夫の説教をAIで文字起こししたら、立派な議事録ができました
第147回・朝食時夫説教。火曜日、午前七時十二分から七時四十一分まで。出席者は夫の健吾と、妻の美咲。議題は味噌汁の温度、及び社会の厳しさについて。
決定事項、なし。
健吾は言った。社会は厳しい、と。
美咲は味噌汁を温め直しながら、スマホの文字起こしをオンにした。仕事ではない。長い話を聞くとき、記録を取っていると少しだけ息ができる。
発端はわかめと油揚げの味噌汁だった。美咲が食卓に置いた椀を一口すすり、健吾が箸を止めた。
「これ、ちょっとぬるくないか」
「あ、ごめん。温め直す」
それで終わる話だった。ところが健吾は椀を持ったまま、テレビの天気予報を見るような顔で言った。
「いや、温度そのものが問題なんじゃないんだよ。こういう小さいところに気が回らないと、仕事でも詰める場面で詰められないんだ。俺の取引先の部長なんて、会議室に入った瞬間にコーヒーの温度で担当者の準備が分かるって言ってたからな」
美咲は椀を電子レンジに入れた。六百ワット、一分。
「社会ってのは厳しいんだよ、美咲。若い頃は俺も甘かった。寮の味噌汁なんて、もっと熱かったし」
レンジが回る音と、健吾の声が重なる。スマホは醤油差しの横に伏せて置いた。画面の中では文字が増えていく。
――温度そのものが問題なんじゃないんだよ、こういう小さいところに――
誤字は多い。「詰める場面」が「梅る場面」になっていた。梅は関係ない。それでも話の流れは追えた。
健吾の話は味噌汁から健康管理に移り、営業の基本を経由し、「最近の若いやつ」に着地した。最近の若いやつとは、健吾より十一歳下の後輩、田村くんのことだ。先週、会議資料のページ番号を間違えたらしい。
「……で、要するにだな」
来た、と美咲は思った。
健吾の「要するに」は、話が短くなる合図ではない。むしろ、ここからが本番だった。
「要するに、家庭も仕事も一緒なんだよ。基本ができていないと、応用は利かない。味噌汁でも、出す側の意識が――」
レンジが鳴った。美咲は椀を取り出す。今度は湯気が立っている。
「熱いよ。気をつけて」
「おう」
健吾は一口すすり、満足そうに頷いた。
「うん、これだよこれ。やればできるじゃないか」
説教はそこで終わった。時計は七時四十一分。味噌汁を温め直すのに、本当は一分で済んだはずだった。
*
出勤の電車で、美咲は文字起こしを開いた。発言時間二十九分、文字数六千八百九十三字。アプリのAI要約はこう出ていた。
【要点】味噌汁は熱い方がいい。【根拠】社会は厳しい。新入社員寮の味噌汁は熱かった。取引先の部長はコーヒーの温度を見る。【結論】なし。【次回への申し送り】次回も同じ話題が出る可能性があります。
美咲は吹き出しそうになり、慌ててマスクに手を当てた。満員電車である。隣の人が見たら、ただの不審者だ。
要約は辛辣だった。そして、的確だった。
フォルダ名はつい癖で付けた。「議事録_家庭」。そこへ第147回を収める。
記録を始めたのは今年の春だ。きっかけは、健吾に「俺、そんなこと言ってない」と言われたことだった。言っていた。美咲が否定しても、健吾は自分の記憶を疑わない。
次に同じことがあったときのために、会話を録音していいか聞いた。健吾は「好きにすれば」と答えた。どうせそんなに残らない、と笑っていた。
美咲も最初は、数回でやめるつもりだった。
笑って流した言葉が、夜になって頭の中で繰り返される。そんな日がある。録音は証拠のためではない、と思いたかった。たぶん半分は、証拠だった。
その夜、フォルダの一覧を開いた。
第139回・ペットボトルのラベルは剥がすべきか否か。
第141回・電気をこまめに消すことについて、から派生した光熱費論。
第144回・実家への電話は日曜の午前中が最適である理由。
