決別の兄妹
寝台の上になんとも言えない沈黙が落ちている。
やがて男の方が、横たわる彼女に声をかける。
「……お目覚めになられたらどうです」
声をかけられて少女の肩が震える。
男は少し戸惑った風な様子を見せた後、彼女に向かって手を伸ばした。
「いやっ、触らないで!」
触れられた途端に、アリーヤはベッドの端に腰掛けている彼と反対側に逃げる。
身体を隠すシーツには、ところどころ赤黒い徴が散っていた。
「ひどい、ひどいわ、こんな――」
少女はハラハラと涙をこぼす。
傷つき、打ちひしがられ、怯えているその姿のなんと可憐で愛らしいこと。
――むしろ、より加虐心を煽ること。
ごくり、と男の喉が鳴った。騎士はじっと視線を絡ませながら、低い声で彼女に言う。
「いけないのは、あなたの方だ」
「わたくし、何も悪いことなんてしてないのに――」
「あなたは、私の心を引き裂いた」
「知らないわ! そんなこと――。あなたのことなんか、知らない!」
アリーヤは顔を覆ってしゃくりあげる。
汚されてボロボロになってもなお、彼女の美貌は褪せなかった。
――むしろそれは、男の中により一層の支配欲と所有欲を喚起させた。
暗い感情とどうしようもない哀しさがこみ上げ、衝動のままに彼女を抱き寄せる。
嫌だ嫌だと泣き叫びはするが、結局アリーヤは男に身を任せている。
何があっても男に従う。それがこの時代の姫と言う生き物であるがゆえに。
「姫君、ですがこれでお分かりいただけたでしょう。愛しているのです、あなたを。こんな手を使ってでも手に入れたいほどに――」
「そんなの愛じゃないわ……あなたは獣よ!」
ズキンと男の心にまたもアリーヤのまろやかで鈴のような声が突き刺さった。
同時に、墨のように心の中に汚濁が広がっていく。
「こんなこと――どうして、どうして――」
「……それでも貴女は私のものになるしかない」
泣きじゃくる少女を腕に閉じ込めて、男は耳元で囁く。
「寝室の鍵を渡したのは、兄君ですよ。
それどころかこの屋敷の者は皆、私が今夜こうしてあなたの下へ忍んでくることを知っていた。
知っていて、見逃した。――あなたは私に売られたのですよ、姫君」
アリーヤは大きく目を見開き、男を振り返る。
「――嘘」
「では、後で直接聞けばいい」
「――嘘よ。だって、だって私は――」
同じ言葉を呆然と何度も繰り返しているアリーヤに、男は熱っぽく言った。
「姫――このような乱暴な形になってしまったことは、本当に申し訳ない。
ですが、愛しております。お慕いしております。この世の誰よりも、何者よりも。
どうか我が屋敷にお出で下さい。私の妻となると仰って下さい。私だけのものになると、言ってください。そうすれば、私は――」
「いや――いやっ、あなたなんて嫌い、大嫌い! 出ていって!」
アリーヤはしかし、男を無視してひたすら泣いている。
彼女にとって、これはありえないことだった。
自分が、こんなそれこそ猛獣のような男の意のままになるなどと。
男はため息をつくと、名残惜しそうに一度身を離して身支度を整えた。
それが終わると立ち上がり、アリーヤの方に振り返る。
「では、不本意ですが形から、ということに致しましょう」
「あなたは何を言っているの?」
「純潔を失った娘の行く末は、あなただって知らないわけでは御座いますまい」
「――わ、わたくしのせいじゃないわ! お兄様はどこ? どうして来て下さらないの!?」
アリーヤが悲鳴を上げると、男は不敵に笑んで跪く。
「ああ、愚かな姫。なるほど、あなたの王子様はあの忌々しい若造で、騎士は兄君だったのですね。
ですが、そんなところも愛おしい――。あなたのすべてが、どうしようもなく、私を狂わせる」
怯えた目で男を見つめるアリーヤの手をそっと取って、壮年の騎士は口づける。
「もう遅いのですよ、何もかも。私は貴女のためにすべて投げ出してしまった。――貴女なしでは生きられないのです。さあ、兄君にお別れを言っていらっしゃい。そのくらいの時間はさしあげましょう。それが終わったら、今度こそ――貴女は永遠に、私のもの」
その瞳は、ボタンを掛け違えたように、あるいは歯車がずれたように――どこかがおかしい、歪で狂った色に満ちていた。
「お兄様、お兄様!」
ようやく自分を取り戻したアリーヤは服を急いで羽織ると兄の部屋に飛び込んだ。
ノックもそこそこに開けた扉から、途端に流れ出てきた甘ったるい煙にむせかえる。
兄は寝台の上で一心不乱にその煙を、毒々しい色合いの壺に繋がる鮮やかな管から吸い込んでいた。
アリーヤは最初自分の目にしている者を信じられなかったが、かっと自分の顔が赤くなるのを感じる。
「お兄様――しっかりなさって!」
それでもひっぱたくでもなく横で必死に呼びかけるだけなのが、この時代の貴き男が求めた淑女――姫のあり方であった。
忠実な彼女の無謀な声は、しかしかろうじてまだ届いたのか、焦点の定まらない濁りきった兄の目が泳ぐ。
「お声をかけても出てらっしゃらない――お部屋にこもりきりだと思っていたら、こんな――こんなことになっているなんて!」
「……うる、さ、い」
妹は何とか兄の手から管を放させようとしてみるが、途端にそれまでへらへらと、とろんとまどろんでいた兄の目が殺意に満ちる。
「さわるなっ!」
「きゃあっ!」
アリーヤは兄に思いっきり突き飛ばされ、床にうずくまった。
信じられない――彼女の翡翠が見る見るうちに潤む。
本来の兄なら、この時点で我に返ってとんでもない自分の行いを恥じ、謝りながらアリーヤを助け起こし、その玉の肌に傷が残らないように優しく介抱したことだろう。
そもそも、手を上げる前に気が付いて止めたはずだ。
だが、もう彼は壊れてしまった。
だから、しまりのない顔で、再び管に口をつける。
毒々しい赤い管から、甘ったるい煙を吸っては吐き出す。
「お兄様――お兄様。ねえ、嘘でしょう? これは悪い悪夢だわ。
どうしてこんなことになってしまったの?
