第四話「ヴァイスハイト」
「わ、私が負ける……、だと」
青ざめていく八咫烏は小さな声でそう、絶望をした。地面に何度も腕を叩きつけて、自分を戒めるように彼は徐々に声が小さくなっていく。
まるで「勝つことが全て」。――「負けることは許されない」と八咫烏の体全身から木通と飛鳥は察した。その背後に潜む凶悪な影に。
しばらく、八咫烏の俯き、絶望している姿を見下していた木通はそのシュールすぎる光景に思わず、声を漏らして笑う。
隣にいた飛鳥が驚くほど、その光景には似ても似つかない反応だったからだ。
「い、一体、何故だ……。何故、貴様が生きている!」
木通に笑われたことで我に返った八咫烏は悔しさを堪えながら、顔を上げる。そんな様子に木通は表情を切り替えると優勢に立ったことを良いことに上から目線で物を言う。――いや、元々からそんな態度か。
「だから、言っただろ? オレの能力は相手の能力を支配することだってよ」
伸ばした指で自分の頭を小突いた木通は余裕綽々と、八咫烏に説明を続ける。
「まさか、オレがお前の能力を知らないとでも思ったのか?」
「――これは傑作だ」と口を零すとまるで教師のように、そこらかしこを移動しながら物事を解説する。既に勝敗が決まったこの勝負をワザと伸ばしているようにも見える。
だが、飛鳥は木通がただ強欲に八咫烏の相手をしているのだとばかり思っていた。
「お前の能力。それは大気中の水分を利用して発動できる霧の能力」
余裕綽々と笑う。
「初めは分からなかったよ。あの刀がまさか、霧で作られた偽物だったなんてな」
本音を言われて、図星を突かれて、八咫烏の動揺は増す。
それは木通に対してなのか。震えが止まらない。しかし、それを知りながら木通は続ける。
何か本質的な本当の狙いを隠しながら、喋り、語った。
「最初に疑問に思ったのはオレ達を初めて攻撃した時のことだ。この人工で出来た機械島。何をするかは現段階では非常に分からない。しかし、何かを研究するためだったら、良い所だ」
不意を突かれて心が揺れる。
八咫烏は唾を飲みこんだ。
「だが、そんな所だ。わざわざ、濃霧なんて発生するわけが無いと思った。何かをするなら、それはまあ地下に限る。でも、こんな人工島。空から見れば簡単に分かっちまう。だから、考えた。――――人工的に霧を発生させて島全体を覆い、発見されないように身を潜めるには充分かなってよ」
あくまで憶測の範囲内を木通は八咫烏に告げる。
何故、そこまでして喰らい続けるのか。そこに飛鳥の意思は無く、木通の行動は謎だった。
「いや、ちょっと待ってくれ。木通」
「あん? なんだ、飛鳥。今、オレはこの男にひじょーに丁寧に解説をしてる最中なんだが」
会話の途中で区切るように飛鳥が声を上げた。
苛立たしそうに、腹立たしく、木通が首を傾げて飛鳥の方を睨み付ける。
「だってよ。その話が本当なら、僕達がこの島に来た時は何で確認することが出来たんだ」
「はっ、そんなこと簡単に決まってるだろ」
あくまで最初から知っていたように木通が告げる。
首を傾げた飛鳥はよりいっそう、混乱状態になった。
「招待されたんだよ。オレ達は、この機械島に。誰かの意思で、な」
「……招待?」
「まあ、今はそんなこと。どーでもいい」
飛鳥の疑問を適当にあしらいながら、再び八咫烏の方に目線を向けると木通は小さくため息をついた。そして、頭を掻き毟ると責任転換を飛鳥に押し付けた。
「てめぇのせいで、せっかくの敵を逃がしちまったじゃねぇか」
「え? う、嘘だろ」
「ホントだよ。見て見ろ!」
飛鳥は木通の影に隠れていた八咫烏の姿がないことに改めて気が付き、目を見開いた。
