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冠を抱く者  作者: 鳴田るな
2章:奴隷と情婦とその主人
11/25

覆水

胸糞展開注意。

「サタン。お前、夫の義務を果たさなかったな」


 出て行って主人の顔を見上げた瞬間の開口一番がこれである。

 さっそく対外用の笑みが若干歪んだのを感じつつ、少年はすぐに立ち直った。

 口の端を吊り上げている少年に、ベリアル公はその形の良い眉を吊り上げた。


「抱かなかったろう、昨日の夜。よりによって床で寝るとは。なんのためにあんな立派なベッドにしてやったと思っている」


 知るか。というか、わかるわけないだろうという言葉はいつも通りおくびにも出さない。

 やっぱり同衾じゃなきゃだめだったか、と若干うんざりしつつ少年は首をすくめる。

 主は音もなく近寄ってくると、ぽんと彼の頭に手を置いてご婦人や時には男までも魅了する笑みを浮かべる。


「主からの命令だ。今日こそ、ちゃんとやれ。彼女を抱け」


 ホントやな奴なのに、なんであんなにヒトは群がるんだろうか。身をひるがえし歩み去っていこうとするのにつき従い、歩く彼の背中をぼんやり眺めながら、サタンは深くため息をついた。


 ふと、妻の顔が浮かぶ。


「変な方ね。あの方は、素晴らしい方なのに。どうして好きにならずにいられるのかしら」


 ふっと口が苦笑の形に緩む。そう言った時の彼女はやっぱり美しくて――いや、どちらかと言うと子供のように無邪気で、愛らしかった。


 馬鹿だなあ、アリーヤは。


 サタンは心の中でつぶやく。


 馬鹿だなあ、俺はもっと。


 直後にそう付け加えて、彼はすっかり次に彼女と過ごす時を期待している自分を自嘲した。



 昼間、アリーヤは夫と顔を合わせることはなかった。

 彼は奴隷の時同様主人に連れ歩かれているようだった。今後もそんな状態が続くらしい。ただ、夜はちゃんと帰すよとベリアルは嘯いた。


 彼女はどこかほっとした。少年の事は――そう、嫌いだったから。出来るだけ顔を合わせない方がいいと思った。


 世話係の侍女に囲まれ、ぼんやりと何をすることもなくベリアル邸の贅沢な噴水の前に立ち尽くす。

 日の光がまぶしい。噴水に金の光が反射する。


 急に心苦しくなって、室内に帰った。

 明るすぎるところは駄目だと思った。彼女の故郷は、どちらかと言うと曇りがちの控えめな空が続くところだったから。


 ――室内に戻っても、派手な装飾の所々に輝きがあしらわれている。

 それらから逃げるように、まるで金の色を避けるかのように彼女は彷徨い歩いた。



 夜になって侍女たちに促され、昨日と同じように寝室で待っていると夫はやってくる。

 ところが今日は、どこか諦めたような表情で当然のように彼女の隣へとベッドを這いあがってきた。


「嫌ですっ!」


 アリーヤは叫んで逃げる。しかし少年に腕を引っ掴まれて引き寄せられると、思う以上の怪力になすがままだった。手を引かれて体の芯が凍えきる。


「仕方ないじゃないか。俺だってそりゃ、こんな嫌がられてまでやることじゃないと思うけどさ」


「触らないで!」


 彼女は暴れた。やっぱり獣は獣、一瞬でも心が揺らぎそうになった自分は本当に愚かだ。

 けれど結局は従わずにいられないのだろう。


 ベリアルは言った。夫の言うことを聞け、と。

 試練は始まったばかり。覚悟はしていたはず。


 少年は懸命に離れようとする妻の目じりに浮かぶ涙に一瞬うっと詰まって怯んだような顔になったが、深く深くため息をついてぱたりと身体を倒す。

 引っ張られてアリーヤは一緒に倒れこんだ。


「言いつけ守らないと後でうるさいんだよ、あいつ。形だけは騎士でも俺は見ての通り奴の奴隷おもちゃだ。命令には逆らえない。我慢してってば」


 彼はそう言って彼女をさらに引く。

 気が付いたとき、アリーヤは少年の腕の中にいた。


「あっ……」


「――あったかいね、アリーヤは」


 少年の声が上から降ってくる。

 最初はとにかくパニックと恐怖まみれだったが、しばらくそうされているとそれ以上の事はないのだと落ち着きはじめる。

 けれど動機は激しくなる一方、今度は顔がどんどん熱くなっていくのを感じた。


「……あの」


「何?」


「このまま一晩過ごすつもりですの……?」


 昨夜同様、沈黙に耐え切れず彼女はおずおずとそう尋ねる。

 少年は寝たまま肩をすくめた。


「だってあいつ、抱いて一緒に寝ろって言うから。」


「……抱くって、そういう抱くじゃないと思うのですけれど――」


「え、なに?」


「何でもありませんっ!」


「はいはい、わかったよ」


 少年はそれきり、アリーヤがどうしようかと迷っているうちにまた静かに寝息をたてはじめた。

 彼が本気で言ってたのか、それともわかっていながらベリアルの言葉を意図的に曲げているのかは謎である。

 ともかく、今夜もこのままなのだと悟ると彼女の中に安堵と、妙なしこりが残る。

 それに名前をつけることは酷く困難だった。拍子抜けに近いが、そう形容するとまるで自分が何かを期待していたようで彼女はすぐに考えをやめた。


 落ち着かない居心地にアリーヤの方はすぐ眠る気には慣れず、彼を刺激しないように目だけでそっと顔を窺った。


 まだひげの生えていない、けれど男になろうとしている若々しい顔。

