第五話「お風呂」
ドアノブを捻りながら押すと光がぼくを包んだ。さっきまで暗いところにいたからか、思わず瞼の距離が狭まって視界が狭くなる。
しかし眩しがっている場合ではない。彼女の様子を早く確認しないと。大量の本の塔の間を通り、彼女が昨日座っていた椅子を目指した。
「はあ、はあ……」
彼女は静かに本を読んでいた。安心感がどっかりと肩に圧しかかってきて重い。すると、彼女は顔を上げてこういった。平然と、平坦な口調で。
「本が濡れるわ」
「ご、ごめん……」
その言葉に、男ながら謝ることしかできなかった。君の為にここまできたのに、という不満は彼女の化け物を見るような、軽蔑したような目で押さえ込まれてしまう。
でも、ぼくは視線を逸らすことができなかった。何故なら、
「あのさあ、お風呂とかって入った?」
彼女の服は昨日と同じだったからだ。
この状況は青春真っ盛りの高校生男子としてどうなのだろう。いや、残念ながら彼女とかはいないのだけれど。
シャワーから出るお湯が、雨で冷えたぼくの体を温めてくれる。六月とはいえ、かなりこたえた。はっきりいって、シャワーを借りられるのは――借りたのが同年代の女の子のものであっても、そのことで全国の男子高校生に怒鳴られたとしても――嬉しい。もっとも、そんな状況は二度とこないだろうけれど。
けれど、あの表情はちょっと傷つく。
「あのさあ、お風呂とかって入った?」
ぼくが訊いてみると、彼女はこう答えた。
「お風呂……。現在確認されるものでは紀元前四千年頃メソポタミアで、払い清めの沐浴のための浴室、紀元前二千年頃には薪を使用した温水の浴室が神殿に作られていたものがある。元々は衛生上の必要性や、宗教的観念から水浴を行ってきたけれど、温泉を利用して寒さを拭うことなどによって今のような温浴が行われるようになった」
「長いよっ! まあ、うんちくをどうもありがとう……」
今まで、一言二言くらいしか喋らなかったのに。もしかしたらボケるタイプの子なのかもしれない。
「もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊の慣習が古くより行われていたと考えられている。あと――」
「もういいよ?!」
これ以上お風呂知識を頭に入れたくはない。いや、別にいいんだけどその知識はいつ使えるのだろうか。否、使えるところなんて滅多にない。
「で、入ったの?」
溜め息をついて仕切りなおす。
「入ってない。だって、女の人がきてないから」
お手伝いさんのことかな。ていうか、お風呂までお手伝いさんに任せていたのか? もしかして、この子何にもできないんじゃ……。いや、そんなはずはないか。
「お手伝いさんはもういないよ」
「じゃあ、わたしはどうしたらいいの」
首を傾げた拍子に、さらさらと黒い髪が彼女の肩で揺れる。
「入ればいいんじゃない?」
それ以外に選択肢はあるのだろうか。
「じゃあ、先に入ってきて」
何故に……? まあ、いいか。
「わかった。どこにあるの?」
「知らない。知る必要がないから」
さっきのお風呂情報の方がよっぽど、知る必要がないと思うよ。
「じゃあ、探してくるよ」
とりあえず、本棚と本棚の間にあった通路に行ってみることにした。幅にして約三mくらいで、二階に上がる梯子のすぐ傍でもある。天井も高く、広々とした『本の館』風の場所とはうって変わり、きちんと整理された通路だった。整理されたといっても、物が一つも置いていないだけなのだけれど。ここから見る限りはドアが四つ、等間隔で並んでいる。開いてはいない為、一つずつ見ていくしかない。
一つ目、一番手前の右。
「……、キッチンだね」
そこには新品同様に整理整頓されたキッチンがあった。何と、冷蔵庫・電子レンジ・乾燥機・テーブル・椅子までフル完備である。ヤバイな、流石お金持ち。
二つ目、一番手前の左。
「服ばっか」
呟いた通り、ハンガーに掛けられたワンピース(全体の九割ほど)とカーディガンがハンガーラックへ大量に掛けられていた。ぼくの九畳くらいの部屋よりちょっと広いくらいで、その光景は異様である。こんなに着るのだろうか?
ちなみに、キッチンの部屋はぼくの部屋の二倍くらいあった。地下だから自由に掘れると言っても、限界はないのだろうか。
価値観を少し変えられそうになりながらも、三つ目、左奥の部屋を拝見。
「ええーっと、書院造?」
びっくりするくらいの和風だった。いきなり平安時代へタイムスリップした気分だ。掛け軸や生け花など、趣きがある。
四つ目、右奥の部屋。
「あ」
やっと見つけた。明らかにここで脱いで、ここに入れてくださいというような、籠と洗面所がある。横に長い鏡がぼくの身長くらい長くて、少し驚いた。
実は一秒も早く、肌に張り付いた服が脱ぎたかった為、迷うことなく次々と籠に入れていく。
横に動かす式のドアを開けると、室内温泉並に広い浴槽が目に入った。
「ひろっ!?」
その大きさは思わず出した声が室内で反響する程。しかしながら、地下のレベルじゃないような気がする。
シャワーの蛇口を捻り、温かくなるまで手に当てる。冷たくないくらいになると、体にシャワーを向けた。
ああー、気持ちいい……。
一応人様の家――図書館の地下だけれど――なので声は出さないでおく。シャワーのお湯は着実にぼくの体を温めてくれていた。
不意に。
本当に、不意に。
ドアが開いた。
「へ?」
ドアの前には、堂々と彼女が立っていた。
生まれたままの姿で。
「ちょ、ちょっと――」
ぼくが声をかけるにも関わらず、彼女はすたすたと入ってくる。
「何?」
平然とぼくに体を向ける。ぼくは恥ずかしさで、体ごと浴槽の方を向いた。
「ねえ」
「何?」
「異性って知ってる?」
「知ってる。わたしと貴方は異性ね」
あー、知らないパターンだ。そういう意味の方じゃないんだよね……。ぼくが訊いたのは。
「恥ずかしくない?」
「?」
並行戦だった。もう、無理だ。
「タオル、巻いてきてくれない?」
できるだけ平然を装う。彼女は知らないことが多過ぎる。主に、日常生活や常識について。何でお風呂についてあんなに語れたのに、こんなことは知らないのだろう。もしかしたら、自分には関係ないとか思っているのかもしれない。
「タオルを巻く? タオルは巻くものではないわ」
「いや、合ってはいるんだけれど、巻いてきてくれない?! ほら、お手伝いさんとかが巻いていたみたいに!」
まさか、髪を洗うとかまでは任せていないとは思うが、ここは賭けに乗るしかないっ!
