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冠を抱く者  作者: 鳴田るな
3章:帝王とその妻
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悪い夢

 アリーヤは深夜、訪れる足音を聞いてはっと目だけを見開く。

 心臓が一度大きく跳ね上がり、そのあとも断続的に胸の奥を叩いていた。


 はたして少しすると、静かに誰かが部屋に入ってくる。

 眠っているふりをするアリーヤのすぐ横に腰かけて、掛け布団の上から指一本だけアリーヤの輪郭をなぞる。


「――起きろ、アリーヤ」


 ぞくりと身体の奥が震えた。

 彼女はいつもとどこか違う夫の声に、そっと息を吐いて身を起こす。


「――わたくしに、命令するおつもり?」


 翡翠の瞳を、金が射抜く。


 次の瞬間、アリーヤは自分の身体が崩れたのを感じた。

 寝台の上に倒された、と気が付いた瞬間に、何かが覆いかぶさってくる。


 唇に、触れたものがあった。

 一度触れて離れたかと思うと、それは何度も何度も角度を変えて降りてくる。


 最初はついばむように。

 ――やがて、食らい尽くすように。


「――ふ」


 何か言おうとしたし、何かを考えようとしたけれど、すぐにとろとろ流れていった。

 頭のどこかで、ベリアルの方がうまかったのに――その時よりなぜ、自分は身体を熱くしているのかとぼんやり冷静に考えている部分がある。


 こじ開けられた口から、舌が侵入して歯列をなぞられる。

 ぶるっと体が震えた次の瞬間には、さらに深くまで入られて絡め取られる。


 ――こういうキスを、誰としたの?


 そう思った瞬間、彼女の中で何かが燃え上がる。

 されるがままだったそれは、情熱的に男を請うように動き出す。

 両腕でのしかかってくる男の背を、首を、頬を何度もなぞり、引き寄せようと力を込める。



 それが、夫婦が初めて交わした口づけだった。


 彼らは互いに、今までにないほど情熱的に相手を求め、愛し合った。



 月の美しい夜だった。




 ジゼルという平凡な村娘が死んだ、その翌日の、晴れた月の美しい夜のことだった。






 ……。


 ――そうか。


 ――死んだのか、ジゼル。


 ――そう、か。


 ……。


 ――いや、別に。

 ――俺の落ち度だ。怒ってもいないし、憎んでもいない。


 ――突き放すか囲って離さないか。うん、お前の言うとおりだった。聞き流してた俺が悪い。


 ……。


 ――悲しみ? さあ。人は俺より先に死ぬ。一般人ならなおさらだ。


 ……。


 ――わかった、白状するよ。泣き方も悲しみ方も知らないんだ。だからやりようがない。

 ――ジゼルが俺の代わりにそういったことをしてくれてた。なんとなくああすればいいんだってことはわかるんだけどな。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――アリーヤ?






 町娘ジゼルの変死体は数日後、人気のない倉庫の中から発見された。

 彼女の死はひとしきり世間を騒がせたが、いつの間にかあっという間に片が付けられてしまった。

 ――片づけられたことにされた、と言った方が正しかったかもしれない。



 どこか浮き足立っているような、それでもなんだか不自然に静かな城の中を、アガレプトは猛然と突き進む。

 何度も扉を乱暴に開けては、舌打ちして立ち去ることを繰り返した。


 半日ほどやっていて、ようやく人気のない中庭の一つにそれを発見する。

 咄嗟に身体が動いた。寝そべっているそれに馬乗りになり、思いっきり首を締め上げる。

 微睡から起きても顔色を変えずに何をする、と目だけで抗議する女に、アガレプトは声を絞り出す。


「――なぜ」


 絞めるその両手は白い。

 人食い鬼はしばらくされるがままになっていたが、激情のまま相手が固まっているのを見て取るとふっと目を細めた。


「……苦しいネ。何するんだイ」

「少しでもお前を信じた、私が馬鹿だった! お前なら、彼女を守ってくれると思って――」

「それで見張りをさせたと?」


 ゆらり、と鬼の顔がゆがむ。

 くっとその形のいい唇が不気味に上がった。


「ああ、ぜーんぶ見てたヨ。マワされてぐっしゃぐしゃにされて一本一本骨折られて、挙句顔の皮はがされたところまで、ぜーんぶ。だって、見ててくれ、しかあたしは言われなかったからネエ」

「貴様――」

「どけろ。邪魔なんだよ、カスが!」


 突如鬼が語気を荒げたかと思うと、アガレプトと場所と立場が一転していた。

 人口の芝生の上に投げ出されたアガレプトは、直後胸元を力任せに踏みつけられて顔色を変える。

 呼吸が一瞬止まった。

 鬼は容赦なく、胸の真ん中を踏み抜いたその足をぐりぐりと押し付ける。


「殺されたくなかったら、ちったあ賢くふるまうんだネェ、宰相さァン。エ? だーれがサァ、拾ってきてやったと思ってんのヨ。別にいいんだヨ。あんたここで殺して、代わり連れてくること、簡単なことサ」

「ぐっ――」

「そーだヨ、あんた今自分で言った通りサァ。あたしなんかに任せたあんたが悪いのサ!」


 そう吐き捨てるように言うと、鬼は思いっきりアガレプトの顎を蹴り上げる。

 悶絶する宰相を背に、一度はそのままふらりと出ていこうとしたが、彼がもがいて自分に手を伸ばしているのを見ると気が変わったのか近くにしゃがみ込んで無表情にその苦悶する顔を見つめる。