「大方、霧になって逃げたんだろう。……ッ、簡単に能力を解除するんじゃなかったな」
そう、自分を卑下した木通は目を閉じて杖を突いていない方の手を前に伸ばした。ゆっくり、手を下げ、空中を伝うように手を下ろしながら、口を開く。
「能力支配者」
すると、霧がかった空気に同化していくように木通から段々と色が抜けていく。数秒すると木通の姿は飛鳥からの目視では完全に確認できなくなっていた。
あまりに突然の能力使用によって飛鳥はこれ以上なく、混乱する。そして、しばらくすると何処からか金属音の打ち合いが聞こえ始めてきた。
「ど、どうなってるんだ……?」
飛鳥の知らない所で、飛鳥の視えない場所で、木通と八咫烏は刀と杖を交じり合わせながら戦っていた。そして、しばらくすると飛鳥の背後から崩れ落ちるような音が聞こえてくる。
すぐに背を振り向くとそこには地面に這いつくばっている八咫烏と、その彼の背中を踏んでいる木通の姿だった。
余裕綽々と木通は舌打ちをかます。
「……ッ、たく。面倒なことしてくれやがるな」
木通は言った。――――『能力者は能力を失うと、ただの無能な人間になる』と。
能力を失った能力者は、ただの人間に成り下がる。
それはどんなに強い能力者にだって該当する。
だから、今、能力を失った八咫烏を確保することは赤子の手を捻るように簡単なのである。
「くそ……」
歯を食いしばるように、歯を噛みしめる。
怒りが、悔しさが、虚しさが、八咫烏の心を埋め尽くしていく。何かの罪悪感に囚われて、使命感に促されて八咫烏の精神状態は酷く荒れていた。
「さて。そろそろ、本題に入らせて貰う」
「……本題?」
聞かされていない言葉を飛鳥は口にする。
既に木通によって、完全的に能力が使用不可能になった八咫烏にとって、これほど敗北的な状況は無いだろう。逃げようとしても、能力は使えない。走って逃げようにも木通の手には拳銃が握られている。
ただ、相手の言葉を聞き、それに答えていくしか彼の生きる道は無かった。
「この機械島が何のために作られたのか。それは大方、推測できる。七色家が裏で繋がっている理由も、既に調査済みだ。だが、オレが聞きたいのはそんな表面上のことじゃねぇんだよ」
「な、何が言いたい」
木通は容赦ない鋭く冷血な瞳を八咫烏に向けると拳銃を彼の頭部に向けて照準を合わせた。
「お前らの言う、あの人って言うのはJOKERで間違いないんだよな?」
ごくり、と八咫烏は唾を飲みこんだ。聞き慣れているにも関わらず、その単語を聞くと動揺が体全身を襲ってきた。
意味もなく、訳もなく震える。
木通は八咫烏のその表情を見て、確かな確信を得た。
「木通、JOKERって何処かで聞いたことがあるんだが」
「ああ。オレ達にも非常になじみ深い奴らと同じ名家の一人だよ」
「そ、それって……」
すぐにJOKERが七色家だと察する。
飛鳥は身を引いて、唖然と口を開いていた。
「そ、そう言えば、お前。木通って言ったな」
地面に這いつくばりながら、ゆっくりと顔を上げる八咫烏。額には木通の拳銃が向いているが、それも気にせず、したり顔で目の前の敵に向かって口を開いた。
木通はただ、一度だけ首を縦に頷いた。
「そうか、お前があの人の言っていた失われた八色家の唯一の生き残りか。道理で能力が飛び抜けているはずだよ。――私のような雇われ警備には荷が重すぎたか」
八咫烏はさらに口を開き、話を続けた。
「ふん、流石はあの人が言うだけのことはある。お前は強い」
「ありがとう。だが、オレはあの人に認められるほど強くは無い」