第146回・冷蔵庫のプリンを誰が食べたか。未解決。
番号は春からのメモも含めて通しで付けている。記録を取る前の回も、美咲の頭には残っていた。
並べてみると立派な議事録だった。出席者はいつも二人で、発言者はいつも一人で、決定事項はたいてい、なかった。
*
美咲は健吾と同じ会社の総務部に勤めていた。健吾は営業部で、田村くんはその後輩だ。
入社して九年。地味で、書類が多く、会議が長い会社だった。隣の席には常温のお茶を三本並べる同僚がいて、向かいには蛍光ペンを色別に揃えないと仕事を始められない課長代理がいる。
その中で、美咲は議事録を取るのが一番速かった。
水曜日の営業部との定例会議は四十分。新商品の納期がずれる話で、同じ懸念が三回出て、二回戻った。それでも終われば十五分で議事録を仕上げられる。A4で一枚だ。
【議題】納期変更に伴う対応。【決定事項】出荷を二日遅らせる。取引先への連絡は営業部の田村が本日中に行う。【宿題】代替案の見積もりを金曜日までに総務へ提出。
上田課長が、印刷した紙を持って美咲の席まで来た。
「佐伯さんの議事録、読めば会議に出なくて済むんだよな」
「出てください」
「出るけどさ。ほんと助かるよ。何が決まったか、一発で分かる」
課長は笑って戻っていった。
何が決まったか、一発で分かる。それが会議の目的なのだから、当然だ。
その夜、家でも「会議」が始まった。
【第148回・ゴミ出し前夜説教】水曜日、午後九時三分から九時二十七分。議題はペットボトルのラベルと分別のあり方。決定事項、なし。
「明日ゴミの日だろ。ペットボトル、ラベルは剥がした方がいいと思うんだよ、俺は」
美咲はシンクの下でペットボトルを潰していた。
「先週は、剥がすのは時間の無駄って言ってなかった?」
「言ったよ。でもな、考えてみろ。回収する人の立場だ。ラベルが付いたままのやつと、剥がしてあるやつ、どっちが気持ちいいか。仕事ってのは相手の立場で考えることなんだよ。俺の取引先の――」
出た。取引先だ。
美咲はスマホで録音を始めた。健吾は気づいても気にしない。少なくとも、これまではそうだった。
話はラベルから回収業者の苦労に移り、自治体のルール、若い頃に住んでいたアパートのゴミ置き場のカラスへと渡った。カラスは賢い。賢い相手には隙を見せるな。だから蓋は閉めろ。
ラベルの話は、もうどこにもなかった。
二十四分後。
「……で、要するにだな。分別は人としての基本だ」
「今日の結論は、ラベルを剥がす、でいい?」
「いや、それはケースバイケースだな」
決定事項は、また、なかった。
寝る前、美咲は第139回の記録を開いた。
【第139回・発言要旨】ラベルを剥がすのは時間の無駄。剥がす暇があるなら他の家事をするべき。
第148回の末尾に脚注を付ける。
【注記】第139回における発言と相違あり。本人に確認したところ「ケースバイケース」との回答。
書いてから自分で笑った。仕事より丁寧かもしれない。会社なら、どちらが本日の方針か会議中に確認できる。家では、確認した瞬間に次の話が始まる。
*
金曜日の夜には、第150回が開かれた。
【第150回・電気代に関する説教】午後十時十八分から十時四十四分。議題はリビングの電気の消し忘れ。決定事項、なし。なお、電気は会議中には消されなかった。
「こういう無駄が、積み重なるんだよ」
「ごめん、私が消し忘れた」
謝ったのに話は終わらなかった。電気代から日本のエネルギー事情へ。そこから、健吾が祖父に言われた「電気は水じゃないんだぞ」という言葉を経て、祖父の思い出話へと進む。
祖父は厳しかったけれど、笑うと目が細くなった。いい話だった。電気代とは関係がなかった。
二十六分後、美咲は言った。
「ねえ、その間、ずっと電気ついてたよ」
