のある生物は、彼女にとってヒトではない――悪魔になりえても、王子様にはなりえない生き物であったがゆえに。
彼女は姫なのだから。
獣なぞに心を許してはいけないと思った。
彼女の中の運命の王子様に、心を捧げ続けようと思っていた。
それが彼女の、冠を抱く姫の高貴な務めと信じていた。
少年は花嫁を見つめ。
花嫁は男を見つめ。
男は滑稽な彼らに、思いのほか愉しめそうだと唇を歪める。
噛みあうことのない歯車がこうして合わさり、軋んだ音を立てて回ろうとする。
できるはずもないのに、けれど運命の力は残酷に強力に、彼らの悲劇を奏で始める。