第八話「一人目の妹」
013
渚の家から帰路に着いた奏はあっという間に一条家に到着した。
どうやら、裏道を辿って行くと渚の借りているマンションから徒歩数十分で帰れるらしい。方向音痴な奏だが、流石に土地勘くらいはある。生まれてから現在まで暮らしてきたここら周辺ならば、目を瞑っていても迷うことなく帰れる、という訳だ。
まあ、神代学園に向かう道は普段は行かない方面なので迷うのも無理はない。と、誰も責めてはいないにも関わらず、言い訳を考えていた。
「夕飯が出来るまで寝てよう」
入学初日。
前日まで春休みというだけあって怠惰な生活を送っていた奏はここに来て、一気に疲労感が体を襲う。強烈な眠気と共に欠伸をすると住宅街を歩いて行って、その中でも一際目立った自宅の前まで幾度か欠伸をしながら、玄関の前で立ち止まった。
チャイムを押して、一度、ドアノブに手を掛けると鍵が掛かっている。
「あれ、響の奴。まだ帰って来てないのかな……?」
既に時刻は三時を回っている。
幾ら、中等部の生徒会長と言えども最終下校時刻は過ぎているはずだ。友達と昼食に行ったとしても、流石に二時間は考えられない。
まあ、女子同士の昼食会なんて奏には到底、考えられない光景なので長話かもしれない。
取りあえず、鞄の中から鍵を発掘して、家の中に入った。
「ただいま」
声を上げるが、返事は無い。
下駄箱に靴を入れて、リビングに向かおうとした奏だったが、そこで神代学園指定の革靴が置いてあることに気が付いた。
女性用。つまりは響の靴だった。
首を傾げて奏は響の革靴を下駄箱にしまい込むと、立ち上がってリビングに向かった。
「いつもだったら、過剰なくらいのテンションで出迎えてくれるのに、どうしたんだろう」
いつもなら、ハイテンションな様子で近づいてくる響に鬱陶しかった奏だが、それがないと帰って来た感じがしなくて少し淋しい気もする。
「これは少し、警戒しておいた方が良いかも知れない」
静寂に包まれている家ほど恐ろしい者は無いと父親に聞いたことを思い出して奏はゆっくりと片方の靴を脱ぐとスリッパを履いて、同じ要領でもう片方の靴を脱いだ。
ふぅ、と第一段落を突破した奏は息を付く。
第二段階へと移行した奏は全ての中心部、この家の心臓部でもあるリビングを静かに覗いた。もしも、この光景を誰かが見ていたら確実に通報されるレベルの覗き方だ。
しかし、今はそんな悠長なことを言っていられない。
何故なら奏が三十分前から送っている響へのメールが未だに返ってこないからだ。
「やばい。もしかして俺、顔面を吹き飛ばされるんじゃないのか……」
思い返しただけで身震いがしてきた。
かつて、奏の妹――響は二度だけ本気で怒ったことがあった。それは思い返すだけでも嫌になるほどの記憶であるが故に奏は記憶の奥の奥に封印している。
もう二度と思い出したくない惨事を再び繰り返してしまうのかという恐怖。
恐ろしかった。悍ましかった。
頭を抱えて、そんなことを思いつめていると何かが動く気配を感じて思わず扉から手を離して乱れる息を殺そうと両手で口を押えた。
「…………」
息を殺しても、静かに音を立てる扉に意識が向いていなかった。
そんなことを気付いた時には既に遅く、リビングのソファーの所に静かに無言で佇んでいる響と思わず目が合った奏は咄嗟に死期を察してしまう。
「お帰りなさい、お兄ちゃん」
ニコリと、いつものように微笑んでお帰りと言ってくれた響。だが、奏は知っている。
あの状態の響は完全にお怒りモードだ。
口元が嬉しそうに笑っているのに対して、目が笑ってない。ハイライトが真っ暗だ。
「あ、ああ。ただいま」
しかも、敬語の響は相当たちが悪い。
何か彼女の気に障ることでもしてしまったのか、と諦めながらリビングに入って行った奏は記憶の中を引きずり回すように必死で探していた。
額に汗を忍ばせながら、引きつった顔は響の態度をますます悪化させる。
「どうしたんですか、お兄ちゃん?」
ゾッ、と背筋に寒気が走った。
真正面で座っている響は般若よりも恐ろしい、既に魔王と化していた。
座っているのに立っている奏が威圧で押されていた。
「い、いや、なんでもないよ?」
「そうですか」
再び笑みをこぼす。
