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プロローグ

「私、貝が嫌いなの」

 焼けた空のような茜色の傘。小降りの雨はその傘にふれ、形に沿って落ちてゆく。

「貝って、味噌汁に入ってる貝?」

「そうよ」

 前を歩く彼女の足取りは軽い。つま先を上に向けて歩き、その足の動きと連動して、小さな茜色の花が白地に散りばめられている傘が揺れる。

「なんで貝が嫌いなの?」

「貝って、防衛本能が強いでしょ? 人間の力だけでは到底開けることができないわ」

「そうだね。かなり頑張らないと」

 ぼくはアサリを想像した。あんなに小さいけれど、素手ではなかなか開かない。

 彼女の言葉は続く。なんとなく自分より知識を持っていて、思慮深そうな彼女の声は弾んでいる。足取りといい、なにか良いことでもあったのだろうか。

「でも、いつもと同じ環境にすると、簡単に開くでしょ? それがなんか、人間の生き方になぞらえて考えてしまうの」

 つまりまとめると、貝がいつもと同じ環境にするとすぐに安心してしまうということを、貝を人間に置き換えて考えるととても学ぶべきところがあって、でもそれを考えることを止めたい、ということだろうか。

 小難しい。今日にやっと中学を卒業した、子どもとも大人とも形容しがたい存在の人間が考えるような内容ではない気がする。

「まあ、美味しく食べればどれも同じだよ」

 そのときのぼくはとても破天荒なことを口にしたに違いない。彼女が不満そうに眉を寄せていたのをよく覚えている。

「まあ、そうね」

 顔をしかめながら渋々、肯定してくれた。

 その後は当たり障りのない話ばかりしていた。駅前のケーキ屋に新商品が出ていたとか、校長先生の話が長いだとか、たわいない話で盛り上がった。

 じめじめとした空気の所為で、三月にも関わらず前髪が額に引っ付いている。


 伝えないと駄目だ。今日じゃないと……!


 ずっと前から決めていた気持ちを、ふと彼女の姿を視界に収めながら心の中で反芻はんすうする。

 そうしないと、『今日、絶対』という決心が揺らぎそうだった。

 彼女の全てが欲しい、と思ってしまったあの日からどれだけ経ったのだろうか。今日がそれを叶える良いタイミングだと、少し思考が幼かったぼくは考えていた。

「ねえ、りん

 ぼくは立ち止まった。耳より高い位置で一つにまとめられている金髪が軽やかに揺れて、顔がこちらに見える。

 彼女の目がぼくの目をまっすぐに見つめていて、一気に胸が苦しくなる。お腹の奥で、ひやっとしたものが静かに動いているような、そんな感覚が走った。

「なにかしら」

 可愛らしく首を傾げる。それと同時に、傘をくるくるっと回した。

 いわないと……今いわないと次はないかもしれない。そんな情意が自分の中でうごめきあって、でもその所為か声が出ない。

 必死に口を動かすぼくを、彼女はじっと待っていてくれている。深呼吸をして、声を出す。特別な動きでもないのに不思議と震えた。相当緊張をしているらしい。


「す、き」


 たった、二文字の言葉。

 でも、たった二文字で全てが伝えられる、魔法の言葉。

 その言葉を口に出すと、急に怖くなった。彼女の顔が見れなかった。

 現実を受け止めたくなかった。彼女はなんというだろうか。彼女も同じ気持ちだろうか。

――これから、どうなるのだろうか。

 そんな感情が渦巻く中で、彼女の言葉を待った。何秒待っただろうか。一秒が長く感じるからわからない。

「それは、今日が卒業式だったからかしら」

 顔を上げると彼女の背中が見えた。いつもと変わらない口調だったけれど、なんだかその言葉の中に冷たさを感じた。

「違うよ!」

 咄嗟に口から出てきた声は、自分でもびっくりする程だった。彼女がいっていることは、ぼくの今の行動を起こすきっかけに過ぎない。そのときの自分は彼女が「思い出づくりに告白した」という勘違いをしたのではないかと、言葉の中のひんやりとした温度で思ったのだ。