健吾が振り返る。テレビも照明も、つけっぱなしだった。話しているうちに、二人とも消すのを忘れていた。
「……まあ、こういうこともある」
AI要約は短かった。
【要点】電気は消すべきである。【実績】会議中、消えなかった。
美咲はその一文を備考欄に貼った。笑いながら貼ったのに、保存ボタンの上で指が止まる。
言っていることと、やっていることが違う。その小さな食い違いは、第141回にも第149回にもあった。
健吾は嘘をついているつもりではないらしい。ただ、話し始めると、自分が何を解決したかったか忘れてしまう。
週末、美咲は集計表を作り始めた。総務の人間は、表を作り始めると止まらなくなる。
記録を取り始めて五か月。第150回まで。
発言者・健吾の一回当たりの平均発言時間は約二十七分。「社会は厳しい」は三十一回。「要するに」を言ったあと、結論までたどり着かなかった回が四十四回。決定事項があった回は五回、うち四回は美咲の買い物メモだった。
家事の話で「ついでに」が出た回数、五十八回。
その内訳も、ついでに作った。
ついでに風呂を洗う。ついでに買い物へ行く。ついでに実家へ電話する。
その「ついで」の主語は、いつも美咲だった。健吾にとって家事は誰かが合間にやることで、説教だけが本題らしい。
表を閉じるとき、数字の横に感情の印は付けなかった。ファイル名は「集計_途中」。
まだ何も決めていないのだから、途中が正確だった。
*
その後の二週間でも、記録は増え続けた。第151回は食器の重ね方。第156回は洗濯物の干す順番。第163回では、健吾が頼んだ買い物の品名を自分で忘れた。
金曜日の夜には、第165回まで達していた。土曜日、美咲は健吾とスーパーへ出かけた。
「今月な、食費が先月より八千円多いんだよ。こういうのは塵も積もれば、だからな」
健吾が入口のチラシを見ながら言う。美咲は値引きシールの付いたほうれん草をカゴへ入れた。
「お惣菜が増えたからね。先週、二人とも残業続きで」
「いや、残業は理由にならないんだ。厳しい言い方だけど、社会は――」
「社会は厳しい。うん」
健吾は少し不満そうだった。得意な台詞を先に言われたからだろう。
買い物は普通に進んだ。健吾は節約を唱えながら地ビールを二本カゴに入れた。美咲は何も言わない。ここで反論すれば、一つ説教が増えそうだった。
デザートコーナーで、健吾が足を止めた。少し高いプリンを一つ手に取る。カラメルが二層になった、一個百九十八円のやつだ。
「これは、まあ、俺への投資だな」
「投資」
「うん。明日食べる」
健吾はプリンをカゴの端へ大事そうに置いた。
その夜、美咲が風呂上がりに冷蔵庫を開けると、プリンの消費期限が今日だと気づいた。
健吾はリビングで野球中継を見ている。明日食べると言っていた。でも今日までだ。呼んで確かめればいい。美咲にも、それは分かっていた。
少し迷った。結局、食べた。
美味しい。カラメルがほろ苦い。勝手に食べた後ろめたさも、少しある。
翌日、日曜日の夜。
「あれ?」
冷蔵庫の前で、健吾の声がした。
「プリン、ないんだけど」
「あ、それ。期限が昨日までだったから、私が食べた」
沈黙が三秒あった。短い三秒だったが、美咲はスマホの録音ボタンを押す時間があった。
【第166回・プリン行方不明事件】日曜日、午後八時五分から九時七分。出席者:健吾(購入者)、美咲(食べた人)。議題はプリン一個の行方と、そこから派生した約束、整理整頓、社会、教育論について。決定事項、後述。
「違うんだよ、美咲。問題はプリンじゃないんだ」
お馴染みの始まりだった。問題は、いつも本題ではないらしい。
「約束の問題なんだ。明日食べるって言ったものが、翌日ない。これが仕事だったらどうする。信用の問題だぞ。俺の若い頃なんて、上司のプリン――じゃない、書類を勝手に動かしただけで、どれだけ怒られたか」
