帝王と獣
アリーヤの噂が魔界中の貴族たちに知れ渡り、誰もが彼女の名前を覚える頃、灼熱の大地と呼ばれる南部に男は立った。
アリーヤにすげなくフラれ、憎悪に心を燃え立たせている武骨なヒゲの騎士である。
彼は群雄割拠の時代にあってそこそこの武功は立てていたが、アリーヤの父に帝王と認められるまでには遠く及ばなかった。
伯爵は娘の夫は天下人だと知っていたから、東部の一つの州を掌握していたくらいではちっともその気にならなかったのだ。最低限、東西南北の一つの部か、中央部の誰か。そうでなくてはならぬと信じていた。
その意味で最有力と言っても構わない人物があった。
中央部の一部及び南部の大部分という、広大な土地を代々支配するベリアル公である。
しかも当代は病死した先代から継いでから少し年を重ねただけ、アリーヤとも十分つり合いは取れる。さらにまだ妻を娶っていない。遊び歩いていると言う噂には若干の不安を覚えるが、一部ではすでに「帝王」とすら呼ばれ始めているベリアル公がかの男であると父は予感していた。
今のところ接点はないが、なんとかつながりを得られないものか。出遭いさえすれば、親の贔屓目を除いても十分出来のいい娘だ。きっと気に入って下さるに違いない。父親は徐々にそう思うようにすらなっていた。
その「帝王」の館を前に、男は歯ぎしりし、骨がなるほど拳を握りしめて立っていた。
――二度とは踏まぬと思っていたこの大地。
だが、背に腹は代えられぬ。矜持はあの美少女に打ち砕かれた。ならば、これ以上の醜態を晒したところで何も減るものはない。
男は決心すると、歩みだす。屋敷の門番のところまでやってくると、右手から指輪を抜き放ち、投げつけて言い捨てた。
「ベリアル公に、お会いしたい。それを見せれば、私がだれかはわかるはず」
「アンドロマリウス伯?」
褐色の肌の青年は、特徴的な少しかすれた声を上げた。これが件のベリアル公本人である。
瞳は淡い光沢を放つ琥珀色、髪の毛は白銀。生えそろった二本の角も、若年ながら見事な男ぶりであった。
外は立っているだけで汗が出てくるような暑さだが、屋敷の中は所々に涼を取る贅沢な仕掛けが施されている。たとえば、この小部屋の窓から見える噴水。
騎士にこういったいわゆる無駄は理解できなかったが、ベリアル公は彼の言うところの雅だとか面白いものを好んだ。少し様子を見ても客人が黙っているままなので、勝手に主人は言葉を続ける。
「北西のどうということもない領地だったな。あそこは取っても旨みが少ないから、北も西もあまり手を出したがらないんだったっけ。可もなく不可もなく――伯も哀れなものだな。祖先が余計な忠義などであんな場所に居を構えてしまうとは。せめてもっと南の方ならまだやりようはあったのにな。――いや? 当代は戦下手と聞く。ならば無駄に攻め込まれないあの地が適任だったのやも」
多少もったいぶった話し方をする青年は、対するヒゲの男と肌の色だけが同じで、目鼻立ちは違うがどことなく輪郭が似ている。
硬直している相手を余所に、自分で自分のこれまた細かい意匠の施された杯に果実酒を注いで一杯あおった。美味しそうに喉を鳴らしてから、彼はその見事な琥珀の瞳を騎士に向けて尋ねる。
「だけど娘が大層美人だって言うのは、吾輩も聞いているよ。傾城だとか魔性だとか。それで? 兄上は何が望みなんだ?」
どこかからかうような調子に、壮年の騎士は震えた。
――できれば生涯会いたくなかった。このスカした顔の血縁者に、とっくに彼の思惑なんて見透かしているだろうにあえて発言をさせるこの男に、しかし声を絞り出し、語りだす。
「つり合いが取れぬ、見苦しい、老いらくの恋と笑うなら笑えっ……二度とお前の前に姿を見せるつもりはなかった。だが、私は――私はどうしても、あれが欲しい――アリーヤ! ああ、こんなに離れていてもあの憎らしい顔が焼き付いて離れない……。嫌だ。あんな若造に渡してしまうなんて、絶対に嫌だ――!」
「ははあ、なるほど。堅物の兄上がどうしたことか、見事な乱れっぷりだ。それで恥を忍んで現れたってわけか。ああ、勘違いしないでくれたまえ。吾輩は母上とは違う。貴方を我が血族として親愛感情を抱いている。だからこそ、吾輩を頼ってくれたのだろう? 大体、吾輩は兄上のことをけなしたことなんてないじゃないか」
二人はいわゆる腹違いと言う奴だった。もちろん、弟であるところの青年の方が嫡子である。
兄は私生児で、最初の頃こそ男の子のいない父親に、それこそ跡取りと遜色ない扱いを受けていたが、弟が生まれた瞬間にその興味を失った。しかもこの弟は、明らかに兄よりも出来が良かった。
見た目といい中身といい、何重の意味でも。兄は自分の人生を滅茶苦茶にしてくれたこの弟が大嫌いだった。用済みだからとあっさり見捨てたこの家が大嫌いだった。成人してからは、遠い東部で独り身を立ててきた。
