アリーヤ
王子様は、姫の事を完全に玩具扱いした。
気が向いた時だけ手荒に扱って、しまいもせずに投げ捨てた。
――どこかでは、わかっていた。彼は王子なんかじゃなかった。王子の皮を被った、悪魔だった。
結局のところ、ベリアルがアリーヤにした仕打ちはヒゲの騎士が行ったこととほとんど大差なかった。
むしろヒゲの男が狂気の合間に彼女を労わり許しを請うたのに、ベリアルは隙あれば立ち直ろうとする彼女を徹底的に苛んだ。
彼はサタンにアリーヤとの関係を強いたが、自らも度々彼女のもとを訪れた。
もう優しくなんてしなかった。低くかすれたその声で、歌うように彼は彼女をなじった。繰り返し、繰り返し。どちらでも良かったのだから。彼女が壊れようと、そうでないと。
今度の彼女は自分が彼を愛していると信じて、それらに耐えた。
美しい身体をズタボロにされた後で満足げに撫でられたなら、どんな傷だって我慢した。
傷ついてむせび泣くその姿を愛でられたのなら、無様に顔をゆがめ、喘ぎ声を上げて見せた。
王子様。愛している。その言葉を糧に、彼女は男の暴力に耐えた。
形だけの愛の囁きに、満足しているふりをした。
ズタボロになった彼女にそっと寄り添い、傷口を舐めてくれる獣の事は、いつだって考えないようにしていた。
最初に肌を重ねたその日から彼が何も言わなくなったのをいいことに、彼女はなるべく彼をいないものとしてふるまった。
――あれほど情熱的に燃え上がり、永久に果てぬと確信した彼への想いは日に日に薄れ。
――必要ないと振り払う彼のことは、ぽつりぽつりと捨てても捨てても心の中に溜まっていく。
少年はアリーヤが泣くと、一緒に悲しそうな顔をした。ぎゅっと眉根を寄せて、唇を噛みしめて。
少年はアリーヤの痛がることをしたがらなかった。彼女が我慢しているサインを見せると、いつだって中断してなだめるように汗ばんだ前髪をかきあげてくれた。
少年はアリーヤの肌が傷つくと、いたわるようにその上から唇を落とした。何か言いたそうに口を開けて、結局黙って撫でるだけに終わった。
――終わるといつも、彼はそっと彼女が固く握りしめた拳の上に一瞬だけ自分の手を重ねて、そして出て行った。自分と一緒に寝たら安らげないだろうと、そうつぶやいて。
本当は最初っからわかっていたはず。あの最初の夜に彼と言葉を交わした時に、確かにわかっていたはずだった。
運命の相手が、誰なのかを。誰が本当に、自分を大事にしてくれる男だったのかを。
だが、それに気が付いてしまったら、今度こそ自分は終わりだと彼女は勘付いていた。
アリーヤと言う女がいなくなってしまうと、思った。
――いっそそうしていたのなら、もっと違う結果もありえたかもしれないのに。
アリーヤと言う名前を授けられ、その名に従って生きる彼女だったから、絶対に認めることはできなかった。
精一杯尽くすふりをし続けた王子様を信じ切れず、態度では拒絶し続けた獣を目で追う無様な一人の女の事を。
それがまぎれもない、本当の自分であったと言う事実を。
……異変を感じて、彼女は目を覚ました。
ベッドの上から降りてガウンを羽織り、誰か呼ぼうか、それとも自分で軽く部屋の外の様子を窺ってこようかと考えたときに、部屋にいつの間にか入ってきていた男の事を認識した。
その頃の彼女の頭はいつも靄がかかったみたいになっていた。少しでも、彼女が夢を見ていられるように。痛みを和らげるために。
それが、久方ぶりにとてもクリアになっているのを感じた。暗い室内だが、どこかから入ってくる灯りにちょうど照らされて男の事はよく見えた。
彼女は灯りも付けずに立ち尽くす、見知った少年をまじまじと見やる。
――少年がもうすっかり青年になっていたのを、この時ようやく理解した。
あどけなく小さかった身体はすっかり大きく、前に立たれるとアリーヤは彼を見上げざるを得なかった。
丸い輪郭の残っていた顔立ちはすっかりと大人の男のそれになり、体つきも随分とたくましくなっている。
相変わらず背中から生えている翼は不気味だし、頭の角の形だって明らかにおかしい。
それでもそこに立っている男が、ある種立派だと言うことを彼女はどこかで認めざるを得なかった。
「……アリーヤ」
声もすっかりもう低い。凛と、響き渡るようなしっかりした調子のものだった。
「久しぶりだね、こうやって話すの」
彼女はぼんやり思い出す。
前にもこんなことがあった。そう、あの時も彼は濃厚に死の匂いを漂わせてこちらを見つめた。
呆れたように、そしてどこか悲しげに。
主の腕の中にしっかり包まれていた、自分の妻だと言われたばっかりの彼女を見つめていた。
青年の金の瞳がどこかのわずかな光を受けてうっすらと輝く。
彼は小さく、ゆっくり話す。
「さっき、ベリアルを殺したよ。これで君はもう自由だ」
言われる前から、わかっていたことだった。
アリーヤはぶるりと身を震わせる。――彼女は驚くほどベリアルの死については衝撃を覚えなかった。むしろその後の言葉に、彼女は震えて怯えた顔になった。
「――自由?」
あれほど昔は求めていたその言葉に彼女は恐怖する。
青年はふっと目を細めた。
「そう。もう、ここに居なくたっていいんだ。好きなところに行って、好きなヒトと、好きなように生きればいい。――俺は、行かないと」
「どこへ? わたくしを置いて行くつもりなの?」
「アリーヤ、もういいんだよ。獣は主を噛み殺した。君がもう、我慢して俺に付き合う必要はどこにもないんだ」
「――あなたってヒトは、本気でそんなこと仰ってるの!?」
ついにアリーヤは悲痛な叫びを上げた。青年はすっかり困った顔になっている。
――初夜の日の彼を思い出させるような、そんな顔だった。
「いつもこうだわ。わたくしが何をしたって言うの? 何も悪いこと、していないのに。なぜ、こうなってしまうの?