――――『さあ、さっさと私を殺してくれ』と八咫烏は拳銃を向けている木通に向かって頼み込んだ。それは、一刻も早く死にたいからなのか。それとも、あの人に顔向け出来ないからなのか。
木通にも、飛鳥にも、それは分からない。
「色々と情報は聞きたかったんだが、オレはお前みたいな雑魚じゃなくて。もっと上の階級の奴らに訊くとするよ」
「ああ、そうしてくれ」
一発の銃声音が鳴り響く。
脳天に弾丸が突き刺さった八咫烏は衝撃で俯いていた身体が仰向けになるまで吹き飛んだ。息をしない身体は次第に青ざめていって、飛鳥はゆっくりと視線を逸らした。
拳銃の消炎が立ち昇る中、木通はそれを息で掻き消すと懐にしまい、振り返る。
「べ、別に殺さなくても良かったんじゃないのか?」
今までとは違う状況に飛鳥は思わず、本音を漏らしていた。
木通のいつになく、冷たい表情が心に突き刺さっていたからだ。恐怖が身体を震わせる。
「飛鳥。どうやら、お前は一つ勘違いをしているようだ」
「勘違いだって?」
「ああ、これは間違いなく歴史上に残る戦争だ。生きるか、死ぬか。選択肢はその二つ以外には存在ない。周囲を海に囲まれているから、逃げることも出来ない。だから、オレ達は進まなくちゃいけねぇんだよ。――――世界を護るのか、世界を破滅に導くのか。それは全てが解決してから見定めようじゃねぇか」
木通は乗り気ではない飛鳥に問いかけるにように言葉を続ける。
そして、八咫烏が死んだことによって深みがかっていた霧が次第に晴れていく。
「お前達は佐藤真桜を。オレ達は七色家の実態を掴むために動いている。今はそれだけ考えていればいい」
木通はそう告げると静まり返る飛鳥の横を通り過ぎて、一足先に歩いて行く。
「ここは敵陣。一秒後、一分後、一時間後に生きている確証なんて何処にもねぇ」
――――『だから、その拳銃とスタンガンから手を離すなよ』と。それだけ告げて地下への入り口を、探して木通は晴れていく霧の中を突き進んでいく。
「今はまだ信じられない。だけど、今は信じるしかないか」
目的完遂のために飛鳥は木通と協力することを改めて誓う。
そして、何処となく淋しい背中をした木通の姿を追って飛鳥は晴れた霧の中へ飛び込んだ。
005
一条奏が登場したことによって、圧倒的に有利な状況になったと思ったこの場だったがその余裕は瞬き一つであっという間に形勢逆転されていた。
崩れ落ちていく能力を持たない数十人の兵隊。――そして、完全に優位だと思っていた心情を裏切ったように渚を抱えていた奏が突如、十メートルほど背後に謎の威圧によって、吹き飛ばされた。
「い、一条くん!!」
「一条!」
二人が声を出すが、地面に叩きつけられた奏は立ちあがらない。
すぐさま、京子は奏が吹き飛ばされた方向とは逆方向の位置を睨み付けるとそこには今まで姿形すら、見られなかった二人の男女が余裕綽々とした様子で立ち振る舞っていた。
「あらら、簡単に吹き飛ばされたよ。これは期待できないかもしれないねぇー」
「そうですか? 私には可愛げのある小さな小動物に見えますが」
京子は立ち上がって、早急に対処をしようとしてみるがどういう訳か足が竦んで動かない。さながら、パントマイムでもしているように地面から離れない足を力一杯、両手で引っ張っていた。
しかし、京子自身原因は何となく理解している。
「……こいつら、強い」
目には見えない。
だが、京子は相手の闘士。――と言うべきだろう、その立ち振る舞いから、どれだけの実力であるのか大よそ見当がついてしまった。
本能が逃げろと頭の中を駆け巡る。
知りたくは無かった敵の実力を晒されて、足が竦み、体全身が震えだす。
