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冠を抱く者  作者: 鳴田るな
3章:帝王とその妻
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断罪の時

 彼女は幸福だった。

 愛され、子を宿し、生む。

 皆に祝福され、まさに絶頂にあったといってよかった。


 アリーヤという女の思考は基本的に自分本位である。

 彼女は世界を自分に都合よく解釈した。

 ただただ純粋に、思うが儘。


 つきつめればすべての個体は主観の世界で生きている。

 真の客観はありえない。ただそこに、主観の妥協があるのみである。


 だからアリーヤのあり方は、ある意味ヒトそのものであった。

 ただし、彼女が真にヒトとして生きるのならば、妥協は必要だった。客観を持つべきだった。


 しかしアリーヤは物心ついてからこちら、ヒトとして生きることを求められなかった。

 むしろ父親は、あれらの愚物凡人と一緒になるなと幼い彼女に言い聞かせた。

 周囲は彼女を崇拝したが、それは一方で自らと切り離して心の平穏を保つことでもあった。


 切り離しきれなかった兄は死んだ。

 無理に近づこうとしたヒゲの騎士も同様。


 アリーヤは純真で無垢な女だった。

 だから何も気が付かずに、幸福なままであれた。

 ――はたしてそれは、真に幸福なことであったのだろうか。



 何不自由なく時は過ぎ、アリーヤは元気な赤子を生んだ。

 比較的安産だったが、本人は泣きわめく血まみれの塊に眉を顰め、こんな苦しくて怖い想いはもうしたくないものだとこっそり考えていた。


 生まれてきたのは母と同じ、黒髪に翡翠の瞳の男の子だった。

 ライアン、と名付けられたその子どもはすぐに継承者として扱われ、大事に大事に育てられた。


 ――ただ、ライアンはやがて赤子の時を過ぎてヒトの見分けがつくようになっても、いっかな父親になつこうとしなかった。


 ライアンは甘えん坊で、よくアリーヤの後をニコニコしながら追いかけた。

 けれど父親がやってくると、途端にありありと恐怖を浮かべて泣き出し、逃げ惑った。


 アリーヤはライアンが可愛い間は母親らしく構ってやったが、泣き出したり面倒になるとすぐに周りに押し付けた。

 もちろん、高貴な女性は子育てなんて俗事に煩わせることがあってはならないからである。

 母乳も直接与えたことはついぞなかった。

 抱いている間に赤子に泣きわめかれることも、汚されることも、アリーヤは好まなかった。

 汚いものに彼女は残酷だった。容赦なく、切り捨てた。



 臣下がそのことについて王に苦言を呈したことがある。

 王妃様は少々、母君としての自覚が足りないのではございませんか、と。

 彼はうっすらいつも通りの微笑みを浮かべて、答えた。


「不思議なことでもあるまい。むしろ母親になった途端、別人のように聖女じみたらどうしようかと思っていたよ。良かった、豹変せずにいてくれて。やはりあれはそういう女だ。自分が可愛い。可愛い自分を飾るためなら子どもくらい産む。育てるふりもする。着飾ってるのと何ら変わりないさ。あれには産んだ子供に考える頭も感じる心もあるという思慮がすっぽり抜け落ちているのだろうからな」


 臣下は目を見開く。

 とてもそれは、日ごろ妻と息子を労り愛している男の言葉と顔ではなかった。


 王はからかうように、その臣下に言葉を投げた。


「お前はおそらく恵まれた環境で育ったのだろうな。当たり前のように、お前の父と母はお前をいつくしんで育てたのか。なるほど。だが、世の中すべてがそういうわけではない。結局は巡り合わせだ。どれほど満たされた条件たろうと屑は屑に育つし、優れているものはそのままだ。その間の凡人だけが、環境に多少左右される。

――で。なんだ。育児についてだったか。ではお聞かせ願おうか。衣食住を保証し、教育だって受けさせてやってる、専属の世話係だっている。これ以上あれに何を与えよと? ――よもや父母の愛情なんて下らんことは言うまいな? 愛がなくても玉座には座れるぞ。いいお手本がここにいるだろう。――それとも、それがご不満かな」


