罅
かなり温めの表現ですが、おっさんが少女に襲い掛かります。
苦手な方はご注意くださいませ。
娘が若い貴公子と夢中になって時を重ねている間に、父は呆気なく死んでしまった。
アリーヤはもちろん母親と一緒に彼の死体を前に泣いたが、それは高貴な女性なら当然そうするから自然と彼女も行うのであって、別段そこまで悲嘆に暮れていたわけではない。
ただ、どうにも不吉な予感に心がざわついていた。
はたして騎士の予測通り、娘の泣き落としに父はあと少しでほだされるところであったのだ。
今は見どころがないのでも、将来帝王になる男なのかもしれない。娘の夫は帝王なのだから、そういう考え方もできる。
父親とて一人の男。アリーヤは男を惑わせることに関してはまさに天才であった。
彼女の涙を見て動揺しない男はいない。
いるとしたら、それは悪魔か、女と言う生き物を愛せない心の持ち主のどちらかだったろう。
だが、父の死ですべては水泡に帰した。
アリーヤはだから、自分のために泣いた。そして、涙によって男に媚びるために泣いた。
――ちらりとも意識せずに、息をするのと一緒に、そういうことをした。
そういう女だった。
麗しの姫君は恋人に、今こそ自分に相応しい王子としての活躍を期待した。
しかし、彼の本質は帝王とは程遠い、ごくごく普通の貴族の甘やかされて育った三男である。
今までは絶えず百花のような笑みを浮かべていた恋人が、父を失って悲嘆にくれ泣き暮らしていると、だんだんと足取りも遠くなる。その程度の、心の弱さ。
整った外見と優しさをアリーヤは好いた。
それくらいしか貴公子には取り立てて誇る長所がなかった。
一応断っておくと、あらゆることが青年にできなかったわけではない。
彼は文に優れていた。武だって優秀だった。芸術に対する理解だってあった。
ただ、他者と比べればどれもこれも平均点の、器用貧乏だったのである。
平凡であることが悪いわけではない。
凡庸であるのは、それはそれで才能だ。
美人は不美人同様奇形である。
つまり、異常だ。
そして一定量以上の異常がもたらすものは、混乱と反発――すなわちカオスである。
ひょっとしたら、それは補完だったのかもしれない。
自分にないものだから、アリーヤは求めたのかもしれない。
だとしても、どうしようもなく男を見る目はなかったのだろうけれど。
アリーヤは一途に恋人を辛抱強く待った。
お父様がお亡くなりになってわたくしどうすればいの? と嘆く彼女を、いつか迎えに来るから、なんてあまりにも適当な別れ言葉で去って行った彼を、信じて待ち続けるつもりだった。
――最初の歪は兄が作った。
悲しいことに、兄は馬鹿ではなかった。
ずっと、妹にやさしく接し、笑顔を向け、愛しながらも、どこか心にしこりのある自分を知っていた。
知っていたが、気が付かないふりをしていた。
妹は確かに、血縁者の贔屓目を差しひいても美しい。
自分に対して甘く、泥臭い努力が嫌いで、それらから逃げるために少々小賢しいが、それすらも愛くるしい。
だが、それだけではないか?
自分は厳しく躾けられ、分相応に、身の丈以上のものを望むなと言われて育った。
妹は、それこそ生まれたその瞬間から、いつでも惜しみなく与えられる。
この違いはなんだろうか?
そしてこの兄の尚更不幸だったことには、妹と違って客観的にそんな自分を評価できる、その能力が備わっていたことであろう。
どこまでも凡庸な自分を見せつける妹。
兄がどんなに努力しても叶わないことを、妹はいともたやすく行う。
天に与えられた者と、与えられなかった者。
絶望的なまでの妹と自分の間に横たわる見えない溝を、兄は早いうちから理解していた。
いや、彼が目を背けたって、世界中が彼に囁いた。
妹の外見が。仕草が。言うことが。することが。
それに対する周囲の反応が。母親の――父親の、明らかに自分とは異なる、反応が。
それでも、兄は自分たち特権階級と庶民の間の越えられない壁のように、妹も自分より一段高い場所の生き物なのだと理解して納得していた。
それなのに、自分と同じように、容姿が美しく、微笑み誰かの言うことを聞くことでかろうじて世に存在することを許されている男を、妹は選んだ。
――帝王を、選んでいたのなら。
冠に相応しい覇王を選んでいたのなら、兄とて納得しただろう。
だが、彼女は凡人の手を取った。
凡人の妻になりたいとのたまった。
彼の目の前、父親に向かって、心の底から幸せそうな笑顔で。
思えばその瞬間から、兄は少しずつ壊れていたのだろう。
小さな罅は、それでも未だ持ちこたえていた。
父亡き後、嘆くだけでもいい女どもと違って、兄は必死に先代のようにと勤めた。
だが、彼は父にはどうしても及ばなかった。
無理もない。
そもそも彼は父とは他人であったし、父のあった経験というアドバンテージが彼には足りなかった。
悪かったわけではない。
むしろ、慣れない領地の運営を一気に任されたにしては、兄はよくやった。
よく、踏みとどまった。