 毎日、彼女に会うのが楽しみだった。

 彼女が笑うと、胸がとても温かくなった。放課後、彼女と遊びに行くときはとても幸せで、周りが見えていなかったときもあった。彼女に何度叱られただろう。

 この気持ちに気づいたのは、ある小説を読んでから。

 忘れもしない。

 その本には控えめに「ゆうやけ、こやけ」と書かれていて、凄く綺麗な夕焼けが水彩画で描かれていた。オレンジ一色で、その小説の世界が表現されているような感覚に陥るほど、目を惹くものだったのだ。

 小説を読んでからその表紙から裏まで続く絵を見ると、それまで押し込めていた涙が零れてしまう。右下には『渚羅なぎさらくでか』と温かさを感じる字が印刷されている。そういえば、あれは作者の直筆だったのだろうか。

 その本を読んで共感した。

 主人公、空香くうかは毎日を幸せに過ごしていた。あるとき、彼女は転校生の潤葉うるはに恋をする。

 徐々に自分の気持ちに気づいていく空香。それと同時に不安と焦りが募った。それは、空香と潤葉を引き剥がす、『高校卒業』という必ずやってくる別れが目前に迫っていたから。自分の気持ちを伝えようとする空香。

 そして、ついに卒業式がやってくる――。

 物語は、空香が潤葉を呼び出すところで終わっている。

 この後、どうなったのだろう。空葉は気持ちを伝えれたのだろうか。伝えられたとしたら、潤葉の返事はどうだったのだろうか。

 どきどきしながら読み進めた本は、読み終わった後もどきどきしたままだった。それが小説なのだと、初めて思った。

 『空香』に自分を重ね、『潤葉』に凜を重ねた。

 ぼくがときどき抱く、あの、温かいような苦しいような気持ちは――痛みは『恋』だったんだ。

 そう、気づくことができた小説だった。

 だから、


「それは、今日が卒業式だったからかしら」


 その言葉に僕は思わず

「違うよ!」

 と叫んだのだ。ドクドクと音を盛大に響かせる心臓を呼吸で落ちつけようとしながらも、息はどんどん短くなっていく。

 空葉はきっと潤葉に受け入れてもらえただろう。でも、ぼくの気持ちは――思いは届かない。届かなかった。彼女は背を向けたまま振り返らない。

「私は、貴方のことが大嫌いよ」

 追いかけようと踏み出した右足から、自分の体が凍っていくような感覚が訪れた。息がとまり、呼吸ができない。手は胸の辺りを掴み、力が入らなくなってきた体をなんとか膝立ちの状態になったときに支える。

 凜が遠くへ行ってしまう。頭は、脳は動けと命令を出しているのに体は全く動かなくなかった。



 どれくらいそこにいたのだろうか。

 気づいたら、周りは真っ暗で雨は一粒も降っていなかった。なにも考えずに落ちていた自分の傘を閉じると、そこには水すらついていなかった。

 理解したのは、「時間が経った」それだけ。ぼくは歩き慣れた道を自分のものではないような、他人みたいな振る舞いをする足で歩いた。


 なんとか家に帰ると、なにも考えずにベッドに倒れ込んだ。ミシッと軋んだことによって発生した音は静寂に打ち消される。制服も脱がずにしばらくそうしていた。

どれくらい経ったのだろうか。突然、電話がけたたましく鳴った。

「……神宥かみゆうです」

 淡々とした声に驚かなかった。ただ、「今、自分はこんな声なんだ」と思った。

「落ち着いて聞いて」

 その声の主は何回か聞いたことのある凜のお母さんだった。

「昨晩、凜が死んだの――」

 落ち着いた声に疑問を抱くこともなく、その言葉を理解しようとする。

 それができると――できてしまうと、一人しかいない部屋に型が古い受話器を落とす音だけが生まれた。



「――い」

 ここはどこだろうか。

「――い」

 ぼくはなにをしているのだろうか。

「――おい」

 今はいつだろうか。

「――竜也りゅうや!」

 それはぼくの名前だ。

「――ろ。おい、竜也!」

 さっきのは夢だろうか。

 きっと夢だろう。ぼくは中学三年生じゃない。高校二年生だ。

「起きろ。おい、竜也!」

 やっと理解できた。声の主はイライラしているようだ。顔を埋めていた腕から離す。

「竜也?」

 さっきと打って代わって、疑問系になった。何かあったのだろうか。

「何で、泣いているんだ?」

 熱い涙は頬を伝って、あごから机に落ちた。

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