 臣下は顔を青くする。王は笑ったまま、結んだ。


「その程度で黙るくらいなら、最初から何も言うな。詰まらん」


 王が妻子に冷たいことを言うのは、彼らがいないときに限ってだった。

 一緒にいれば、努めて優しい。多少放置気味の面は無きにしも非ずだが、彼らの願いを聞かないことはない。



 けれどその当事者以外には明らかな、異様なひずみは、ヒトビトの間に芽生えるかすかな違和感は、次第次第に大きくなっていく。



 ライアンが、しっかり物心つき、幼いながらに人の話を理解し自分もたどたどしく言葉を紡ぐようになったころ。

 ついにその噂は、もはや何にも揺らがされないはずの王妃の耳まで届いた。




 アリーヤは深紅のドレスの裾をつかみ、お付きも何も振り払ってほとんど走るように廊下を進んでいた。

 数名が驚いたように振り返ったが、構わない。


 目当ての人物の居場所を見つけると、珍しくはしたなくも謁見の間に踏み入った。


「陛下!」


 王は玉座にゆったり腰かけている。

 奇妙なことに、その時は王と仕事の話をしている臣下もいなければ、侍っている貴族たちもいない。


 ただ数名の近衛兵と重臣だけが、目を閉じてゆったり椅子に腰かける王に物問いたげな顔で、謁見の道の左右に控えていた。

 アリーヤは彼女のドレスとおそろいのように赤い赤いその絨毯の上を滑るように歩き、夫の前にやってくる。

 玉座は数段高い場所にある。階段の一番下で会釈すると、王はようやく目を開けた。


「――なんだ、王妃か。どうした、緊急事態か?」


 王の口調はどこか軽く、からかっているような節ですらある。

 アリーヤは真っ青な顔で言いつのった。


「陛下、恐ろしいことを言う者がおりますの」

「ほう?」

「ライアンのことについてですわ」

「あれがどうかしたか」


 王はどこか面倒そうな雰囲気まで醸し出し、アリーヤの絵画的な眉はきっと吊り上がった。


「陛下、前から思っていたのですけれど、ライアンに冷たいのではありませんか?」

「何不自由なくさせているし、十分面倒を見ているつもりだが」

「でも、私的な面ではほとんど交流がございません」

「その方がお互いのためだろう。あいつは余を嫌っているからな」

「そんなことはございませんわ」

「いや。残念ながらあれは聡いらしい。子どもながらちゃんとわかってるんだろうよ」


 王はそこで、初めて王妃を正面から見据えた。

 アリーヤはぞっと体の芯が凍えきるのを感じた。


 彼は笑っていた。だが、彼女にはわかった。

 幾多の思い出がよみがえる。


「余が実の父親でないことをな」


 最初に出会ったとき。

 ベリアルが死んだとき。

 残りの五英傑の四人を討伐したとき。

 幾多の命を刈り取ったとき。


 あまりにもよく覚えのあるその顔が。

 今は、まごうことなく自分にひたと向けられていた。


 アリーヤは紡がれた言葉に悲鳴を上げて、よろめく。

 周囲にも同様に気配が漂ったが、それらには構わない。

 彼女はただ、夫におびえた顔で訴えかける。


「陛下、なんて恐ろしいことをおっしゃるの!?」

「お前が余に文句を言いに来たのは、そのことについてだろう。ちょうどよかった。こちらもいつ切り出したものかと思っていたところだ」

「陛下――まさか、そのような世迷言を信じてらっしゃるの!?」


 ふん、と王が鼻を鳴らした。

 馬鹿にするように、口の端をつり上げる。


「世迷言も何も、事実だろうが」

「なんてことを――!」

「何なら父親の名前を当ててやろうか? なあ、近衛騎士隊長」


 瞬間、横で青い顔をして立っていた一人にその場の全員の――いや、王以外の視線が飛ぶ。

 真っ青な顔の――かつてただの近衛だったが、今は隊長にまで上り詰めていた若い男は、言葉もなく立ち尽くしている。

 答えずとも、全身が、がたがたと震えていた。


「国一番の女の抱き心地はどうだった。まあお前が言わんでもわかるがな。最高だったろう。この女のその部分に関しては、余も認めている。それこそ、この程度で何も言えなくなるような小心者に、余の留守を狙ってはこそこそ足蹴く通わせる程度には夢中にさせる中毒性があったろう。どうだ、ん? 王妃が寝ぼけようがしらばっくれようが、少なくともお前には十分すぎるほど心当たりがあるだろう?」


 王が追い打ちをかけると、はっと顔を上げて何か言おうとしたが、その眼が自分を冷たく射抜いたのを悟るとまたも何も言えなくなる。

 足が震えすぎて立っていられなくなったのか、がくりと膝をつく。


 アリーヤはそちらに興味をなくすと、夫の方にすり寄ろうとした。


「陛下、陛下お待ちを――何かの間違いですわ――」

「生まれるのが予定日より少し早かったのに健康体そのものだったというのもあるが、そこは誤差の範囲と言い切れないこともないからな。ただ、あれは余の息子ではない。それは確実だ」

「一体何を根拠に――ライアンは、陛下の御子です! 陛下とわたくしが愛し合って生まれた子です!」

「根拠ならあるぞ」


 王は言いながら傍らの女に目を向け――いつも王のそばにふらりと現れる身元不明の女で、アリーヤは不気味がったし嫌がったが、消えては戻って来るを繰り返していた――それは彼の意図を汲んでうっすら微笑みながら、そっと抱え込んでいたらしい瓶を差し出した。