お父様もお母様もいなくなって、お兄様もこんな風におかしくなって、挙句、あんな――あんなことが!
ねえ、嘘って言ってくださいませ。お兄様は、わたくしを売ったりなんてしないって。
わたくし、何も悪いことしてないのに、どうして――」
アリーヤはどうすることもできずに、つぶやきながらはらはらと涙を落とす。
平時ならば実の兄をたちまち傅かせる真珠の粒も、今となってはただの多少塩分を含んだ水である。
――いや、兄の目に、ほのかな光が差した。薄暗い、光が。
「なにも、わるいことをしていない……」
「お兄様」
一瞬、アリーヤは兄が気を取り戻したのかと目を輝かせる――すぐにそれは恐怖に満ちるものへと変わった。
ぼんやり、兄は上から妹を見下ろす。
「でも、おまえがうまれたせいで、わたしはだいなしだった。
なぜだ? おんなはおとこのものだ。なのにわがやでは、わたしはいつでもおまえのあに、だった。
――わかるか? わたしのなまえはないんだ。わたしはないんだ。
かわいいアリーヤ。うつくしいアリーヤ。かしこいアリーヤ。……そのあに。
あにぎみとてかおはととのっているが、いもうとぎみにくらべれば。
いもうとぎみはごそうめいなのに、あにぎみはへいぼんだ。
あにぎみがくろうしておぼえたことを、べんきょうぎらいのはずのいもうとのほうがパッとこたえられる」
管を置き、寝台から兄が降りる。アリーヤは床に手をついたまま、思わず後ろに下がった。
「あにぎみは。いもうとが。あにぎみは。いもうとが。いもうとが、いもうとが、いもうとが――。
おまえはわるいことをしていない。なにもしていないのに――なぜ、おまえだけが」
「お兄様……」
アリーヤの美しい唇が震える。先ほどの乱暴のせいか、その端が痛々しくひび割れている。
兄はその部分に、そっと指を当てる。――すっかりやせ細り、不健康な色に染まっている指を。
「アリーヤ。ぜんぶおまえのせいなんだよ。ぜんぶぜんぶ、おまえがわるいんだ。
なにもできないなら、なぜめだたずにいられないのだ。おまえはかがやきすぎる。
わたしが――おまえのひかりのかげだった。それをいちどでも、おもったことがあるのか?」
「あなたが何を言っているのかわからないわ――。もう嫌。皆して、わけのわからないことばかり。
お兄様はどこ? 返して、わたくしのお兄様を! お優しくて、いつでもわたくしを守ってくれたお兄様を、返して!
こんなのお兄様じゃないわ。どうしてわたくしを責めるの? 可愛そうなのはわたくしなのに、どうして慰めてくださらないの? そんなお薬に逃げてわたくしを虐めて――そんなの、お兄様じゃない!
どうして――どうして、あなたはわたくしのお兄様なのに、わたくしを助けて下さらないの?」
アリーヤは兄を突き飛ばし、声を上げて泣きだした。
兄のぼんやりした瞳に、ほんの瞬きの瞬間、悲しい色が宿る。
「……そう。お前はいつもそうだ。お前は悪くない。悪いのは全部周り。本当は、そうなのかもしれないね。アリーヤ、確かに、崩れたのは私の弱さのせいだ。
けれど――お前が、自分自身がその中心であることを理解できないのは……かなしいことだ。
アリーヤ、アリーヤ。お前の側にいると、普通でいられなくなってしまうんだよ。わかるかい? それがどんなにつらいことか。
なのにおまえは、ふつうをゆるしてくれもしない――だって、わたしたちにとってのいじょうが、おまえにとってのふつうなんだから……」
喋るうちに兄の目は再び濁っていき、ついに完全に正気を失った。
「わたしは、もうつかれたんだよ。どこへなりと、いってしまえ。せいせいするとも。
ああ、たしかにおまえをうったのは、わたしだ。
きんかのたばとひきかえに、おまえはあのおとこのおんなになるのさ――」
「お兄様――嫌です、嫌――お願い、嘘と言って! わたくしを守って、ねえ! お兄様――お兄様ーっ!」
もはやすべてに興味を失くした男は、彼女が泣き叫びながら騎士に連れ去られようと、屋敷から人も物もいなくなろうと――飢え死にするその瞬間まで、幸せな気分に浸れるその管を口にして、まどろんでいるままだった。
こうして、アンドロマリウスの名前は消え去り、哀れな彼女は結婚を拒否したため、男の情人として遠い東の土地で一生囲われることになる――そんな選択もありえたのかもしれない。
しかし、アリーヤはその頭に冠を被ることを定めづけられた女だった。
アリーヤによって壊された兄。
壊されつつある騎士。
騎士の弟――退屈だけが大敵である真の貴族であった帝王が、あれほど堅実だった兄をここまで壊した少女――すでにその時女に差し掛かりつつある年齢だったが――を知らずに過ごせるはずなど、あり得なかったことなのだ。
つまり、ベリアル公とアリーヤの出会いは必然であった。
王と妻の出会いこそが、必然であったがために。