「わかった」
任せてた……。任せちゃってたよ、高校二年の思春期真っ最中の女の子が。理想が崩れていく。いや、彼女は色んな意味で別格か。
数秒後。再び彼女はドアを開けた。首だけ向けて見ると、ちゃんとタオルは体に巻かれている。――何とか峠は越えたようだ。
「じゃあ、そこを退いてくれる?」
「わかった」
そういって少し右に避けてくれる。でも、それではもろアウトだ。
「じゃあ、お風呂に入っておいて」
「わかった。待ってる」
ま、待ってる?
その言葉に疑問を覚えながら、ぼくは彼女が後ろにいったのを確認してから、お風呂場を出て、引き出しを引くと出てきた白いタオルを腰に巻く。もう、脱いでしまった服は雨で濡れ過ぎて着られそうにない。
これは入るしか選択肢が残っていない……。お父さん、お母さん、初めて女の子と一緒に入るお風呂は多分何にもありません。というか、恋人じゃないです。
今は無き父母に事を知らせると、ドアを開けて中に入った。シャワーの前にある椅子には――彼女が座っていた。
ちょこんと、座っていた。
「え」
「洗って」
彼女は一言、もうすることはないという風に、人形みたいに動かなくなった。いや、元よりあまり動かないのだけれど。
ここのお風呂にある椅子は珍しく、彼女が座ると、足がつくかつかないかぐらいだ。そう、丁度立って洗うにはいい高さ――って、そらそうだよね! きっと洗ってもらってたんだよね!
彼女が座っていることによって、元から短いバスタオルがより短く思える。ギリギリ見えない感じだ。
ああああ、もう駄目だ!
ぼくは右向け右をして、再びドアの外にある引き出しから、長くて分厚いタオルを取り出し、またドアを開けて入り、彼女の膝にかけた。彼女は首を傾げている。
よし、これでばっちりだ。もう、大丈夫。ぼくは三回、深呼吸をして近くにあったボトルを見る。うわあ、何か英語で書いてある。怖かったけれど、シャンプーとリンスとボディソープくらいは見分けられる。
シャンプーと思われるボトルを掴み、中身を出すと、いい匂いが鼻をくすぐった。あ、先に髪を濡らしておかないと。
ぼくはシャワーを出して、
「髪を濡らすから、ちょっと上向いてて」
と忠告をしてからシャワーの温度を確かめ、彼女の髪に向ける。長くはあるが、量は思っていたより少なくて、すぐにまんべんなく濡らせた。淑やかな髪が更に色っぽく見える。
「シャンプーするから」
彼女の髪にシャンプーを塗っていく。少し量が多かったかもしれないが、とりあえず泡立ててみる。そうすると、花の優しい香りが広がってきた。何の花かはわからないけれど、ぼく好みだ。
「あわあわ」
鏡を見たのか、彼女がそんな感想を口にした。もしかしたら、お手伝いさんはここまではしなかったのかもしれない。
「じゃあ、流すよ」
「わかった」
何かこの言葉をこの数分間でかなりきいたような気がする。まあ、返事をすること悪くはないのだけれど。
再びシャワーを出して、彼女の髪を流す。奥の方にも泡がある為、髪の中にも手を入れる。お湯と相まってか、包み込んでくれるような柔らかさがあった。いつまでも触っていたい、そんな感じ。
泡を全部流し終わると、次はリンスだ。コンディショナーとも言うのかな? そこら辺はわからない。うろ覚えというやつ。明らかに一方に『ボディ』と言う単語が窺えるので、白い容器だろう。ちなみにシャンプーはピンク、ボディソープは薄い紫だ。如何にも女の子らしい。
手のひらでリンスを伸ばして、彼女の髪に塗っていく。シャンプーとリンスはどう違うんだっけ? まあいいか。
全部塗り終わると、ぼくはシャワーを出して手を洗った。
「じゃあ、体は自分で洗ってね。流石にぼくでは無理だから」
「わかった」
彼女は慣れた手つきで泡立てるタオルみたいなものにボディソープをつけ、ごしごしと擦り合わせていた。
まあ、ぼくはさっきのシャワーで満足だから上がるかな。服――はないから、入ることにしたんだった。きいてみよう。
「ねえ、服がどこにあるか知ってる?」
「知らない」
即答だね。じゃあ、自分で探してみるよ……。
「じゃあ、ぼくは上がるから、ちゃんとお風呂に浸かってから出てきてね」
ぼくはそう言い残して、お風呂を後にした。