 王がそれを片手で示してみると、脇に立っていた数名の血の気が消えた。


 アリーヤだけは、それが何なのか判別できずに困惑の表情である。王は苦笑した。


「知らんか、こんなもの。これはな、子種を殺す毒だ。まあもともとは、女が望まぬ男との交渉をさせられた後に服用して、いらんものを孕まんようにする、そういう薬だ。ただ多用すれば副作用として吐き気や頭痛を催すこともあるし、最悪二度と子を産めない体になる。男はまず飲まん。男の方は副作用は出にくいらしいが、進んで種無しになりたがる酔狂は普通いないからな。――まあここに一人はいたわけだが」


 皮肉っぽく笑う彼に、アリーヤの顔がみるみる青くなっていった。


「なぜ――なぜ、そのようなことを――!」

「わからんか、王妃」


 王は女に瓶を返して、それから彼女の方を向く。


「お前は余の妻であっても、その理由が瞬時に思い至らんか」


 アリーヤが黙り込んでいると、サタン王は静かに語りだした。


「一つには、余は子どもが嫌いだ。だからいらん」


 アリーヤは震えた。――彼女のお腹を撫でながら、楽しみだと微笑んだ男が、今にしてまやかしだったのだと理解する。こちらがまぎれもない本音だった。

 ――思えば、最初から一度も、夫本人の口から子どもがほしいと聞いたことはなかった。


「一つには、余は自分が好きではない。むしろ嫌いだ。こんなけだものは一匹で十分だ。一匹でも手に余っているだろうに、これ以上増やしてどうする」


 臣下たちが震えた。彼らは久しく、王が一瞬で数万人の命を刈り取ったことのある男で、それに関して何の抵抗も後悔も覚えない性格なのだということを忘れていた。

 それ以上に、彼が彼らに優しくふるまっていたために。


 王は続ける。話しながら、ゆっくりと玉座から立ち上がった。


「もう一つには、そうだな。そろそろお前と別れたかったので、適当に理由を作ろうと思った。お前が孕んだとき、だからこれでいいかと思った。一夫一妻だの反逆罪だの下らん、実につまらん制度だと思うが、それでお前と縁が切れるのならまあ多少役には立ったな。大体それを差し置いてもお前が王妃にふさわしくないとかいう証拠ならたぶんいくらでも出てくるさ。遡るなら、結婚時に処女でなかったことを理由にしてもいい」

「あれはわたくしのせいでは――!」

「ないな。だったらライアンのことはどうする? 近衛騎士が勝手に欲情して襲い掛かったか。だそうだぞ、ジュリアン。お前もだいぶろくでもない男だな。だが、それほどのろくでなしならば、この国王と王妃によくお似合いだ。そうは思わんか――さっきから震えてばかりではつまらんぞ。いや、すまん。お前がそういうつまらん男だということはよく知っていた。悪かったな。終わるまでせいぜいそこで這いつくばっていろ」


 王は男の名前を呼ぶ。騎士は今や地べたに手をつき、大粒の汗を浮かべてひゅうひゅうと喉の奥で不気味な音を鳴らし、ただただ震えている。

 彼は同じく何か言おうとして口を開けては閉じ、を繰り返す妻のもとへ、一段、また一段とゆっくり玉座の場から降りて近づいていく。


「お前も言葉も出ないか。実のところ、こうするタイミングをいつにしようか迷っていたのは、お前が多少なりとも変わる時が来るかもしれないという余の浅はかな期待に依っていたところもある。

最初に口づけをしたとき。何度か抱いた後。子を孕んだとき。腹が膨れていく間。子を産んだとき。そして、育てるとき――だが、まったくもってお前は変わらなかった。そもそも気が付きもしなかった。――余の口調の変化にも、お前を王妃と呼ぶようになったことにも。

ある意味感心したよ。そして、決心もした」


 彼は段の一番下までやってきて、王妃の目の前にしっかり立った。


「余は今までずっとお前を見て、考えていた。――もう十分だ。お前はお前を王妃であり続けさせる理由を、余に納得させることができなかった。王妃、お前は見た目だけしかとりえのない、どうしようもなく愚鈍な女だ」


 王は静かに言い放った。


「アリーヤ=アンドロマリウス。貴様の頭に冠は過ぎたるものだ。余はお前から、冠を剥奪する」


 アリーヤの翡翠の瞳が大きく大きく開く。


 冠が。

 彼女を作っていた冠が、頭から消えた。


「お前はどうしようもなく無価値なただの女だ」


 王はそう告げる。


 そこで、終わりにするはずだった。彼は王妃を廃し、アリーヤと別れて終わるつもりだった。



 けれど、アリーヤが――矜持と虚構に満ちた女が否定され、意味を失ったその時。


 押し殺されていた()()は目覚めた。

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