しかし、口元しか笑っていない。
そんな響を横目でスライドさせながら、奏は間宮家で使用してしまった卵の残りを冷蔵庫に入れていく。ドキドキ、といつなんどき臨死体験をするのか、一瞬たりとも警戒は怠らない。
卵をしまい終わった奏はキッチンを通り過ぎて、無言で座っている響の横を通り、二階へと逃げようとした所で制服の後ろ裾を響に捕まれた。
流石の奏も、突発的な彼女の行動と一瞬、我が身が動かなくなったことに恐怖を覚えた。
心臓が飛び出るほど、鼓動が脈を打つ。
「お兄ちゃん」
いつにない甘い声で響は後ろを向いている奏に声を掛けて来た。
いつもなら、ベタベタとくっ付いて甘えたがる響だが今日の彼女は一味違う。殺伐と覇気を纏いながらハイトーンな声ではなく、静かにトーンの低い。まるで脅しをかけているような声色で兄の名を読んだ。
「お兄ちゃん」
口元が笑い、目元がどんどん黒ずんでいく。カラーコンタクトでもしているのかと背中越しにツッコミたくなった奏は観念した様子で肩を降ろすと響の方に振り返った。
「私に何か報告すること、無いかな?」
裾から離した掌が若干だが発火した。
ボゥッ、と音を立て煙が立ち昇ると奏は改めて妹の脅迫方法がいささか、過激すぎると息を飲みながら考えてしまっていた。
「なんのことだよ」
そう言い張る奏だったが思い当たる節は幾つかある。
彼女、妹の響は一条奏に対する愛着が半端ではない。小学校の頃から、もちろんだが中学に上がった頃からはあからさまに表に出して行動するようになった。
響は大切で、大事で、大好きなお兄ちゃんが、見ず知らずの女性と馴れ馴れしく交友関係に浸っているのがどうやら気にくわないらしい。
いや、関係を続けていくこと自体は別に構わないそうだ。それは兄の自由であり、妹が足を踏み入れる領域ではないと自ら、一線を引いている。
漫画やアニメでよくいるお兄ちゃん大好きな妹とは少し違ったタイプだった。
「へー、しらを切るんですね」
目が怖い。
響の様子が次第に可笑しくなっていく。
彼女は兄に怒ってはいるが、兄の行動全てを否定しているわけではなかった。
今日、たまたま出会ったばかりの女の家にお邪魔するのも考える余地は十分にあると思う。だが、響が最も怒っているのは家に上げた少女――間宮渚だった。
「私、全部知っているんですよ?」
そう言うとテーブルの上に置いてあったPCの画面を奏に向けた。
そこには渚の住んでいるマンションのエレベーターに入ろうとしているツーショット写真。それを見た瞬間、奏があの時に見た中等部の制服が何となく理解できた。
「これでもまだ、言い訳しますか?」
小首を傾げて、瞳が黒く濁る。
「……別に間宮とは、何も無かったし」
本当のことなのだが、響の威圧に押されて言葉を濁すような口振りになってしまった。
そんな煮え滾らない奏を見て怒りの頂点を超えた響はPCを強く叩きつけて閉じた。そして、兄である奏に向かって指を向けると地面と交互に指を指す。
気持ちが高ぶりすぎて、思わず響は立ち上がった。
「お兄ちゃん!!」
「はい!」
いきなりの大声で怒鳴りつけられたものだから、奏は恐縮して素直に言葉に従う。
「正座」
「はい――って、え?」
「早く! 正座」
「は、はい」
我ながら、ださい。と奏は心に思いとめながら、その場で正座をする。
「お兄ちゃんは今日、初めて会った女の人の家に易々と行っちゃうほど尻軽なの! 言い訳があるなら、今ここで言った方が良いと思うよ」
「いや、誤解だ。その間宮とはスーパーで会っ――――」
「言い訳はよろしい!!」
「どっちなんだよ、お前は」
どうやら、今の響は怒りが頂点に達したお蔭でいつも通りの響に戻っているらしい。色彩も冴え渡っている。これで一安心だと汗を拭った、奏だったがそんな油断しきった彼を響は許すはずもなく、
「お兄ちゃん、誰が立って良いって言ったのかな?」
「……すいませんでした」
そこから、しばらく響の一方的説教モード
響の言い分だと中等部の生徒会室から、兄と友達(男)と帰っている姿を見て入学式早々に女と知り合いにならなくて良かったーと思っていた矢先に帰宅途中の生徒会の人から「この人って響ちゃんのお兄さんだよね?」と先ほどの画像つきメールが来て、怒りフツフツと煮え滾っていた。――と響は供述した。