「それはごめん。先に聞けばよかった。明日、新しいのを買ってくる」
「いや、買えば済むって話じゃないんだよ。整理整頓ができていない人間は、仕事の段取りも悪いんだ。たとえば釣りだって――」
美咲は食器を洗いながら頷いた。プリンを食べたのは自分が悪い。約束を軽く扱われたと感じたなら、健吾が怒るのも分かる。
ただ、五分の謝罪で済ませられた話が、今夜も長い。
釣りでは準備が八割だと健吾は言った。釣りをしたことはない。動画で見ただけだ。準備の話は教育論になり、二人の間にはいない子どものしつけについて、熱く語り始めた。
五十八分が経ったところで、美咲は手を拭いた。
「じゃあ明日、プリンを二個買おう。一つずつ」
健吾は話を止めた。
「……まあ、それはそれでいいけど」
「期限も確認する。買った日に食べるか、お互いに聞いてからにする」
「うん」
「決定?」
「決定だ」
説教は六十二分で終わった。最長記録である。
その夜、美咲は文字起こしを眺めた。発言文字数、一万二千四百八字。短編小説が一本書けそうな分量で、発端はプリン一個だった。
【AI要約】要点:妻が夫のプリン(一個198円)を食べた。妻は謝罪し、代わりを買うと申し出た。【決定事項】次回は二個購入する(一人一個)。双方が同意。【補足】決定に至ったのは会議開始から58分後。
美咲は笑いながら最後の一文をコピーした。
自分が食べなければ、起きなかった騒動だ。それでも六十二分は長い。謝罪を受け取ったあと、相手に考えを伝えるために、こんなに時間が必要なのだろうか。
表に新しい項目を作った。「結論までの所要時間」。第166回は五十八分。第147回は結論なし。第153回も、なし。右側の列が「なし」で埋まる。
十月の終わり、フォルダの回数が第182回に達した。
集計表の数字は次のとおりだった。
総発言時間、八十四時間三十六分。決定事項のあった回数、百八十二回中九回。「社会は厳しい」は三十八回。「俺の若い頃は」は二十六回。同じ話の繰り返しは十七件。家事を妻が「ついでに」やる前提だった回数、七十一回。
八十四時間。二時間の映画なら四十二本分。旅行なら温泉に三回は行ける。
美咲は椅子に座って計算し直した。会議の時間は、どこへ消えたのだろう。
その間に終わったはずの家事、できたはずの休憩、読めたはずの本。数えていなかった時間が、数字になっている。
台所でやかんが鳴った。健吾はソファで野球ニュースを見ている。
健吾が悪人だとは思わない。笑うときはよく笑うし、美咲が熱を出したときには薬を買ってくれた。ただ、彼は自分の話が、相手の時間をどれだけ使っているか知らない。
それなら、見せればいいんじゃないか。
思いついたとき、顔に出たらしい。健吾がスマホから目を上げた。
「なんかいいことでもあった?」
「うん。会議をしようと思って」
「会議?」
「家庭会議。正式なやつ」
健吾は笑った。
「堅いなあ。うちは会社じゃないんだから」
「だから、一回だけ。資料も配るから」
「資料まであんの?」
「あるよ。たっぷり」
美咲は笑って答えた。ただし、いつも話を流すときの笑い方とは、少し違っていた。
*
日曜日の朝、健吾のスマホに、美咲から長文のメッセージが届いた。
【件名】第1回家庭会議・開催のお知らせ。【日時】本日十九時。【場所】リビング。【出席者】健吾、美咲(議長・記録)。【議題】一、これまでの話し合いについて。二、家事分担。三、その他。【配布資料】全体から抜粋した四十二ページ。【備考】夕食はカレー。会議は食後。
「議長ってなんだよ、議長って」
「私」
「資料四十二ページって、本気か?」
「抜粋で四十二ページ。全文じゃないよ」
「全文だと何ページになるんだよ」
「数えたくないから抜粋にした」
