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冠を抱く者  作者: 鳴田るな
1章:伯爵令嬢
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決別の兄妹

 寝台の上になんとも言えない沈黙が落ちている。

 やがて男の方が、横たわる彼女に声をかける。


「……お目覚めになられたらどうです」


 声をかけられて少女の肩が震える。

 男は少し戸惑った風な様子を見せた後、彼女に向かって手を伸ばした。


「いやっ、触らないで!」


 触れられた途端に、アリーヤはベッドの端に腰掛けている彼と反対側に逃げる。

 身体を隠すシーツには、ところどころ赤黒い徴が散っていた。


「ひどい、ひどいわ、こんな――」


 少女はハラハラと涙をこぼす。

 傷つき、打ちひしがられ、怯えているその姿のなんと可憐で愛らしいこと。

 ――むしろ、より加虐心を煽ること。


 ごくり、と男の喉が鳴った。騎士はじっと視線を絡ませながら、低い声で彼女に言う。


「いけないのは、あなたの方だ」


「わたくし、何も悪いことなんてしてないのに――」


「あなたは、私の心を引き裂いた」


「知らないわ! そんなこと――。あなたのことなんか、知らない!」


 アリーヤは顔を覆ってしゃくりあげる。

 汚されてボロボロになってもなお、彼女の美貌は褪せなかった。

 ――むしろそれは、男の中により一層の支配欲と所有欲を喚起させた。


 暗い感情とどうしようもない哀しさがこみ上げ、衝動のままに彼女を抱き寄せる。

 嫌だ嫌だと泣き叫びはするが、結局アリーヤは男に身を任せている。

 何があっても男に従う。それがこの時代の姫と言う生き物であるがゆえに。


「姫君、ですがこれでお分かりいただけたでしょう。愛しているのです、あなたを。こんな手を使ってでも手に入れたいほどに――」


「そんなの愛じゃないわ……あなたは獣よ!」


 ズキンと男の心にまたもアリーヤのまろやかで鈴のような声が突き刺さった。

 同時に、墨のように心の中に汚濁が広がっていく。


「こんなこと――どうして、どうして――」


「……それでも貴女は私のものになるしかない」


 泣きじゃくる少女を腕に閉じ込めて、男は耳元で囁く。


「寝室の鍵を渡したのは、兄君ですよ。

それどころかこの屋敷の者は皆、私が今夜こうしてあなたの下へ忍んでくることを知っていた。

知っていて、見逃した。――あなたは私に売られたのですよ、姫君」


 アリーヤは大きく目を見開き、男を振り返る。


「――嘘」


「では、後で直接聞けばいい」


「――嘘よ。だって、だって私は――」


 同じ言葉を呆然と何度も繰り返しているアリーヤに、男は熱っぽく言った。


「姫――このような乱暴な形になってしまったことは、本当に申し訳ない。

ですが、愛しております。お慕いしております。この世の誰よりも、何者よりも。

どうか我が屋敷にお出で下さい。私の妻となると仰って下さい。私だけのものになると、言ってください。そうすれば、私は――」


「いや――いやっ、あなたなんて嫌い、大嫌い! 出ていって!」


 アリーヤはしかし、男を無視してひたすら泣いている。

 彼女にとって、これはありえないことだった。

 自分が、こんなそれこそ猛獣のような男の意のままになるなどと。


 男はため息をつくと、名残惜しそうに一度身を離して身支度を整えた。

 それが終わると立ち上がり、アリーヤの方に振り返る。


「では、不本意ですが形から、ということに致しましょう」


「あなたは何を言っているの?」


「純潔を失った娘の行く末は、あなただって知らないわけでは御座いますまい」


「――わ、わたくしのせいじゃないわ! お兄様はどこ? どうして来て下さらないの!?」


 アリーヤが悲鳴を上げると、男は不敵に笑んで跪く。


「ああ、愚かな姫。なるほど、あなたの王子様はあの忌々しい若造で、騎士は兄君だったのですね。

ですが、そんなところも愛おしい――。あなたのすべてが、どうしようもなく、私を狂わせる」


 怯えた目で男を見つめるアリーヤの手をそっと取って、壮年の騎士は口づける。


「もう遅いのですよ、何もかも。私は貴女のためにすべて投げ出してしまった。――貴女なしでは生きられないのです。さあ、兄君にお別れを言っていらっしゃい。そのくらいの時間はさしあげましょう。それが終わったら、今度こそ――貴女は永遠に、私のもの」


