落ちる冠
本日二話目の更新です。
長い長い、沈黙。
女はふっと目を伏せ、それから王をひたと見据える。
「おわかりになりませんか?」
「わからんから聞いている」
「――愛ゆえに、です。わたくしのあなた様への愛ゆえに」
「殺したことは認めるのか」
「わたくしは何もしておりません」
「――なるほど。実行犯は別にいたと」
「本当に何もしておりませんもの。わたくしはあの子がいてはならない者だと思いました。あなたをたぶらかす悪い子は、いなくなれと思いました。それだけですわ。それ以上は、何も」
「お前にとっては、あれは害悪とみなされたわけだ」
「はい。卑しい平民があなた様のような方に何も邪気なく近づくはずがございません。ですから、早く身を引いてほしいと思っておりました。あのような形になってしまったのは、残念ですわ」
「それがお前の真実か?」
「はい――陛下」
女の目はきらきらと、星のように無邪気に光り輝いている。
観客たちは、絶句していた。
王は少しの間考え込むように黙っていたが、ふと思いついたように呟く。
「先ほど愛と言ったな。お前の語る愛とは何だ?」
「その方の特別になりたいと望む気持ちです――」
刹那、王は笑い出した。
女は驚いたように目を見開き、困惑した様子でそれを見守る。
「――お前の愛は自分本位なものなのだな。冠をなくしたところで、お前はやはりお前だったか」
言われた直後はぽかんとしていたが、すぐに女の顔は赤くなる。――怒りで、紅潮する。
王は静かに、ただただ静かに彼女に言い聞かせる。
「ジゼルはそうは言わなかったぞ。あれは愛は与えるものだと余に言って聞かせた。だから、余がそばにいるだけで与えられている自分は愛されているし、余に少しでも何か与えようとすることが愛することだと言った。――まあ、実際のところはどうなのかわからずじまいだったがな。わかりかけてきたころに、あれが死んでしまったから」
冷え冷えした目で語る王に対する女の目もまた、今までのようにひたすら甘え許しを請うそれではなく――剣呑な光を、宿し始めている。ジゼル、あれ、と王がその存在を語るたびに、鬱陶しげにピクリと瞼が震える。
「お前は余があれを語ることすら許さない。――狭い世界で、自分が中心で、その他なんてどうでもいい。やはりお前はそういう女だ。――そういう女でしか、いられないのだな」
「――陛下」
「遅すぎる――今となっては何もかも、遅い」
一度目を閉じて、開く。
王の顔は、どこか疲れたような、寂しいような――そんな諦念に似た何かに染まりつつあった。
「真実か。ならば余も真実を――昔を語ろう。かつての余は、お前に笑ってほしかった。褒めてほしかった。求めてほしかった。――くだらない理由だ。重なるはずもない面影を無理にお前に見ようとした。だが、お前は余を拒絶し続けた。どんなに言い訳を並べようと、それはまぎれもない事実だ。どころか、たった一つの安らぎすら許してくれなかったではないか」
漏れ出た溜息は、誰のものだったのか。空を、心を、魂をほんのりと揺らす。
「アリーヤ。お前は美しい。――本当に、俺が普通の男だったら、何をされても許してしまいたくなるほど、綺麗な女だ。だが、お前の中身はやはりどうしようもない。お前は本質的に、自分だけの女なんだ。ならばなぜ、自分だけの世界で閉じていない。好き勝手なだけならいくらでもやるがいいさ。だがそれに、周りを、余を巻き込むな。もう、お前の我儘につきやってやるほど――お前を可哀想な女だとは、思えないんだよ。今の余は、お前の特別になりたいとも思わないし、お前がどう思っていようとも気にならない。――それがまだ、わからないのか」
サタン王は今度こそ、その場を立ち去ろうとした。しかし再び女は取りすがる。
「待って――待って!」
「――離せ」
「嫌です。愛しているの――離れたくないの!」
「もう知ったことか、お前のことなんか。どこへなりと行ってしまえ、余の見えない所に」
「でも、わたくしはあなたから離れられない――離れられないのよ!」
女の顔が、またも変わる。
――それをなんと形容しようか。化け物、と表現するのが正しいだろうか。
美の衣で武装した、化け物が――常人ならばすぐにでもその足元に身を投げ出し、その爪に引き裂かれることを望んでしまうような化け物が――しっかと王の腕を捉え、その顔を爛々と輝く翡翠で縫い留めていた。
「なりません――絶対に、それだけは許さない。たとえ王妃でなくなろうとも、他の誰に何と言われようと――わたくしは、あなたを離さない――いいえ! あなたの勝手なんて、許しませんっ!」
ヒトビトはその美獣の上に燦然と輝く冠を幻視する。