「何ていうか、どうしてここにいるのか疑問なくらい弱いよね。君達は」
姿を見せた敵の、金髪の男性が京子と渚、そして吹き飛ばされた奏を上から目線で吟味すると愉快そうに高笑いを見せる。何処か、信憑性に欠ける薄っぺらい笑いをうかべながら、比較的ラフな格好で青色のカーディガンを靡かせていた。
もう一人の女性は青年とは違って、静かに冷めた表情で二人を見下している。
「ここが何処なのか、本当に分かってないみたいだ」
一人語のように冗舌に語りかけながら、金髪の青年は京子達の方へと近づいてくる。京子は必死に足を動かそうと力を込めるが、返ってそれが逆効果となり、バランスを崩してその場に尻餅をつく。
「背の高い君。どうやら、君は自分の身体を強化させる能力のようだね」
徐に近づいて、立ち上がることの出来ない京子に向かって金髪の青年は的を射た言葉を口にしていた。京子は出来るだけ表情に出さんばかりと、驚きを隠しては見るが青年はその姿の京子を見ると再び高笑いをして彼女の正面で膝を抱えた。
「今なら、僕に当て放題だよ? ほら、当ててみなって」
挑発をしてきた。
そんな、青年の要望に応えるように京子は即座に拳を握りしめた。そして、数十センチの距離で高笑いをしている青年に向かって京子の強化した拳――『暴風振動』が周囲の風を巻き込みながら、鉄拳を振り降ろした。
――――はずだった。
しかし、京子はあまりに悲惨なその光景を見て開いた口が塞がらない。
距離わずか数十センチの間合いで確実にヒットできるはずの攻撃だったにも関わらず、京子の拳は見事に空を切り、その場に座っていた青年の左頬を突き抜けるように避けられていた。
「当たらないねぇー」
皮肉にも、嫌味に聞こえる、悪びれもしない悪意のある声で京子の動揺を窺った。
そんな青年だったが、京子の動揺に気を取られていると真横からの気配に気が付くのが一瞬、遅れる。体全身を反り返らせるように躱したその攻撃の矛先を窺って、青年は再び悪めいた表情で嗤い、笑う。
「へぇ、君も戦うのかい。小さな女の子」
「わ、私だって!!」
何処かにあった金属片を両手に握りしめて、青年に向かって振り降ろした後だった。渚は頭の激痛を、押し殺しながら隙を狙って攻撃をするも意図も簡単に躱される。
しかし、その一瞬は京子が動揺から立ち直り、現実を見るには丁度いい時間になった。
「丁度いい。二人共、あの人の所に連れて行こう」
青年は金色の髪をなびかせながら、二人に向かって腕を引く体制を構えた。
それを危険だと感知した京子は咄嗟に渚に向かって手を伸ばす。
「渚、掴まれ!」
「うん!」
手を掴んだ瞬間、京子は中腰になると足に力を集約させて、一気にジャンプをした。
暴風振動を足に集中させて、高く跳び起つことの出来る京子が生み出した応用術。
そのまま、京子と渚は十メートルくらい上空へと飛んでいくと後方に降り立って奏が倒れている場所に着地をすると青年が攻撃を外したことを視界に捉えた。
ゆっくりと立ち上がって、余裕綽々としていた笑顔が少しだけ曇る。
「へぇ、中々、いい能力を持ってるじゃん」
少しだけ興味のわいた青年は、今度は三人に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。
まだ能力のわからない以上、迂闊に攻撃は出来ないと考えた渚は京子と顔を向け合う。彼女の瞳が京子に何かを伝えたのか、一言も喋っていないのにも関わらず、京子は渚と奏を護るように一歩、正面に出た。
「一分。いや、三十秒だ。もっと短くなるかもしれないが、必ずやり遂げる」
両頬を引っ叩いて、怖がる気持ちを押さえつけながら、敵に立ち向かおうとする。