 その瞳は、ボタンを掛け違えたように、あるいは歯車がずれたように――どこかがおかしい、歪で狂った色に満ちていた。



「お兄様、お兄様!」


 ようやく自分を取り戻したアリーヤは服を急いで羽織ると兄の部屋に飛び込んだ。

 ノックもそこそこに開けた扉から、途端に流れ出てきた甘ったるい煙にむせかえる。

 兄は寝台の上で一心不乱にその煙を、毒々しい色合いの壺に繋がる鮮やかな管から吸い込んでいた。


 アリーヤは最初自分の目にしている者を信じられなかったが、かっと自分の顔が赤くなるのを感じる。


「お兄様――しっかりなさって!」


 それでもひっぱたくでもなく横で必死に呼びかけるだけなのが、この時代の貴き男が求めた淑女――姫のあり方であった。

 忠実な彼女の無謀な声は、しかしかろうじてまだ届いたのか、焦点の定まらない濁りきった兄の目が泳ぐ。


「お声をかけても出てらっしゃらない――お部屋にこもりきりだと思っていたら、こんな――こんなことになっているなんて!」


「……うる、さ、い」


 妹は何とか兄の手から管を放させようとしてみるが、途端にそれまでへらへらと、とろんとまどろんでいた兄の目が殺意に満ちる。


「さわるなっ!」


「きゃあっ!」


 アリーヤは兄に思いっきり突き飛ばされ、床にうずくまった。

 信じられない――彼女の翡翠が見る見るうちに潤む。


 本来の兄なら、この時点で我に返ってとんでもない自分の行いを恥じ、謝りながらアリーヤを助け起こし、その玉の肌に傷が残らないように優しく介抱したことだろう。

 そもそも、手を上げる前に気が付いて止めたはずだ。


 だが、もう彼は壊れてしまった。


 だから、しまりのない顔で、再び管に口をつける。

 毒々しい赤い管から、甘ったるい煙を吸っては吐き出す。


「お兄様――お兄様。ねえ、嘘でしょう? これは悪い悪夢だわ。

どうしてこんなことになってしまったの? 

お父様もお母様もいなくなって、お兄様もこんな風におかしくなって、挙句、あんな――あんなことが!