健吾はしばらく黙り、テーブルに置かれた青いクリアファイルを見た。開けようとはしない。
夕食のカレーを食べながらも、一度だけ聞いてきた。
「で、その会議って、俺が何かやらかした系?」
「やらかした、というより、集計が出た系」
「集計」
「うん。数字を見て、これからのことを決めたい」
「なんだよそれ。怖いな」
健吾は笑ったが、おかわりはしなかった。
十九時。食器を片付け、二人は食卓に向かい合って座った。美咲の前にはノートパソコンとキッチンタイマー。健吾の前には例のファイル。
「それでは、第1回家庭会議を始めます。まず資料の一ページ目から」
「はいはい」
健吾がファイルを開く。
【資料1・第147回朝食時会議】発言者A、発言時間二十九分。議題は味噌汁の温度。社会の厳しさに言及三回。結論、なし。
健吾が顔を上げた。
「なんだこれ。朝の話じゃん。いや、Aって誰だよ、この面倒な発言者」
来た、と美咲は思った。でも表情は変えない。五か月の訓練が役に立っている。
「先も読んでみて」
二枚目はペットボトルのラベル。三枚目は電気代。四枚目はプリンだった。『発言時間六十二分』を見て、健吾が声を漏らす。
「六十二分も喋ってるの、この人」
「うん」
「しかも結論、妻の提案じゃん」
「うん」
「……Aって」
「うん」
健吾はファイルを閉じた。少しして、また開いた。一ページ目の味噌汁の欄を指でなぞる。
「俺、こんなに喋ってたのか」
「喋ってた」
「毎朝?」
「朝も夜も。多い日は二回」
美咲はパソコンの画面を見せた。総発言時間、八十四時間三十六分。決定事項が出た回は九回。「社会は厳しい」三十八回。「ついでに」が妻の仕事を指した回、七十一回。
発言時間の棒グラフは健吾の分がずっと長い。円グラフでは健吾が九十八パーセント、美咲が二パーセント。美咲の二パーセントは「うん」と「ごめん」と「ちょっと待って」がほとんどだった。
「この円、ほぼ俺じゃん」
「そうだね」
「それにしても、よく作ったな。印刷代かかったろ」
「家計から出したわ。会議の資料だから」
健吾は何か言いかけ、口を閉じた。もう一度グラフを見る。
「……ずっと録ってたんだな。録音していいとは言ったけど、こんなに溜まってるとは思わなかった」
「私も、こんなに増えると思わなかった。黙って集計して見せたのは、嫌だったと思う。ごめん」
「いや、驚いた。なんか、俺だけ知らないテストを受けてたみたいだ」
健吾の声は、いつもの説教のときより小さかった。
「今日はテストにしたくない。二人で決める場所にしたい」
「でも、これって俺を責めるための資料だろ」
「責めたい気持ちがなかったと言ったら嘘になる。ただ、私が一番困ってたのは、話が長いことだけじゃないの」
美咲は資料を一枚抜き、食卓へ置いた。第148回の記録だ。ゴミ袋を誰がまとめるか、最後まで決まらなかった回。
「あなたは長く話して、最後に『美咲がついでにやって』と言う。私はその間、食器も片付けられないし、休むこともできない。終わったあとに残った家事をするのも私なの」
健吾は紙から目を離さなかった。
「話した時間を全部、返してほしいって言ってるわけじゃない。でも、これからも同じなのか、今日は決めたい」
「……そんなふうに感じてたのか」
「何度か言ったよ。『話が長い』『私も疲れてる』って」
健吾は資料をめくり直した。欄外に、小さな文字が何度も出てくる。『妻、夕食の準備中』『妻、出勤前』『妻、会話を切り上げたいと発言』。
「聞いてたつもりだった」
「うん。でも、終わらなかった」
時計の針が進む音がした。美咲はタイマーに手を伸ばさず待った。ここで急かせば、また相手が話す前に終わってしまう。
「俺の会議だったら、上田さんに怒られるやつだな」と健吾が言った。
「そうかもね」
「話は長い。結論はない。作業は相手に押し付けてる。……家だと、分からなくなってた」