「響。間宮のために一つだけ、誤解を解かないといけないんだが――――」
「まだ説教は終わってない。それに私の了承なしに立たないで」
「すいません」
反論すら余儀なくされた奏は真上から千本槍のように突き刺さってくる響の言葉の槍は一度喋ったら、まあ止まらない。まるでいつも溜まっていた不満がここに来て爆発したように口がぬるぬると動いている。
言わせたいだけ、言わせておこうと奏は響の怒る姿を見上げながら、終わるのを待った。
「――――ですから、お兄ちゃんは、カッコよくて、頭もよくて、気遣いも出来て、容姿も良いので易々と知り合ったばかりの女の家にお邪魔しないでよ。お兄ちゃんの身に何かあったら、その人を殺してでもお兄ちゃんを助けないと……」
さらっと怖いことを言う。
奏は心の中で恐怖していた。
それにしても、響の兄補正が掛かった色眼鏡の発言は撤回しない奏。
「分かった、分かったからさ。一旦落ち着こうか、響」
「お兄ちゃんは何もわかってないっ!!」
さっきまで怒っていたと思えば、今度はいきなり涙を零し始めた。
膝を曲げて泣き崩れた響は細い両腕で、ポカポカと奏の肩の辺りを叩き始める。
「日和から、メールを貰った時、お兄ちゃんが変な女に言い寄られたのかと思ったんだよ。メールや電話をしても返してくれないし……、本当に心配したんだから」
泣きじゃくれた響の肩を優しく寄せた奏は、もう片方の手で静かに彼女の髪を撫でる。
奏は知っていた。
小さい頃から、両親が仕事で家を空けることが多く、夜も帰ってこない時が多かった。
そんな時、いつも寂しそうにしている響の相手をしていたのは兄である奏だった。だから、奏は妹達の世話をするのには慣れているし、妹達もすがり寄るようなほど奏に甘えていた。
だから、奏は知っている。
響がこんなに心配をしてくれているのは一種の愛情表現なんだと。兄妹である奏を心配してくれていて、それを上手に表現できない結果がこのような悲劇を生んでしまったのだと。
この時まではそう思っていた。
その日、結局どう足掻いても響の機嫌は治まらず、夕食の準備も間々ならぬほど落ち込んだ彼女は部屋に引き籠ったままになってしまった。
奏の高校入学式は色々なことがあって、響の淋しそうな寝顔を見ながら、奏は一日を終える。
015
翌日。
今日は目覚ましが鳴る前に起床することが出来た。
しかし、時間になっても響は起こしに来ない。
仕方なく奏は準備をすると一階のリビングへと降り立った。
「おはよう、お兄ちゃん」
キッチンに顔を向けると声が聞こえてきた。そこにはいつもと変わりない朝食を作っている響だった。毎日、変わらず制服の上にエプロンを付けて朝食を作ってくれている響だった。
鼻歌を歌いながら、フライパンを手にしている響。
どうやら、昨日の機嫌は直ったらしい。
「……良かった、機嫌が直ってくれて」
誰にも聞こえない小さな声で独り言を呟いた奏はテーブルに座ると頬杖を付きながら、響が作っている朝食の出来上がりを欠伸しながら、しばし待っていた。
物の五分もすると響が軽快なステップと共に料理を運んでくる。
「お兄ちゃん、出来たよー」
テーブルに並べられた朝食を見て、湯気の立つ味噌汁を目の前にして奏は箸を掴んだ。
そして、響が正面に座るのを確認すると手を合わせて一緒にいただきます、と声を上げた。
卵焼きにまず箸を伸ばし、舌鼓を打つ奏。いつもなら、響から何かしらの話題があがる頃であったが、今日の食卓はちょっと違かった。
あんなに普通に接していた響が無言でご飯を口にしている。
そんな、違和感を覚えた奏は咄嗟に昨日のことをまだ根に持っているのだろうと思い立つ。女の嫉妬は怖いんだぞ、と昔、父親に言われた言葉をふと思い出していた。
「いやー、響の作った卵焼きは天下一品だな」
「…………」
「い、いやー、この味噌汁も旨い! 流石は響だ」
「…………」
「このご飯も、ふっくらと炊きあがっていて絶妙だな。響はやっぱり、凄いな」
「…………」
いずれも無反応だった。顔の表情一つ変えず、響は黙々とご飯を食べ進めている。
メンタルの弱い奏にとって無視されることは相当、心が傷ついた。ズタズタのボロボロだ。