だが、望みをかなえるために、一番頼りになるのがこの弟で、無様な様を見せつければ喜んで協力するような性格なのだということもよく知っていた。
彼に選択肢はなかった。美しく残酷な女神に、すっかり骨抜きにされてしまっていたのだから。
顔も武骨で熊のようなと形容されたこともある兄と違い、仕草も姿もどこか洗練された風の弟は、ぎらぎらとした剣呑な瞳ににこりと微笑んで見せる。
彼は杯に指を一本浸し、その場に何か印を書いて掌に収まるような小瓶を呼び出した。中には透明な液体が入れられている。兄にそれを手渡しながら、弟は穏やかに、なだめるように声を上げる。
「ベリアル公が望むならもちろん、すべては手に入るよ。愛しの兄上の望みもかなえて差し上げよう。さあ、受け取りたまえ」
「これは……?」
「おっと。迂闊に開けてはいけない。それはね、猛毒だよ。目にひとしずく垂らすだけで、あっという間に死に追いやれる。相手は伯だが、何、あの領地は大して取り分が少ないからか、少々大目に爵位が盛られている。そこまでの力は持っていない。実質子爵――下手をすると男爵レベルだろうなあ。ダメ押しに3滴も入れれば十分だろう。それに先代と違って当代は凡庸と聞く。多少頑固らしいが、そうは手こずらされないさ。まあ、最近は目に患いが出始めているらしいから、良く効く薬だとでも言って、土産に進呈するといいんじゃないのか? 父親がいなくなれば、後は気弱な妻と世間知らずな田舎者の兄。いくらでも切り崩せる。ああ、言うまでもないことだけど、受け取るからにはうまくやってくれよ。まあ、兄上は吾輩が嫌いらしいから、出せと言ってもベリアルの名前は出さないだろうけど。――というよりも、むしろベリアルの血を引いていると言った方が話は早かったのでは?」
兄は何でもない事のように、よどみなくスラスラと言ってのける弟にさっと顔を曇らせた。
「黙れ。あの見栄っ張りが、汚れた獣人混じりなんかに娘を下げ渡すものか。ベリアルの名前を出したら、話はお前に行く。私なんか相手にもされない」
「だからそんなに殺気立った目を向けないでくれたまえよ。見合い話だったら、それこそうんざりするほど持ち込まれてるさ。アンドロマリウスを選ぶ確率は低い」
「それより、伯とはあまり懇意ではなかったのでは? なぜ目のことまで知っている」
「別にさして興味を向けてなかっただけで、この程度の情報いくらでも入ってくるさ。吾輩はベリアル公だもの」
終始一貫、全然大したことではないといった様子に、ああそうだ、こいつはそういう奴だったと思いだし、煮え立つ心をなんとか鎮める。
どのみち、彼を頼るしか彼女を確実に手に入れる術はないのだ。彼女の心は既に決まっている。頑固な父親だが、あの娘に本気で懇願されたら恋愛結婚を許しかねない。
結局、やはり自分はこの弟に媚びるしかないのだ。口では気にしないと言っておきながら、その眼にありありと劣る兄への嘲りを浮かべるこの男に、一生頭の上がらない借りを作ってしまった。
――だが。それでも、どうしても。アリーヤが、ほしい。
兄の葛藤を知ってか知らずか、青年はぽんと両手を打った。
「そうだ兄上。まあ気晴らしとまではいかんかもしれないが、ちょっといいものを見せてあげよう。その瓶は、早くしまいたまえよ」
訝しげな顔をする騎士に、弟は悪戯っぽく微笑むと、不意に指笛を鳴らした。
騎士は言われたとおり、懐に小瓶を忍ばせる。
直後、さっと風が吹いて人払いをしていた二人の前にそれは現れた。
騎士はその姿を認識すると、一瞬の間の後、血相を変えて後ずさる。
「どうだい。結構値が張ったんだ。でも、なかなかいい買い物をしたと思わないか?」
ベリアル公は兄の反応に満足そうに笑うと、傍らに行儀よく畏まったそれの頭を撫でた。
それは金の髪をしていた。瞳も同じく金。頭からは成長途中であるらしい未発達な4つの角、そして背中からは一対の竜翼。
ベリアル公の身にまとう、鮮やかでさわり心地のよく体全体を覆う衣服と対照的に、やせっぽちの手足がさらけ出されている簡素な上下。首と両手に枷があり、額と腕には随分念入りに隷属の紋章が刻み込まれているそれを見れば奴隷なのかとも思うが、あまりにもその姿は異様だった。
ヒトか? 獣か? 呆然としたまま、兄はつぶやく。
「それは、竜か?」
「いや」
混乱し、問うた兄に弟はどこか妖しく目を煌めかせて言い放つ。
「もっと素晴らしい、化けものさ」
しかし、主に目の前で言ってのけられ、ため息を押し殺して顔に笑みを張り付けているこの少年こそ、真の帝王――後のアリーヤの夫なのであった。
それは本人はもちろん、ベリアル公ですらまだ知りえないことだった。