彼は四十二ページの資料を揃えて、テーブルの真ん中に置いた。
「悪かった。最初に謝る。これからどう変えるか、一緒に考えたい」
美咲は白紙の議事録を開いた。会議名の欄には『第1回家庭会議』とだけある。決定事項の欄は空白だ。
「じゃあ、決めようか」
「うん」
「一つ目。長い話のルール」
「要点を先に言う。努力する」
「努力は議事録に書けないよ。あとで確かめられる形にしよう」
「そうか。じゃあ、話は原則五分。超えそうになったら、タイマーを鳴らしていい」
「私の話が長いときも鳴らしていいよ」
「お前の話が五分続いたの、最近聞いてないけどな」
美咲は思わず笑った。
「それも問題ね」
「……そうだな」
キーボードを打つ。
【決定事項1】お互い要点を先に話す。長い話は原則五分。超過時は相手がタイマーで知らせてよい。話の途中でも、今聞けるか確認する。
「二つ目。家事」
「ゴミ出しは俺がやる。火曜と金曜」
「ゴミ出しって、どこから?」
「え。集積所まで持っていく」
「袋をまとめるところから。各部屋のゴミ箱も確認してほしい」
「細かいな」
「第148回参照」
「分かった。全部やる。風呂掃除は土曜日、俺」
「洗濯は交代制。日曜日の夕食は?」
「俺が作る。何を作るかも考える」
「味噌汁の温度は?」
「自分で確かめる。ぬるかったら自分で温める」
「採用」
【決定事項2】ゴミ出しは火曜・金曜、健吾が袋をまとめるところから担当。風呂掃除は土曜、健吾。洗濯は交代制。日曜の夕食は献立から健吾が担当。味噌汁の温度は本人が確認する。
美咲は画面を保存し、三つ目の議題を開いた。
「この録音のこと。今までの記録は外に出さない。必要な議事録の控えだけ残して、録音データは消そうと思う。これからは、毎日の説教は録らない」
「いいのか? 俺がまた『そんなこと言ってない』って言ったら」
「そのときは言ってほしい。今日決めたことを、二人で確かめればいい」
「俺も、そう言わないようにする。覚えてないなら、覚えてないって言う」
美咲は一瞬、画面から顔を上げた。その言い方を初めて聞いた。
「家事は来月の会議で確認して、決め直してもいい?」
「もちろん。上手くいかなかったところも、責めるんじゃなくて相談しよう」
【決定事項3】家庭会議は月一回、日曜十九時。日常の録音は終了し、過去の録音は整理して削除する。今後は家庭会議だけ議事録を残し、家事分担は次回見直す。
美咲が読み上げると、健吾は「賛成」と言った。
「私も賛成。賛成二、反対ゼロ。可決」
二人で小さく拍手した。会議時間は三十八分。健吾の説教の最長記録より二十四分短い。
健吾はファイルをもう一度開いた。
「なあ、この第166回のプリンの件だけど」
「……また六十二分話す?」
「違う。美咲が謝ってたのに、俺が話を続けてた。そこも悪かった」
「ううん。勝手に食べたのは私が悪い。今度は聞くね」
「俺も、食べたかったらそう言う。明日食べるとか、曖昧にしない」
健吾がテーブルのタイマーを手に取った。
「これ、もう鳴らしてもいい?」
「何に使うの?」
「話してるうちに、また長くなりそうだから」
美咲は笑って、タイマーを五分に合わせた。
*
家庭会議から三週間が過ぎた。
最初の三日でタイマーは二回鳴った。一回目は田村くんの資料のページ番号の話が五分を超えたとき。二回目は、風呂掃除のあとに「掃除というのはな、心の――」が始まったときだった。
「はい、結論。風呂は洗った。以上」
健吾はそう言って、照れくさそうに笑った。
タイマーが鳴るのを待たず、自分で「続きはまた今度」と切り上げる日も増えた。美咲も、聞けないときは「あとでいい?」と答えるようになった。以前なら、その一言で説教が長くなっただろう。