それから、しばらくの間、奏の賢明な努力で響とのわだかまりを修復させようとしてみるが一向に状況は打開できず、むしろ食べ始めた頃よりも機嫌が悪くなっているように見える。
キリキリ、と胃が痛み、徐々にご飯が喉を通らなくなっていく。
「あー、もう限界だ!!」
これ以上、こんなことをしても意味がないと気付いた奏は箸を置いて食事を中断させた。
その言葉にも反応を取らない響に、流石の奏も少しイラッとしてくる。
「響、あのな」
「お兄ちゃん、今はご飯を食べている途中だよ」
「……はい。すいません」
「わかればよろしい」
一条家には食事中に立ち上がってはいけない、という暗黙の了解が存在する。
それを意図して注意した響は再び箸を手に取った奏に愚痴を零した。
「今回、悪いのは全部、お兄ちゃんだからね」
開口一番に結論を告げた。
その言葉を受け、卵焼きを口にした奏は飲みこむと反論をする。
「だから、あれは誤解だって説明しただろ?」
「それでも、誤解でも何でも、お兄ちゃんは初対面の女の人の家に上がりこんだんでしょ。それは紛れもない事実だよ。私はその過程を聞いているんじゃないの、結論を聞いてるの」
「……別にいいだろ。流石に俺も高校生だぞ、女の家にくらい行くことだって」
バンッ! とテーブルの上にあった食器が宙を舞った。我に返った奏は正面に立っている響は何故か、薄らと涙を浮かべていた。
昨日、泣き崩れたいたのだろう。
普段、化粧をしない素でも可愛い響が目の下が赤く腫れていた。それが薄らと浮かべた涙で露わになる。そこで奏がどれだけ、響に心配を掛けたのか、気づいた。
「別に女の家に行くことが嫌なんじゃない、初対面の人の家に行くことも駄目と言わない。だけど、一言何か言ってくれれば、私はそれで安心するんだよ。お兄ちゃんは私が知らない男の人の家に何も言わず、連れて行かれる所を見たら心配するでしょ?」
「う、うん。まあ、それは……」
「それと同じだよ」
もう言っていることが良くわからなくなってきた気はするが、この際、奏は静かにしようと黙っている。何か言おうと口を開けば、すぐに反論されるのは目に見えていた。
少し泣いていた響は下を俯いて、何も言わなくなってしまった。
「…………」
どちらかが認めない限り、この喧嘩は終わらないと見えた。
頭を掻き、箸を茶碗の上に置くと奏は俯いている響の方に顔を見上げた。
「響」
「…………」
「その、悪かったよ。俺、お前の気持ち考えてやれなかった。だから、許してくれ」
頭を下げた奏に対して、響は小さな声で声を上げてきた。
「……もう勝手に女の人の家に行かない?」
「ああ、行かない」
「……なんでも、言うこと聞いてくれる?」
「ああ、何でも聞く。だから、機嫌を直してくれよ」
その瞬間、声を啜り泣く音がピタッ、と止んだ。
まるで意図して涙を流し、奏にその言葉を言わせたいがために起こした行動だった。
にやり、と悪顔をしながら、響はゆっくりと顔を上げると嬉しそうに立ち上がった。
「それじゃあ、今度のお休みに私とデートしてね!」
その発言に奏は不意を突かれて、唖然と口を開きっぱなしになる。持ちかけた箸が指の間で死闘を行い、動揺に負けてフローリングの床に叩き落ちた。
ゆっくりと顔を上げ、真正面の響の顔を見た奏はその時に初めて自分は愚かなことをしたと悟った。
「そ、それとこれとは話が別だろ?」
「だって、お兄ちゃん。今、何でも言うこと聞いてくれるって言ったけど?」
何故か手にしているボイスレコーダーから、自分自身の声が復唱して聞こえてくる。
そして、奏は腑抜けた顔を浮かべると疲れた様子を見せながら、背もたれに寄りかかった。
「……お前、このためだけに怒ってたのか?」
「うん。だって、私がデートしようって言っても絶対に了承してくれないから、強行突破でぶちかませ、ってお姉ちゃんが」
「あの馬鹿」
項垂れる奏を余所に軽々と食器を積み重ねた響は、キッチンに颯爽と向かっていくと水道の蛇口を捻り、嬉しそうな鼻歌と共に食器を洗い始めた。
「……妹とデートとか、どんな羞恥プレーだよ」
頭を抱えて、ただ只管に奏は諦めが付く納得を自分自身に言い聞かせていた。
学園では依然として、何も変化のない日々が一週間ほど、続くのであった。