サタン王は今こそ、笑顔の仮面を脱ぎ捨て――彼の本当の顔で、冠を抱くそれと向き合っていた。
壮麗な幻の冠と、黄金の光が交錯する。
「サタン! わたくしを廃すると言いましたね――認めません」
「ほう?」
「あなたが帝王なら、わたくしはその妻――帝王の、妻です! あなたと互角の身。あなたと同じ権利を持つもの。わたくしはこの座を降りません。あなたが何を言おうと、何をしようと――」
「そうか。お互い譲らんと言うわけか。――ならば、こうするのが何よりも手っ取り早いな」
その瞬間、アリーヤは自分の体がぐらっと揺れたのを感じた。
……遠くで誰かの叫び声が聞こえる。
衝撃に遅れてやってくるのは、焦げるような熱さ――そして、耐えがたい激痛。
アリーヤはよろめき、肩を押さえて悲鳴を上げた。
幾多のものを凪いできた王の手は、今この美鬼の上に振り下ろされていた。
アリーヤは自分の腕が遠くに無様に転がっていくのを見る。
深紅のドレスが、床が、それとは違う赤にみるみるうちに染まる。
周囲は――ある者は王を止めようと、ある者は王妃を庇おうと動こうとしたが、なせなかった。
――久方ぶりの王の殺気に中てられて、誰も動くことはかなわなかった。
ただ一人、王にその全力の殺意を向けられた王妃だけが、打ち捨てられた子犬のように、怯えたつぶらな瞳で彼を見上げる。
だが、この人殺しはその程度の目、見慣れきっていた。どれほどほかの者には憐憫を訴えかける様なのだとしても、一度目の前の獲物を殺そうと決意した獣には通じない。
「よくわかった。お前はこの場で消さなければならん。生かしておけば必ず害になる。余がぬるかった。それをさっき、思い知ったよ」
「陛下!」
「ああ、そうだ。結局余は――俺はこういう男だ。殺すことしか能がない。――最初から、こうしておけばよかった。そうすれば、誰も苦しまずに済んだのやもしれぬ」
王の手に、輝く光の剣が現れる。かつてベリアルに与えられ、それより数えきれぬほどの命を奪ってきた凶器は、使用前の見た目だけならただただ神々しい。
アリーヤはすすり泣き、許しを、慈悲を、情けを請うた。
自分から離れないでくれと、この時でも切々と訴えた。
王は静かに、光の剣を掲げる。
きらりとまるで朝日のように、それは場違いに明るく輝いた。
一度だけ止まって、王は言った。
「これで、お別れだ。余の最初で最後の妻だった女よ」
アリーヤはその瞬間――うなだれて泣き腫らし、すべてを諦めかけていた女がその瞬間、バッと顔を上げた。
彼女はもう、嘆いてはいない。
否。
嗚咽どころか艶やかに、咲き誇った大輪の花のごとく笑みを咲かせ、夫の手を迎えた。
微笑む彼女の心に刹那の瞬間、想いが溢れ出る。
――最初で、最後の妻。
――ああ、ああ!
――そうよ。わたくし以上のどんな女が、この方の横に立てると言うの?
――わたくしはアリーヤ。冠をその手に抱く女――。
――そして、サタン王の最後の女だったのだわ。
――特別な――最後の、女――。
剣が落ちる。
一撃目で、ぐらりと体が崩れる。ぱっと赤く美しい花が飛び散った。
間髪入れず横に薙ぎ払った二撃目の鈍く鋭い音とともに、彼女の首はぽんと飛んで落ちる。
倒れこむ身体、広がる血飛沫には目もくれず、王は足元に転がってきた彼女の首をぼんやり見た。
「……最期まで愚か者だったな」
開きっぱなしの翡翠の目は、変わらずに麗しい。
しかし生きているときの輝きを、もう宿してはいない。
それを静かに見つめていたかと思うと、王はかがみこむ。
首をそっと拾い上げて、うつろな微笑みを浮かべるその顔をじっと眺めた。
「だけど、余は――俺は。そんな君でも――そんな愚かな君だったから。どうしようもなく、馬鹿な俺と君だったから――好きだった」
彼は顔を寄せたが、口づけなかった。
ただそのたらたらと血の滴る首を抱え、額に額を押し当てて目を閉じた。
「アリーヤ。たぶん――俺たちは最初から出会うべきじゃなかった。うまくいかないことが、きっと最初から決まっていた。それでも、あの時の俺は。一度でも、一瞬でも――俺は」
君を愛していたのかも、しれないね。
結局それ以上は黙り込んだまま。最後の一言が紡がれることはなかった。
誰も、何も動かなかった。
赤が広がる。咲き散った赤が、どこまでも広がり――やがて酸化して黒ずんでいく。
王が首を置いて再び立ち上がると、世界は再び動き出す。
うるさくなりかける周囲に、彼はただ、こう言い捨てた。
「終わったぞ。何もかもな」
そうしてくるりと踵を返すと、取り巻こうとする者すべてに構わず、その場を出ていった。
一度も、振り返ることなく。