ゴミ出しは初回でつまずく。健吾は袋の結び方を聞きに来て、美咲が手本を見せると自分でやり直した。二回目からは聞かずに済んだ。
日曜日の夕食も、最初がカレー。二回目もカレー。
「来週は違うものにするから」
三回目に健吾が作ったのは親子丼だった。少し塩辛い。美咲は水を一口飲んでから口を開く。
「次は醤油を少なめにすると、もっといいかも」
「分かった。メモしておく」
健吾は台所のメモ帳に『親子丼、醤油は少なめ』と書いて貼る。
褒められたいから料理をするのではない、という話はまだしていない。でも、日曜の夕食のあと、美咲が洗い物を一人で抱えなくていいよう、健吾も皿を運ぶようになった。
美咲は長らく途中で止まっていた文庫本を、ようやく読み終えた。読んでいる途中、何度か健吾に話しかけられたが、「この章の終わりまで待って」と言うと、今度は待ってくれた。
月曜日、出社した美咲を上田課長が呼び止めた。
「佐伯さん、先週の議事録なんだけどさ。あ、そういえば旦那さん、元気?」
「はい?」
「この前チラッと見えたフォルダ、『議事録_家庭』って書いてあったから。夫婦で議事録取るなんて、仲いいなと思って」
美咲は一瞬考えた。中身を見られたわけではない。それでも、仕事のパソコンで家庭のファイルを開くのは、もうやめよう。
「おかげさまで、先月初めて決定事項ができました」
「おお。それはめでたい」
上田は何も知らない顔で席へ戻った。めでたい、という言葉が妙に正確だった。
水曜日の夜。帰宅した健吾が玄関で靴を脱ぎながら言った。
「結論から言うと、今日、上田課長に褒められた」
「え、何を?」
「営業の報告。俺の説明が短くて、決まったことも多かったって。最近、要点が先に来るようになったって言われた」
時計を見ると、まだ一分も経っていない。
「……以上」
健吾は照れたように頭をかいた。
「家で鍛えられたって言ったら、変に思われそうだから、言ってない」
「言わなくていいよ、そんなこと」
「でも、あの資料のおかげではある」
美咲は笑った。曖昧に相づちを打つための笑顔ではなかった。
その週の日曜日、十九時。第2回家庭会議が開かれた。
議題は三つ。来月の帰省の日程、冷蔵庫の買い替え時期、それからプリンを二個買う件。
プリンの件は全会一致で即決した。一個ずつ。名前を書く。買った日に期限を確認し、相手の分には勝手に手を出さない。議論は二分で終わった。
帰省の日程も決まった。冷蔵庫は型と価格を比較するため、二人で家電店へ行く日を決め、購入そのものは次回まで保留にした。
「これ、決定事項は『買わない』になるの?」と健吾が聞いた。
「『見積もりを取る』が決定。買うかどうかは来月ね」
「なるほど。保留にも仕事があるんだな」
会議は十二分で終わった。最短記録だった。
「なあ、議事録って、決まったことが書いてあると読んでて気持ちいいな」
「そうでしょう」
「前のやつは読んでて疲れたもんな」
「八十四時間分だからね」
二人で笑った。
健吾は冷蔵庫を開け、自分のプリンを一つ取り出した。隣には美咲の分がある。蓋にそれぞれ名前が書いてあった。カラメルが二層の、あのプリンだ。
「美咲の、明日までだけど」
「本当? じゃあ今夜食べる」
「俺も食べよ。皿、取ってくる」
健吾が台所へ行っている間に、美咲は第2回家庭会議の議事録を保存した。
【会議名】第2回家庭会議。【日時】日曜日、午後七時から七時十二分。【出席者】健吾、美咲。【決定事項】帰省は来月第二週の土日。プリンは一人一個、記名し、期限を確認。冷蔵庫は見積もりを取得して次回決定。【申し送り】発言者・健吾、要点を先に述べた。次回議題:年末の旅行先と、お土産の予算。
最後の行に、少しだけ付け足した。
【備考】会議終了後、プリンを二人で食べる予定。
保存した議事録は、A4で一枚。下の方には、まだ余白があった。




