初夜
アリーヤはちゃんとその意味を心得ていたが、少年の方は二人で部屋に閉じ込められた瞬間から何をしろと、とずっと困った顔でいる。
彼はちらりと、今日妻だと紹介された女性を窺い見る。
昼と打って変わって、妻はその艶やかな濡れるような漆黒の黒髪をただ垂らし、白地の薄い夜着に身をまとっていた。
化粧を落とした方がより一層美しいってのはどういうことなんだろう。
少年はしげしげと興味深げに考えながら観察していた。
宝石のような翡翠の瞳。唇は紅を引いてないからか、赤でなく薄桃。
ちなみに彼の方の服は、奴隷時代とそう変わらない簡素なシャツと腰布だった。
彼らは紗幕つきの豪奢な寝台に腰掛けている。紗幕の色は薄紫。掛布団の色もこれに合わせられている。
――いや、腰掛けていたが、サタンの方はすぐにうろうろと所在なさ気に寝台を離れて行ったり来たりし始めた。
アリーヤは猛獣にわが身を差し出さなければならない悲劇と恐怖に、ただただ震えていた。
「……まさかとは思うけど」
やがて、少年はアリーヤとベッドを見比べて口を開く。
「……一緒に寝ろってことじゃ、ないよね?」
反応はない。アリーヤは唇を噛みしめ、こちらを見ようともしなかった。
彼はため息をつく。
「あのさ――アル?」
「わたくしはアリーヤです。変な呼び名をつけないで」
ほんのわずかな彼の期待と悪戯心に、すぐさまつんと澄ました冷え冷えする、けれど楽の音のように鮮やかで柔らかな声が返ってくる。
邪険にされることより、ひとまず相手が応じることにほっとした顔になった少年は柔らかな表情になる。
「それじゃあ、アリーヤ――」
「気安い言葉をかけないでくださいませ」
「……えーと。あなたって呼びかければいいのか? 妻ってマスターとは違うんだろ?」
「勘違いなさらぬよう。わたくしは形だけは貴方の妻ですけれど、あなたのものにはけしてなりません」
「あー、うん。とりあえず、機嫌直してくれないか? 俺、別に君と喧嘩したいわけじゃないんだけど」
少年はつれない相手の言葉に特に傷つく様子もなく、頬をかきながら苦笑いすると、三人は寝ても問題ないだろうと思われるくらい広いベッドの上を這って行って、自分の分の枕をひょいと抱え上げる。
アリーヤが振り返ってからぎょっとした顔になった。
「――何をなさっているの?」
「だって、寝ろってさっき言われたじゃないか」
少年は早くも床で枕を抱えて丸くなりつつ、当然のことのように答える。
今度はアリーヤが困惑する方だった。
彼女はどう見ても床で寝る気満々で今にもそのまま夢の世界へ旅立ってしまいそうな彼を辛抱強く待とうとし――やがて沈黙に負けておずおずと尋ねた。
「――このまま眠ってしまっては、初夜はどうするのです?」
「初夜? ――ああ、うん。初めての夜だ。それが何か?」
「ですから――その」
わたくしにそんな事を言わせるつもり!? と顔を真っ赤にしかけて、はたとアリーヤは思いつく。
彼は異形とはいえ、奴隷とは言え、あどけなさの残る少年である。
――ひょっとして、まだ経験がないどころか知識も。
いや、そんなはずは。
獣がおのれの本能を知らないはずがない。
「ねえ、アリーヤ」
彼女が呆然としていると、少年が話しかけてくる。
思わずわかりやすく肩が跳ね上がった。
「君は俺の事が嫌いなんだな」
くるりと少年が寝っころがって、金色の瞳を向けてくる。――吸い込まれそうなほどに輝かしい、金色の瞳。
答えずにいると、彼はまた笑った。
「でもたぶん、マスターの気まぐれだから。そのうち飽きたらこの茶番だって終わるさ」
「――あの方のことを悪く言わないで」
アリーヤがか細く答えると、ぴんと少年は眉を跳ね上げる。
「やっぱり好きなんだ? やめておいた方がいいと思うよ。あいつ、そりゃ確かに血筋だとか財だとか見た目は持ってるのかもしれないけど、補って余りうる性格の悪さだぜ?」
「……そんな事を言うなんて、意地悪な方ね」
「別に本当の事言ってるだけな気がするんだけど……まあいいや。
ねえアリーヤ。俺はまだ、夫婦って何かよくわからないし、君が望んでそうなったわけじゃないことも知ってるよ。
君は由緒正しい血の持ち主なんだろうし、俺はその辺の炉辺の石だ。きっと釣り合わない。
でも俺は、君の事結構好きだと思う。だから、できるんなら仲良くしたい。それはできないことか?」
少年の笑顔はまぶしく、何故だか心を刺した。
――けれどそれは獣なのだと感じると、彼女は毅然と拒むことができた。
「わたくしは、嫌よ。あなたなんて嫌い。あなたは――獣だもの。あの方がそうしろと言ったからあなたの妻になるの。でもいつか、あの方はわたくしに跪くのよ――」
「……ふうん」
やはり彼は辛辣な言葉を浴びせられても特に気にする風はない。
「とりあえず、もう寝ようよ。灯りは好きにしていいから。用があるなら声かけて。何かあったらすぐ起きられるからさ」
「……本当にそこで寝るつもりなんですの?」