「――か」

「……」

「本当に――お前を一瞬でも信じた私が、悪かったのか。たとえお前が――我々と根本的に異なる種なのだとしても――我々に、共感があると思った私が――それは――無意味なこと、だったのか。お前は――たとえわれらのことは餌程度としてしか見ていなかったのだとしても――陛下にだけは、違うと思っていた。私のその考えは、誤っていたのか――」


 区切れ区切れに紡がれる言葉を、鬼はただ無言でしばらく聞いていた。

 アガレプトは言い終えると、荒い呼吸のまま大の字に寝かされたまま、偽物の星空が模されているただただ美しい天井を見つめる。


「坊ちゃんサ。泣かなかったんだよネ」


 長い沈黙を唐突に鬼は破った。

 アガレプトが目を見開くと、独り言のつもりなのか、ぽつぽつとそれは続ける。


「あのヒト、こんなになっても、怒れないんだ。悲しみも、泣こうともしない。知らないんだってサ、やり方を。だからできないんだって」

「……」

「宰相さん、あたしの秘密を一つ教えてあげようかい」


 不意に鬼は、すっと身体を伸ばして横たわるアガレプトに顔を近づける。


「あたしね、涙が出ない生き物らしいのサ。だから、涙が出るヒトの気持ちなんてわからないのサ。――さあ、もう懲りたろう。もう二度とあたしなんて信用しないんだね」

「――涙をっ」


 立ち上がって去っていく鬼を、アガレプトの声だけが追う。


「涙を流せないことを知っているということは――流そうとしたことが、一度でもあったのか」


 鬼は立ち止まったが――結局何も言わず、振り返りもせずにふらふらと彷徨い去っていく。

 アガレプトは一人、再び夜空を――曇って歪んだ偽物の夜空を、唸るように声を上げて眺めた。






 ――アリーヤ?


 ――は。


 ――はは、は。


 ――あははははははは! あは! あははは!


 ――ああでも、そうだな。今回の件で、一つだけわかったことがある。


 ――愛してなくても、愛されてなくても――()()()()ことはできる。

 ――それは普通に気持ちいいことだ。俺にとっても、相手にとっても。



 ――もう迷わない。これでようやくわかった。


 ――俺はヒトでなしだ。最初からそうだった。

 ――だけどヒトだって――ヒトだって、そう大層なものじゃなかった。優しくなんてしなくてよかったんだ。


 ――もっと早くに、気が付いておけばよかった。



 ――うん?

 ――なんだ。慰めてるつもりなのか?


 ――ふ。ジゼルも、よくそうしてくれた。俺がすることもあった。


 ――お前の手は冷たいな。


 ――なあ。前から思っていたことがあるんだが。

 ――その眼。その不思議な目には、どんな世界が映ってるんだ?


 ……。


 ――はは。そうか。

 ――人食い鬼のお前にも、この世界は悪夢みたいに見えるか。


 ――夢なら覚めるが、残念だな。

 ――寝ても覚めても、続く悪夢か……。


 ――は?


 ……。


 ――お前は本当に変な奴だな。確かに俺もちょっとゴタゴタして忘れていた面はあるが――ねだるならもう少しましな名前がいいんじゃないのか?


 ……。


 ――まあ、言われてみれば俺の名前も大概か。はは、ヒトでなし同士、ろくでもない揃いってところか。


 ――わかった。ならば、望みの通りにそう名前を付けよう。


 ――悪夢。


 ――お前は、悪夢だ。






 人食い鬼は、当てもなく彷徨う。ふと、窓辺から煌々と照らす月を見上げる。


「――だって、ヒトになっちまったら、あたしのことなんかどうでもよくなるだろう?」


 明るい光に手をかざしかけて、途中で手を止める。窓枠に手をかけて、鬼は呟く。


「一人と、一人。けして二人にはなれない。ヒトでなしのあたしじゃ、あんたを救えない。それでも、もうただの一人には戻れない――戻れないんだヨ」


 彼の目は、全部わかっている目だった。

 それでも、彼は自分を殺さなかった。自分は生かされた。


 もう一度思い直して、月に手を伸ばす。何度も掴もうとするように動かす。


 叶うなら、同じ夢を見たかった。


 やがて手は力を失って、だらりと垂れさがる。


 ――それすら叶わないのなら、せめて。

 別々の悪夢を、一緒に見ていたい。




 ほとんどの臣下も民衆も無責任だった。

 彼らはあっという間に一人の花売り娘のことを忘れ、次は急速に仲睦まじくなった空の上の夫婦について語り合った。


 まるで今までのことを上書きしようとでもするかのように、サタンとアリーヤは昼は公式行事に二人で出席し、夜は寝室で愛し合った。


 しかしその水面下では、すでに前兆が現れていた。


 王は王妃以外の女に手を出すようになった。

 王に手を付けられた女は、必ず最後は無残な目にあった。

 王妃は王に愛されることをことのほか喜んだが、彼が時折いなくなると相変わらず昔の男を引き込んだ。

 それを知ると王は今までのように放置せずふらりと帰ってきて、王妃をたっぷり朝まで抱いた。




 第三者には、気が付いてしまった聡い者もいた。

 たとえばアガレプトは何度か夫婦に忠告し、犠牲者を減らそうとし、みるみるうちにやつれていった。

 たとえば悪夢と名付けられた鬼は、サタンを見るたびに憂いに満ちた顔に、アリーヤを見るたびに口の端を上げて見せた。


 けれど当事者のアリーヤだけは――最後まで、夫の変わらぬ笑顔の奥に宿る真意に気が付かないままだった。



 ――狂った歯車の奏でるまま時はめぐり、ついに運命の日がやってくる。



 穏やかな、いつも通りの朝。

 アリーヤの懐妊が、国中に告げられた。

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