己と――――、そして。敵と戦おうと意思を固めると全力で走りだす。
加速に加速を重ねた京子の移動は、青年が目を見張るほど素早く彼が能力を発動する直前に真正面まで距離を縮めると、渾身の力を振り絞って拳を握りしめた。
青年は驚きのあまり、体勢がやや後ろに倒れかかろうとしていた。
京子は確信した。
この攻撃は確実にあたると。――どんなに強い能力者だろうとも、この攻撃を対処する力はこの距離では到底不可能だと思いながら、拳を振りかぶった。
「――――入谷くん。半歩、左へ」
拳が青年の腹部にあたるか、当たらないかの距離で京子の聴覚に突如、綺麗な声が響いた。すると正面では、にんまりとした表情をしながら青年が半歩、左へと体の向きを変えた。
攻撃は後一歩、という所で躱されて京子はまたもや空を切る。
「くっそ!」
青年――入谷となのる金髪が左方向に避けたことを確認した京子は通り過ぎていく間に足を器用に組みかえて、そのまま回し蹴りを入谷の頭部へとヒットさせた。
今度こそは。――と、少し嬉しそうに笑った京子を余所に入谷はあくどく、悪びれた表情で京子の足を顔面の前で受け止めていた。
「残念」
「くっ……」
京子と入谷が戦っている間、わずか十数秒の間の出来事。頑張っている京子を余所に渚も別の意味で、奮闘をしていた。
親友である京子が稼いでくれる一分以内に、渚に課せられた任務は奏を起こすこと。
「一条くん! 起きて下さい。京子ちゃんが、あんなに頑張っているのに」
気絶しているのか、奏は地面にうつ伏せになりながら、一向に起きる気配はない。他の方法は一切ない。
ただ、勝てる見込みがあるとすれば、それは一条奏。ただ一人だと渚は思っていたからだ。
それだけ、奏に信用も、信頼も、している。希望も、抱いていた。
「一条くん、起きてよ。このままじゃ、京子ちゃんが……、死んじゃうかもしれないよ」
奏から目線を逸らして京子の方を見ると入谷に一方的にやられている状況が目に止まった。渚自身、今すぐにでも助けに行きたい。だけど、自分にはそんな力も能力も持っていないことくらい、わかっていた。
奏の身体を揺すっていると唐突にやってくる、謎の頭痛が再び渚を苦しめた。
「……うっ」
気絶している奏の背中の上で膝を抱え込むように倒れ込んだ渚は堪えきれない痛覚に嫌気を差しながら、自分にもっと誰かを護る能力が欲しいと心から願い、心から祈った。
「……あ、あ」
しかし、そんな京子の時間稼ぎも、渚の奮闘も一瞬にして水の泡と化した。
起きることのない奏に目を落しながら、渚は込み上げて来る自分の情けなさに涙を零した。――そして、事態は最悪の展開を迎えることで終ろうとしていた。
「所詮、子どもだね。能力の本当の使い方を知らない人になんて負けるはずもないけど」
にたり、と不敵に笑みを浮かべながら、入谷は脇腹を蹴り飛ばした京子の首を掴んだ。既に意識が朦朧と仕掛けている京子にとって、暴れる気力も、力も残っていなかった。
「大丈夫、殺しはしないから。あ。でも最悪、死んじゃうかもしれないけどね」
軽薄でどこまで相手を見下しているのかわからないが入谷は口数多く京子に喋りかけた。
京子の首を掴んでいない右手が、トドメの一撃を放つための準備が如く、後方に引かれた。
「一条くん、起きてよ!!」
渚の涙が零れ落ちて、奏の背中にポツリと落ちた。心からの願い、それは己自身が誰も救うことが出来ないと自覚していた渚だからこそ、心を込めて、気持ちを、感情を一粒の涙へと落とした。
涙が到達して、奏の服の上で激しく散った途端――――――、奏は瞼を開いた。