ひどいわ、ひどいわ。彼が死んだ、それじゃわたくしはどうするの、どうなるの。
自由にしろですって? 行くあてなんてないわ。頼るヒトなんていないわ。
――それなのにあなたは、わたくしをどうでもいいと言うのね? 捨てていくと言うのね?」
青年はじっと聞いてから、なだめるように答える。
「アリーヤ、まさか一緒にいたいって言うわけじゃないだろう?
君も知っての通り、俺は獣だ、人殺しだ。これからもヒトを殺すよ。少なくともあと四人はね。
……君はヒトのお姫様なんだ。どこかに行って事情を話せば、いくらだって、助けてくれる王子様がいるはずだろう――」
「誰が、誰が助けてくれるって言うの? あなたは何もわかっていないわ。わたくしは高貴な女よ。でも、今はもう、誰もそう認めてくれないわ。
――だってわたくし、獣と番った身ですもの!」
アリーヤは感情のままに叫ぶと、わっと顔を両手で覆う。青年は瞳を揺らし、そっと伏せた。
「……でも、君は俺が嫌いなんだろう? 一緒になんて、いたくないんだろう?」
「わたくしがどう思うかは関係ないの。あなたはわたくしから奪った。だったら奪った分、捧げるのが道理ではなくて? たとえわたくしからどう思われようと――あなたはわたくしに、尽くして返さなければいけないのではなくて?」
青年は沈黙して考えている。アリーヤはぎゅっと唇を噛みしめ――虚空をぼんやり眺めるサタンの袖を引いた。
血濡れの赤い袖をぎゅっと握りしめて彼の注意を引き、自らしっかりと目を合わせた。
「あなたはわたくしを不幸にしたわ。でも、わたくしはそれを許します。
――だから、その分わたくしを幸せにして。あなたにはその義務があるはずよ――たとえ卑しく薄汚い獣なのだろうと、契約上はわたくしの夫なのだから!」
青年はじっと、翡翠の瞳を覗き込む。
彼は改めて、俺の妻は美人だな、そんなどうでもいいことをこの場で思った。
最初に出会った時も美しいと感じたが、きちんと向かい合った彼女は本当に、何にも代えがたかった。
なんということはないシンプルなドレスに包まれた、豊満だが均整のとれた身体。艶やかに広がる少しだけ乱れている漆黒の髪。上気して薄桃に染まる肌。
「跪いて誓って――サタン!」
――夫婦も、愛も、幸せも、ヒトの理もわからない。アリーヤの言っていることが本当なのかも、わからない。
彼はただ、彼女が可愛そうだと思った。もともと彼とは無縁の世界の住人だったろうに、こんな風に貶められ、身も心もすっかり傷ついて、それでも大嫌いな自分にしか縋れないのだろう彼女が、可愛そうで仕方なかった。
――その事である種悲壮なまでに研ぎ澄まされた美貌に魅せられていた。
「わかったよ、アリーヤ。一緒にいよう」
彼はそう言って、彼女の言うとおりに跪く。
そのドレスに口づけて、まるで騎士のように。
「俺は獣だけど、アリーヤ。君の事を、何からも誰からも守ると誓うよ。君から離れないと誓うよ。俺が君の全部を奪ったのなら、君に全部あげると約束するよ。
――それくらいしか、俺は君にできないだろうから」
――そこにあったのは、ただの孤独な奴隷と惨めな女ではなかった。
冠を抱く帝王とその妻とは、こうして再び廻り合い、繋がった。
彼は彼女に深く深く頭を垂れた。
アリーヤは微笑む。――本当に久々に、心からの笑みを浮かべて彼女は夫をかき抱いた。
結局のところ、彼女はただ彼と離れたくなかったのである。彼が自分から離れていくことを恐れた。
ただ、それを素直に口に出していたのなら。
あなたを愛している、離れたくないのだとちゃんと言葉にして伝えていたのなら。
もしくは、彼女のプライドがもう少し低かったのなら。
ヒトでも獣でも構わないと、そんなことは気にしないと言えていたのなら。
――けれどそれができなかったのが、アリーヤと言う女だったのである。
こうして彼女は彼に楔を打ち込むことには成功したが、その方法を誤った。
自ら、彼との間に取り返しのつかない溝を生んでしまったのである。