少年は目を閉じようとしたが、妻の言葉にクスリと笑った。
「何? もしかして、君も床で寝たいの?」
「嫌ですっ!」
「だと思った。……じゃあ、お休み」
アリーヤがどうすればいいのか迷っている間に、すやすやと規則正しい寝息が聞こえてきた。
そっと窺って見ると、早くも泥のように獣は眠りこけている。
――いかにも、獣らしいこと。
そう思いながら、彼女はそっと寝台に身を横たえる。
――でも、てっきり節操なく襲い掛かってくるものだと思っていたのに。
あの男のように。
いいえ、アリーヤ。油断しちゃだめよ。
これはまだ、子どもなのだわ。大人になったら、あれと同じになるわ。
彼女の脳裏に何度も責め苛まれた記憶が蘇る。
身体にもう痕は残っていない。
けれど、他の誰が忘れたって彼女はずっと覚えている。
たとえ男の死をこの目で見ても、けして褪せることはない。
アリーヤは自分に言い聞かせる。
今はたまたま幸運なだけ……。
彼女はひとまず少年に乱暴をされなかったことにほっとしながら、むりやり目を閉じて眠ろうとする。
柔らかなベッドに身体がずぶずぶと沈み込んでいく感触に、思い出したくもない記憶がどうしても訪れる。
押し倒されてこじ開けられた記憶。
――きっと夜見た夢は最悪だったことだろうが、結果としてアリーヤは久々に襲来者におびえることもなく静かな一人の夜を過ごすことができた。
翌朝彼女が小さくうめきながら身を起こすと、パタパタと走り回っている音が聞こえた。
「……」
「おはよう、アリーヤ」
何をしているのか最初は分からなかったが――どうやら彼は彼女より前に起きて、手早く身支度を済ませた後、彼女の分の服やら何やらを用意しようとあちこち歩いているようだった。
ベッドの下に櫛やぬるま湯の入っているらしい手桶、タオル、その他さまざまな着物――雑多に詰まれているのを見て、彼女は呆然とする。
少年が簡素な騎士服を着ているせいもあって余計にシュールな光景だった。
「もうさ。お手本がベリアルだったから君みたいな女のヒトの用意ってぜんっぜんわかんないんだけど、とりあえず部屋にあるものを持ってきてみて――」
「……何をなさっているの?」
「え、だって起きるんでしょ? それとも足りない? あ、なんか違った?」
彼女はきょとんとする少年に、深い深いため息をついた。
「……あなたは騎士の身分の方でしょう。それは奴隷のすることですわ。仮初とは言えこの私の夫なのですから、そんなことなさらないで。みっともないわ」
相変わらず言い方は取りつく島もなかったが、アリーヤはそんな事を言ってしまう自分に驚いていた。
――言葉なんて、交わすつもりもなかったのに。野獣と意思疎通なんてできるはずがないのだから。
「ん。じゃあ、何すればいいの?」
「わたくしの身の回りの世話は侍女がします。きっとその辺りに控えているはずでしょうから、呼んできて。あなたは、もう出て行っても構いませんのよ」
「出て行ったってすることないし、今外にあいつがいるからスゲー行きたくないんだけど……?」
少年はここに至って初めて、明確に渋い顔をした。
アリーヤは一瞬驚いたように目を見開き、すぐに伏せておずおずと尋ねてみた。
「昨日も思いましたけど……ベリアル様がお嫌いなの?」
彼女のやや能動的な働きかけに、少年は少し目を見張ってからくしゃっと相好を崩し、んー、と唸ってから答える。
「好きではないね。嫌いは――あれとかそれがなければ、嫌いじゃないって断言できるんだけどね」
「変な方ね。あの方は、素晴らしい方なのに。どうして好きにならずにいられるのかしら」
アリーヤが呟くと、少年は首をすくめた。
「見解の相違だね。きっと俺たち、見ているものが違うんだ」
アリーヤは一瞬少年の方にふっと目をよこしてから、すぐにまた伏し目になる。
少年は結局、嫌そうな顔をしながらもおとなしく外に出て行った。
まもなく入れ替わりに女性が数名入室して、慣れた手つきで彼女の身支度を始める。
アリーヤはそれにぼんやり身を任せながら考えていた。
獣は確かに無教養だったが、話ができないわけではない。少なくともあの男のように、支離滅裂なことを言ってきてちっとも会話が噛みあわないわけではない。
彼女の知っている奴隷や獣と、彼は違った。
奴隷にしては明確に意思と考えを持っていたし、獣にしては知的だった。
この少年は――。
首を振って彼女は幻想を追い払う。
いいえ、いいえ。
きっととても狡猾なの。騙されては駄目。
王子様が迎えに来るまでは。
獣なぞに心を動かされては駄目。
アリーヤは言い聞かせる。
わたくしは高貴な女。あんな獣に心動かされたりしない。獣について興味を覚えることなんてない。獣は獣、いつか襲い掛かるときがやってくる。王子様を待たなければ。待たなければ――。
――けれど瞼と懸命に閉じれば、金の光と一緒に白い歯を見せた無邪気な笑顔がこびり付いて離れなかった。