そして、次の瞬間。京子に降りかかる入谷の攻撃が拳を放つ直前で止められた。拳が一寸も動かすことが出来なかった。
この状態に驚いた入谷は思わず、京子の首元から手を離すと自分の拳の方に目線を向けた。――そして、何かを待ち望んでいたように苦笑をした。
「君は最初に僕が吹き飛ばした少年だねぇ。でも、残念。僕は男には興味は無いっ!!」
掴まれていた拳を握らせたまま、大きく振りかぶって一条奏を投げ飛ばした。空中へと吹き飛ばされた奏は何処か冷静な姿を見せたまま、地面に着地する。
入谷は面と向かって、初めて一条奏という名前も知らない侵入者を見て鋭い眼が光り輝く。
そして、何とか意識を取り持った京子と渚は無事に合流をして邪魔にならない位置に離れると、とある違和感に気が付く。
「……あれ、いつもの一条となんか様子が違くないか?」
「う、うん。なんていうんだろう、一条くんらしくない」
姿かたちは『一条奏』そのもの。しかし、身に纏っている雰囲気や、覇気がいつも関わっている一条奏とは違うと二人は即座に気が付いた。
決定的に違っているのは瞳の色が紫色から青緑色に変色していることだ。
無言で向き合う、入谷と奏。
どちらも動こうとはせず、どちらも喋ろうとはしなかった。――――だが、その沈黙の様子は一条奏によってぶち壊される。
地面を蹴り上げて、高速移動をすると入谷の懐に向かって拳を握る。
「甘いねぇ」
余裕そうに入谷は笑い飛ばすと、片手を伸ばして拳を受け止める。それだけには留まらず、握った拳を強く握りしめると力の流れに沿って奏を力一杯、引っ張り上げた。
態勢を崩した奏は片足で地面を歩きながら、入谷の真横を通って行く。
「君は――――、いらないね。死んじゃえ!!」
突如、入谷の掌に発動した小さな突風の球がバランスを崩した奏の元に投げられた。そして、奏に接触すると爆発した暴風雨の如く、激しく風が彼の身体を切り刻む。
連鎖を決めたい入谷は最初同様に両手を羽のように伸ばして、奏を遠くへ吹き飛ばした。
「あっけなーく終わる。君の命と、この戦い」
自身の能力で発動した風に吹かれながら、金色の髪をなびかせる。入谷は余裕そうに横目を向けて一緒にこの場所へと来た女性にピースサインを決める。
「いえーい、どうだい。僕に惚れた?」
「いいえ。全然」
「つれないなー。やっぱり、君もあの人派かー」
つまらなさそうに頬を膨らませる。――――しかし、その能天気な笑顔が次の瞬間、劫火に包まれて、熱風と共に吹き飛んだ。
女性は呆れた様子でその場の光景を見ていた。
「あっついなー。あ、お気に入りのカーディガンが……」
直撃した攻撃を諸共せず――――、いや寸前の所で気が付いて能力によって調和した可能性もあるが。入谷は何とか生きながらえることが出来たが、お気に入りの青色のカーディガンは少し焼き焦げていた。
そして、入谷の怒りは自然と前方の人物へと向けられる。
「へぇ、その能力。涯くんのでしょ? どうして、君が使えるんだい? ねぇ、教えてよ」
プツプツと焼き焦げた洋服が異臭を放ち始める。
青色のカーディガンを脱ぎ捨てて、よりラフな格好になった入谷は首を左右に曲げながら、鋭い眼光で奏に眼を飛ばし、睨み付けた。
「反応なし……、か」
奏のいつにない、無表情と青緑色の瞳が本気を物語っているようにも見えた。
そして、その奏をようやく標的とみなした入谷は徐々に苛立ちが溜まり、そして金髪の髪をくいっと、上げた。
「どうやら、僕を――“ヴァイスハイト”の第九席。入谷幸平を本気で怒らせたようだね」
入谷幸平は、たった一撃くらった屈辱を怒りに変えながら、拳に暴風を纏った。




