第一話:じいちゃん、話が違う!
キャンプ場の管理人って、もっと優雅な仕事だと思っていた。朝は小鳥のさえずりで目を覚まし、淹れたてのコーヒーを片手に森を眺める。昼は木陰で読書でもしながら、訪れるお客様を笑顔でお迎えする。
そんな素敵な毎日を夢見ていた。そう、少なくとも今朝までは。
「森野さん! トイレが詰まりました!」
「……はい?」
「女子トイレの二番目です。水が流れません」
午前八時十二分。私、森野ひまり、二十四歳。キャンプ場の新米オーナーになって、まだ十二分しか経っていない。
なのに、どうして私は今、ラバーカップを握らされているのだろう。
目の前に立っているのは、ベテランスタッフの黒田健吾さん。三十二歳。勤続十年の現場責任者で、設備の修理から接客まで何でもこなす頼れる存在だ。
ただし、顔が怖い。そして、表情がまったく変わらない。
「私、今日が初出勤なんですけど」
「知ってます」
「トイレ掃除って、オーナーがやる仕事なんですか?」
「人手が足りなければ、誰でもやります」
なるほど。実に合理的な回答である。いや、そうじゃなくて!
「黒田さんがやってくれるとか……」
「僕は今から浄化槽の点検です」
「じゃあ、田中さんは?」
「キャビンの清掃中です」
「美咲ちゃんは?」
「今日は大学です」
逃げ道が一つずつ塞がれていく。
黒田さんは私の手元にあるラバーカップを指さした。
「使い方、分かります?」
「もちろんです!」
嘘である。人生で一度も使ったことがない。
でも、ここで分からないと言ったら、新米オーナーの威厳が失われてしまう。私は意を決して女子トイレへ向かった。
そして五分後。
「黒田さあああん!!」
森の中に、私の悲鳴が響き渡った。
◇
話は三日前にさかのぼる。
「ひまり。お前、本当にここを継いでくれるんじゃな?」
祖父の森野源蔵、七十六歳。私が子どもの頃から大好きだった、優しくて、ちょっと適当なじいちゃんだ。
じいちゃんは三十二年前、三重県の山奥に小さなキャンプ場を開いた。その名も『キャニオンキャンプリバー』。
清流が流れる渓谷沿いに広がるキャンプ場で、現在はテントサイト三十区画、キャビン七棟を備えている。
テントサイトには、車を横付けできるオートサイトや、川沿いの開放的なサイトなどがあり、休日には家族連れやキャンプ好きのお客様で賑わう。
私は小さい頃、夏休みになると毎日のようにここで遊んでいた。
じいちゃんはいつも管理棟の前に座り、コーヒーを飲んでいた。お客様と世間話をして、笑って、ときどき昼寝をする。
そんな姿が、私の記憶には残っている。
キャンプ場を引き継ぐ話自体は、少し前から進んでいた。会社への退職届も提出し、必要な手続きも済ませている。
それでも、いざ初出勤が近づくと不安になっていた私に、じいちゃんは改めて声をかけてくれたのだ。
「でも、私、キャンプ場の仕事なんて分からないよ?」
「大丈夫じゃ。健吾も和子さんもおる」
「経営だってしたことないし」
「まあ、なんとかなるじゃろ」
じいちゃんは、いつものように笑った。その笑顔には、不思議な説得力があった。
当時の私は、都会の会社で働く普通のOLだった。毎日満員電車に揺られ、上司に怒られ、残業して帰宅する。そんな生活に、正直うんざりしていた。
だから、じいちゃんの提案は魅力的だった。
自然に囲まれた職場。満員電車とは無縁の生活。そして何より、子どもの頃から大好きだったキャンプ場。
「キャンプ場はな、人を笑顔にする仕事じゃ」
その言葉が、私の背中を押した。
そして三日後。
私はトイレの前で途方に暮れていた。
◇
「……もう嫌だ」
午前九時。なんとかトイレの詰まりを解消した私は、管理棟の椅子に座り込んでいた。
手は何度も洗った。それでも、なんとなく気になる。
黒田さんが無言でコーヒーを差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「お疲れさまです」
「黒田さんって、毎日こんなことしてるんですか?」
「毎日じゃないですよ」
「ですよね!」
「昨日は男子トイレでした」
「頻度の問題じゃない!!」
黒田さんは何事もなかったように作業へ戻っていった。
私は温かいコーヒーを一口飲む。……おいしい。
窓の外には、春の柔らかな日差しが差し込んでいる。木々の間を風が抜け、鳥たちが楽しそうに鳴いていた。
そうそう。これよ、これ。
私が求めていたのは、こういう時間なのだ。
ようやく落ち着いた私は、椅子の背もたれに体を預けた。
その瞬間、受付の電話が鳴った。
「はい! キャニオンキャンプリバーです!」
『あの、今日予約している者なんですけど』
「はい! ありがとうございます!」
『ちょっと確認したいことがありまして』
「何でしょうか?」
『そちらって、山の中ですよね?』
「はい! 自然豊かな場所ですよ!」
『虫って出ますか?』
「……はい?」
『私、虫が苦手なんですけど。虫が出ないようにしてもらえます?』
私は窓の外を見た。蝶が飛んでいる。アリが歩いている。さっきは管理棟の壁に大きなクモがいた。
ここは山奥だ。虫がいないわけがない。
「あの……自然の中ですので、虫はどうしても……」
『えー。でも、ホームページには自然がいっぱいって書いてありますよね?』
「はい」
『だったら、ちゃんと管理してほしいんですけど』
……どういう理屈!?