だが、凡庸ではだめなのだ。
現状維持ではだめなのだ。
なぜなら、彼には妹がいるから。
彼は成果を出さねばならなかった。
必ず、誰にでもわかるほど、大きくてポジティブな結果を出さなければならなかった。
あの妹の兄。
才気煥発な妹君に比べて、パッとしない兄。
その言葉がどれほど、彼を苛み、苦しめたことだろうか。
一つ一つは少しの罅。けれど重なれば、いずれ時はやってくる。
そんな折に、壊れかけの彼と優しい男とは、仮面舞踏会で知り合った。
真面目な彼だったが、たまには息抜きを、と見かねた友人が気を利かせて誘ってくれたのだ。
声をかけてきたのは向こうからだった。
仮面の下の素性はもちろん秘密だが、それでも隠し切れないほどの財と怪しい魅力が男にはあった。
独特のかすれた低い声に囁かれると、男の身でもどこかくらりとする感じがあった。
「君は、真面目過ぎるんだ。もっと楽に、そう――肩の力を抜いて」
男に薦められるがまま、兄は鬱憤を晴らすがごとく浪費にふけるようになっていった。
金を使う遊び。賭博。
今まで真面目に脇目も振らず一心に生きてきたことが、かえって悪い方向に働いた。
道を踏み外したことのない子供は、どこまで踏み外していいのかわからない。
そして子どもなら助けてもらえることもあろうが、大人が道を踏み外せばその先は。
「もう、父上はいらっしゃらない。君は自由だ。何を恐れることがある? 吾輩が助けてあげよう」
男の囁きに耳を傾けていると、どうしようもなく心地よかった。
導かれるままに手を取って、誘われるままに吸い込んだ。
「君はもう、十分やっているさ……。だからこれは、それに対する正当なご褒美なんだ。
心配することはない。吾輩の言うことが信じられないのかい?
そうだ。我々は――友達、だろう?」
甘美な、幻へといざなう薬を。
妖しげな男とつるむうち、静かに、確実に、彼は失っていった。
家の財を。
家の評判を。
親しい人々を。
健康な身体を。
少しずつ、少しずつ、長い間大事に築き上げてきたものが、あっという間に崩れる。
それに対して何かを思えるような心だって、とっくの昔に失くしていた。
いつの間にか母も死んでいたが、どうでもよかった。
いつの間にか妹が泣いていたが――どうしようもなく、その様に満たされた。
ひどい、お兄様は悪魔だわ。
――そんな言葉にこそ、陶酔を覚えた。
かすれ声の男は、真っ青な顔の男を前に、金色の鍵を弄んで遊んでいる。
「まったく、これだから兄上はいけないね。
武人だろう、人殺しになんて慣れているはずじゃないか。それを、たった一人だけでその後躊躇してしまって――いや、もともとこういう手は苦手だったかな?
馬鹿らしい。過程なんてどうでもいいんだよ。結果があれば、ね」
その眼に憎悪を滾らせつつも、どうしようもなく鍵から目を離せずにいる兄にほくそ笑み、仮面の男は――ベリアル公は、言った。
「さしずめ、これは乙女の秘所に続く道。そう、寝室の鍵だとも――。
当代アンドロマリウス伯は、実の妹を売女にすることに何の抵抗も示さなかったよ。
駄目押しに薬のせい、という言い訳まで与えてやったんだ。落ちないはずがないけれどね」
上から下に、鍵が落ちる。手から手に、鍵が渡る。
「当主も、使用人も、この屋敷にいる奴は皆グルだ。邪魔者はいない。
――彼女は、君のものだ」
騎士は突き返すべきだった。
ここまでお膳立てをした弟が、見返りを求めないはずがない。
企みごとをしていないはずがない。
異母弟が本心では自分を蔑んでいることまでわかっていたのだから。
彼には彼女の父親を排除するだけのことはできたが、それ以上は罪悪感に苛まれ、遠くから見守る日々に戻ってしまった臆病者だったのだから。
引き返すなら、ここだった。
だが、できなかった。
同時に分かっていたから。
ここで鍵を捨てれば、弟は必ずそれを拾う。手間をかけてタダで帰る男ではない。
できない。この機を逃せば、二度とその手に彼女を抱けることはない。
できない。よりにもよってこの弟に――ベリアル公に、彼女をくれてやるなどと。
だから、彼は欲望に忠実に従って、こじ開けた。
差し込んで、捻った。
真のご令嬢であらせられたアリーヤだからこそ、侵入者に対する抵抗の術なんてなかった。
当時の貴族社会では、男はヒトを傷つける魔法も魔術も教えられるが、女はそういったこととは無縁だった。
知ろうとすれば、厳しく糾弾され、罰せられた。
由緒正しきお人形に、そんなもの必要ないからである。
泣いても誰も来なかった。
叫び声は、すぐに塞がれた。
それでも彼女なりに精いっぱい、儚い抵抗はした。
こんなことがあっていいはずがない。
自分はお姫様なのに。
彼女だって知っていた。
姫のために命を懸ける王子はいても、娼婦のために心を捧げる男なんていない。
嫁入り前の、貴族の娘。
あってはならない、こと。
――何か見えないものが。それでも、今までは確かにあった大切なものが砕け散る音とともに。
純潔の証が、散った。