 この方はどこもかしこも、まつ毛まで金色なのね。そんな当たり前でくだらない感想を抱いた自分に戸惑う。


 その時さっと何かが閃いた。まるで、警告のように彼女は気が付く。


 ――私、おかしいことばかりだわ。まるで自分が自分でなくなっていくみたい。いけないことだわ。


 アリーヤはぎゅっと目を閉じて、言い聞かせる。

 駄目よ駄目。こんなことで心乱れて、私はお姫様、王子様を待つ身なんだから。


 ――この方とは、絶対、ダメなのよ。


 必死にその日の眠りが訪れるまで、繰り返し彼女は自分に言い聞かせた。



 その日から、少年はずっとアリーヤを抱きしめて眠るようになった。

 最初の方こそほとんど眠れず緊張して過ごしたアリーヤだったが、ヒトは慣れる生き物だ。


 彼の温もりに包まれることを、いつしか拒まなくなっていた。



 凍えきった体の芯が、輝く光に触れて溶けることもあったのかもしれない。

 けれど彼女は拒まずとも許しはしなかったし、それ以上に――彼がそれを許すはずがなかった。



 ある夜、いつも通り少年をアリーヤは待っていた。

 彼は毎晩ぱたぱたと駆け込んできて彼女を確認すると、いそいそと寝台に上ってきてそっと抱きしめ、そのまま倒れこむ。

 彼女が何も応じなくても、たまにおずおずと彼を見上げるだけで、少年はくすぐったそうに微笑み、お休みと声変わりの始まった声で優しくつぶやいた。



 けれどその夜、扉を開けた彼は様子が違っていた。

 どこかもったいをつけた足音。隣にやってきて手を握られた瞬間、アリーヤの心臓は、身体は大きく跳ねた。


「やあ、アリーヤ」


 聞こえたのは予想していたものよりもずっと低く、そしてどこかかすれた声。撫で上げるようにアリーヤの手から太ももを這うその手は、硬くて大きい大人のもの。

 思わず振り返ると、琥珀の瞳が妖しく輝いていた。


「どうしてここに――」


 言葉は唇で塞がれる。あっという間に彼女は強い両腕に絡み取られていた。


「――口を開けろ」


 驚きで固まっていた彼女だが、ベリアルが命じるとおとなしくされるがままになる。

 舌で舌を絡みつつ、男の手は慣れきった手つきで彼女の薄い夜着をめくりあげ、瞬く間に取り去った。


 ――そして当然のように、ベリアルはアリーヤを抱いた。

 以前に彼女が騎士に囚われていた時と全く同様に。


 アリーヤはこうなるとなすがままだった。始まってしまえばそれは王子様との夢の一時である。

 彼女はこの点に関しても実に優秀だった。日ごろ何人も漁っているベリアル公を、その夜も大いに満足させた。

 彼の求めに応じて甘い声を上げ、淫らに宙を舞った。



 意識が戻ると、既に事を終えた男は着替えを済ませつつある。


 アリーヤはけだるい身体を起こすと騎士の館の時の癖で、次はいつ来て下さるの、と声をかけそうになった。

 けれど言葉は凍りつく。ようやくその時になって、彼女は視界の端にそれを認めた。



 部屋の片隅に。それでも、きちんと寝台の上が見られるような場所に。


 表情を失くした少年が突っ立っていた。



 真っ青になるアリーヤを置いて、ベリアルは立ち上がると彼の方に歩いていく。


「――そら、お前のためにお手本までご教授して差し上げたんだ。もう、やれるな」


 少年は長身の主を見上げる。彼は一瞬だけアリーヤを見てから出て行こうとするが、瞬間肩に主の手が置かれた。


「どこへ行く。まだ夜は残っているぞ?」


 つまりそれは、今すぐやれと言う命令だった。


 衝撃で動けないアリーヤがただただ呆然と見守る中、少年はそっと主に自分の手を重ね、引きはがす。

 距離を開けてから向き直り――彼は薄く口の端を吊り上げた。

 まるで笑っていないのに、笑っているような顔をした。


 ベリアルは出ていくのかと思いきや、入口近くの壁にもたれかかって彼らを見据えた。

 少年を見つめるまなざしは、普段の余裕たっぷりなものとはどこか異なり、ぎらぎらと凶暴な光を宿している。


 サタンはいつかも見た、すっかり諦めた表情になって寝台にやってきた。

 ようやく彼が何をするつもりなのか悟ったアリーヤが悲鳴を上げても――やめなかった。やめられなかった。

 彼は隷属の印を刻み込まれた奴隷。主が印に命じたことは絶対。



 アリーヤは少年を憎もうとしたが――彼が自分にだけ聞こえるように呟く声を聴いた瞬間、わけがわからなくなった。


「ごめんな、アリーヤ」


 少年は一言だけ最初に言って、それで目を見開いて固まったアリーヤにとびっきり優しくした。

 ベリアルのように彼はうまくなかった。その手はずっと震えていた。


 アリーヤはなすがままだった。ベリアルの時とは違って、かたく唇を噛みしめ、何も答えようとはしなかった。

 ただ、彼が目を伏せながら入ってきた瞬間、自分の目から涙が零れ落ちて行ったのを感じた。


 騎士の時のように泣きわめくことはなかった。

 彼女はただただ、黙ってとめどなく涙を流していた。


 それは自分のための涙だと思ったが、彼女が呻くたびにぎゅっと眉根を寄せる少年を見ていると、もう何もかもがわからなくなった。



 そうやって、彼らは初めてつながった。

 そうやって、彼らに芽生えそうになっていたつながりは断ち切れた。


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