自然がいっぱいだから虫がいるんでしょうが!
心の中で盛大にツッコミを入れながら、私はできるだけ丁寧に説明を続けた。
電話を切った頃には、コーヒーがすっかり冷めていた。
「……じいちゃん」
私はスマートフォンを取り出した。そして、じいちゃんにメッセージを送る。
『じいちゃん、キャンプ場って虫が出ないようにできる?』
数分後、返信が届いた。
『できたらノーベル賞じゃな』
「だよねえええ!!」
私は机に突っ伏した。
まだ午前十時にもなっていない。私の初日は、いったいどうなってしまうのだろう。
◇
午後五時。私は管理棟の前に立ち、大きく伸びをした。
「終わったあああ!」
長かった。本当に長かった。トイレ掃除に始まり、電話対応、テントサイトの点検、キャビンの清掃確認、落ち葉掃除、売店の商品補充。
途中で予約システムの操作を間違え、黒田さんに助けてもらう場面もあった。
それでも、なんとか初日を乗り切ったのだ。私は腕時計を見た。十七時ちょうど。素晴らしい。これぞ理想の田舎暮らし!
「黒田さん! お疲れさまでした!」
「お疲れさまです」
「じゃあ、私、帰りますね!」
黒田さんが、不思議そうな顔をした。
「どこにですか?」
「え? 家ですけど」
「まだお客様、宿泊されていますよ」
「……はい?」
「今日はテントが六組、キャビンが二組です。夜間の連絡先は管理人の携帯になっています」
「えっ。でも、営業時間は十七時までじゃ……」
「受付の営業時間です」
私は固まった。黒田さんは淡々と続ける。
「消灯時間は二十二時です。何かあれば対応が必要になります」
「黒田さんは?」
「今日は僕が夜間当番です。森野さんは帰って大丈夫ですよ」
……よかった。心の底から安心した。
「ただ、明日は森野さんにも夜間対応を覚えてもらいます」
「明日!?」
「オーナーですから」
その言葉が、胸に突き刺さった。
そうだった。私はアルバイトでも、ただのスタッフでもない。このキャンプ場のオーナーなのだ。
私はスマートフォンを取り出し、じいちゃんに電話をかけた。
『おお、ひまり。初日はどうじゃった?』
「じいちゃん!」
『なんじゃ?』
「キャンプ場の管理人って、こんなに大変なの!?」
『ほっほっほ。そうじゃろう』
「そうじゃろう、じゃないよ! じいちゃん、いつもコーヒー飲んでたじゃん!」
『飲んどったのう』
「昼寝もしてたじゃん!」
『気持ちよかったのう』
「私もそういう生活ができると思ってたのに!」
電話の向こうで、じいちゃんが豪快に笑った。
『ひまり』
「なに?」
『キャンプ場はな、人を笑顔にする仕事じゃ』
「それ、前にも聞いた!」
『ただし――』
じいちゃんは、少しだけ真面目な声になった。
『その笑顔の裏には、誰かの苦労があるんじゃよ』
私は言葉を失った。
管理棟の向こうでは、宿泊中の家族が楽しそうに夕食の準備をしていた。小さな女の子が、父親に何かを話して笑っている。
その光景を見て、私は少しだけ納得した。
「……そっか」
『まあ、なんとかなるじゃろ』
「最後の一言で台無しだよ!」
電話を切った私は、夕日に染まるキャンプ場を眺めた。
大変だった。疲れた。もう辞めたいと、三回くらい思った。
それでも――。
「……明日も、頑張ってみようかな」
私は小さく笑った。
そのときだった。管理棟の中から、黒田さんの声が聞こえた。
「森野さん!」
「はーい!」
「明日の予約、確認しました?」
「え?」
「キャビン七棟とテントサイト三十区画、全部埋まってます」
……え?
私は慌てて管理棟へ駆け戻った。
予約画面には、ずらりと並んだ宿泊者の名前。
満室。文字どおり、満室だった。
「く、黒田さん……」
「はい」
「明日って、何か特別な日でしたっけ?」
「土曜日です」
「……ですよね」
「ちなみに、明日は僕、休みです」
「…………は?」
黒田さんは、いつもの無表情で言った。
「よろしくお願いします、オーナー」
「じいちゃあああああん!!」
私の悲鳴が、夕暮れの森に響き渡った。
キャンプ場の管理人は、今日も帰れない。
……いや、今日は帰れるけど!
明日が怖すぎて、帰りたくない!!




