第三話「人形みたいな引きこもりさん」
それにしても「良」と書いて「まこと」って読むのは、凄い珍しいと思う。まあ、人の名前をとやかくいうのはおかしいと思うから、声には出さないけれど。
「黙ってしまいましたね。もしかして、私のことを疑ってます?」
「い、いえ!」
……ちょっと思っていたとはいえない。
「私はその子――かなでちゃんの親戚にあたります」
「かなでっていうんですか、彼女」
ちゃん付けだし、仲がいいのだろうか。
「ええ。楽器を奏でるの『奏』です」
「苗字は?」
「御爺様の血筋なので、桜木ですね」
フルネームだと、桜木奏か。
ぼくと三並さんが会話している間も、彼女は文字を追い続けていた。その光景に目を奪われていると、三並さんはふふっと笑って、
「かなり本好きな子でしてね。こうして一ヶ月に一度程、近くの図書館や書店の方に古くて手にとってもらいにくいものや、状態が悪いものをもらって持ってきているのですよ」
なるほど、それならお金はかからない。
「もしかして教師関係のお仕事に就かれているんですか?」
会話が弾んでいるのを良いことに、少し踏みこんだ質問をしてみる。
「いや、そんなことはないかな」
三並さんは笑みを浮かべたままだ。
「そうですか……」
ぼくがしょんぼりとした表情を浮かべていたのか、
「何故?」
と聞き返してくれた。その気遣いが嬉しくて、緊張が少し解ける。やっぱり目上の人と話すのは緊張するものだ。
「何となく、子ども達の為にくれませんか? と交渉したら相手も渡しやすいだろうと思って」
三並さんは笑みを深めた。
「人脈が広いんですよ」
何だかその微笑が慰めてくれているかのように温かい。三並さんは「話を戻しましょう」と前置きをして、
「それと、かなでちゃんに欲しい本を頼まれたら古本屋とかで探しますね」
確かに図書館や書店にもらってくるだけでは、好みの本に巡り会える確立が低くなる。興味を持った本が安価で手に入るなら、なおいいのは当たり前だし。
「……それにしても、本が多いですね」
ぼくは改めて見回す。数年でここまで増えたのなら凄い。
「そうですね。私もその子には甘いと自覚はしているのですが」
この情景を見れば一目瞭然だ。かなりあまあまだろう。
「何年程彼女は、引きこもっているのですか?」
ここしかないと思い、尋ねてみる。
「えーっと、九年ぐらいでしょうか」
「きゅ、九年?!」
思わず衝撃を隠せずに、言葉が漏れてしまう。三並さんは微笑を浮かべたままだ。
「驚きましたか」
「え、ええ。まあ」
動揺しぱなっしのぼくをよそに、三並さんはズボンのポケットからおもむろに携帯電話を取り出して、
「ああ、もうこんな時間ですね。元々急いでいたので、ここら辺でお暇させて頂きます」
そしてダンボールを再び持ち上げ、
「これ、彼女に渡してもらえますか? 私からだと」
「あ、はい。でも……」
それは自分でいえばいいのではないだろうか。そう思ったが、口には出さなかった。いや、口に出さなかったのではなく、口に出す前に三並さんが喋り始めたのだ。
「彼女は本さえ取り上げれば、集中力が切れます。それに、本を通して少しでも御爺様の依頼達成を早めてはいかがでしょうか」
思っていたより、三並さんは他人のことに気を使って下さる方らしい。
「ありがとうございます」
「では、またどこかで会いましょう」
三並さんはぼくにダンボールを手渡すと、くるりと背を向けてぼくがきた方に歩いて行く。しばらく見ていると、ぼくが落ちてきた穴の少し右へ行ったところにドアノブがあった。中は真っ暗で、三並さんは携帯電話の光を使い、階段を登って行った。
残されたぼくは、また彼女を見た。彼女は人形のように動かず、ずっと本を読み進めている。
せっかく、三並さんがくれたんだ。頑張らないと。
覚悟を決め、足を動かす。彼女の周りは特に本が積み重ねられていて、大きなダンボールを持っているぼくには難易度がかなり高い。何度も、本にぶつかりそうになりながらも、何とか彼女のすぐ傍にきた。近くにきて改めて見ると、仄かにピンク色が差した頬や、細い指などもはっきりと目にすることができた。
丁度、ダンボールの大きさくらいのスペースがあったので、そこにダンボールをドスンと置き、彼女の読んでいる本を少し躊躇いながらも取り上げる。表紙を見たけれど、知らない作品だった。
「……」
彼女は無表情で首を傾げた。さっき無視に近い形のことをされていたから、安心感がどっと体にのしかかる。
「本、三並さんから預かったから――」
「まことから?」
集中していないとわからない程、小さな声だった。
「うん。それでね、ぼくは――」
彼女はぼくの話を聞く素振りも見せずに立ち上がって、ダンボールの前でしゃがみ込んだ。
「全部ここにない本」
「そうなの? 良かったね」
まるで、ここにある本全てを記憶しているような言い方に、少し引っかかったが、まあ、喜びを表現したかったに違いない。
「ぼくは神宥竜也。君の御爺さんにお願いされてここに――って」
彼女は既に、本の世界に入っていた。表情は浮かべていないが、生き生きしているように感じられる。もしかしたら、毎月これを待っているのかもしれない。
「まあ、いっか」
期限はないんだし、とぼくは割り切り、とりあえずメモは残して置くようにする。少しでも、“引きこもり”脱却の糸口になればいいのだけれど。
鞄からノートを取り出して一枚ちぎり、何となく、自分の名前と学年・組、ここにきた理由を書いて、本のダンボールの中に積まれている本の一番上に置く。
左腕に巻いている腕時計で今の時刻を確認すると、まだ時間はあった。ぼくは「本の館」を探索する為、そこに鞄と携帯電話を置いて、ゆっくりと本を見て周り始めた。
どのくらい、時間が過ぎたのだろう。
本の世界にすっかり入り込んでいたぼくはふと、疑問に思った。おもむろに背もたれの高い椅子の傍に置いた携帯電話を拾い、画面を見る。
「し、七時!?」
何度も瞬きをしてみるが、表示された七時十七分という表示は変わらない。
これまで七時まで外にいたことがなかった。もちろん修学旅行は除くけれど、ぼくは学校が終わると直行で家に帰る為、必然的に遅くまで外にはいない。門限とかは特に決められてはいないし、することもない。新興君と遊ぶ時も連絡を入れていた。
多分、雪江さん――桜木さんの配偶者――が心配しているだろう。そう思い、鞄を拾って歩き出す。ダンボールを見ると、メモはぼくが置いたときのままだった。 まだ読んでくれてないのかな?
ぼくは本を読み耽っている彼女の傍に行き、
「じゃあ、ぼくは帰るね」
と軽く笑みを浮かべてから、その場を後にした。
「――き」
彼女の声が、微かに聞こえた気がしたけれど、気にはしなかった。