ねえ、嘘って言ってくださいませ。お兄様は、わたくしを売ったりなんてしないって。

わたくし、何も悪いことしてないのに、どうして――」


 アリーヤはどうすることもできずに、つぶやきながらはらはらと涙を落とす。

 平時ならば実の兄をたちまち傅かせる真珠の粒も、今となってはただの多少塩分を含んだ水である。


 ――いや、兄の目に、ほのかな光が差した。薄暗い、光が。


「なにも、わるいことをしていない……」


「お兄様」


 一瞬、アリーヤは兄が気を取り戻したのかと目を輝かせる――すぐにそれは恐怖に満ちるものへと変わった。

 ぼんやり、兄は上から妹を見下ろす。


「でも、おまえがうまれたせいで、わたしはだいなしだった。

なぜだ? おんなはおとこのものだ。なのにわがやでは、わたしはいつでもおまえのあに、だった。

――わかるか? わたしのなまえはないんだ。わたしはないんだ。


かわいいアリーヤ。うつくしいアリーヤ。かしこいアリーヤ。……そのあに。

あにぎみとてかおはととのっているが、いもうとぎみにくらべれば。

いもうとぎみはごそうめいなのに、あにぎみはへいぼんだ。

あにぎみがくろうしておぼえたことを、べんきょうぎらいのはずのいもうとのほうがパッとこたえられる」


 管を置き、寝台から兄が降りる。アリーヤは床に手をついたまま、思わず後ろに下がった。


「あにぎみは。いもうとが。あにぎみは。いもうとが。いもうとが、いもうとが、いもうとが――。

おまえはわるいことをしていない。なにもしていないのに――なぜ、おまえだけが」


「お兄様……」


 アリーヤの美しい唇が震える。先ほどの乱暴のせいか、その端が痛々しくひび割れている。

 兄はその部分に、そっと指を当てる。――すっかりやせ細り、不健康な色に染まっている指を。


「アリーヤ。ぜんぶおまえのせいなんだよ。ぜんぶぜんぶ、おまえがわるいんだ。

なにもできないなら、なぜめだたずにいられないのだ。おまえはかがやきすぎる。

わたしが――おまえのひかりのかげだった。それをいちどでも、おもったことがあるのか?」


「あなたが何を言っているのかわからないわ――。もう嫌。皆して、わけのわからないことばかり。

お兄様はどこ? 返して、わたくしのお兄様を! お優しくて、いつでもわたくしを守ってくれたお兄様を、返して! 

こんなのお兄様じゃないわ。どうしてわたくしを責めるの? 可愛そうなのはわたくしなのに、どうして慰めてくださらないの? そんなお薬に逃げてわたくしを虐めて――そんなの、お兄様じゃない! 

どうして――どうして、あなたはわたくしのお兄様なのに、わたくしを助けて下さらないの?」


 アリーヤは兄を突き飛ばし、声を上げて泣きだした。

 兄のぼんやりした瞳に、ほんの瞬きの瞬間、悲しい色が宿る。


「……そう。お前はいつもそうだ。お前は悪くない。悪いのは全部周り。本当は、そうなのかもしれないね。アリーヤ、確かに、崩れたのは私の弱さのせいだ。

けれど――お前が、自分自身がその中心であることを理解できないのは……かなしいことだ。

アリーヤ、アリーヤ。お前の側にいると、普通でいられなくなってしまうんだよ。わかるかい? それがどんなにつらいことか。

なのにおまえは、ふつうをゆるしてくれもしない――だって、わたしたちにとってのいじょうが、おまえにとってのふつうなんだから……」


 喋るうちに兄の目は再び濁っていき、ついに完全に正気を失った。


「わたしは、もうつかれたんだよ。どこへなりと、いってしまえ。せいせいするとも。

ああ、たしかにおまえをうったのは、わたしだ。

きんかのたばとひきかえに、おまえはあのおとこのおんなになるのさ――」


「お兄様――嫌です、嫌――お願い、嘘と言って! わたくしを守って、ねえ! お兄様――お兄様ーっ!」


 もはやすべてに興味を失くした男は、彼女が泣き叫びながら騎士に連れ去られようと、屋敷から人も物もいなくなろうと――飢え死にするその瞬間まで、幸せな気分に浸れるその管を口にして、まどろんでいるままだった。



 こうして、アンドロマリウスの名前は消え去り、哀れな彼女は結婚を拒否したため、男の情人として遠い東の土地で一生囲われることになる――そんな選択もありえたのかもしれない。



 しかし、アリーヤはその頭に冠を被ることを定めづけられた女だった。


 アリーヤによって壊された兄。

 壊されつつある騎士。


 騎士の弟――退屈だけが大敵である真の貴族であった帝王が、あれほど堅実だった兄をここまで壊した少女――すでにその時女に差し掛かりつつある年齢だったが――を知らずに過ごせるはずなど、あり得なかったことなのだ。


 つまり、ベリアル公とアリーヤの出会いは必然であった。


 王と妻の出会いこそが、必然であったがために。

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