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夫の説教をAIで文字起こししたら、立派な議事録ができました

作者: MIYA
掲載日:2026/10/30

第147回・朝食時夫説教。火曜日、午前七時十二分から七時四十一分まで。出席者は夫の健吾(けんご)と、妻の美咲。議題は味噌汁(みそしる)の温度、及び社会の厳しさについて。


 決定事項、なし。


 健吾(けんご)は言った。社会は厳しい、と。


 美咲は味噌汁(みそしる)を温め直しながら、スマホの文字起こしをオンにした。仕事ではない。長い話を聞くとき、記録を取っていると少しだけ息ができる。


 発端はわかめと油揚げの味噌汁(みそしる)だった。美咲が食卓に置いた椀(わん)を一口すすり、健吾(けんご)が箸(はし)を止めた。


「これ、ちょっとぬるくないか」


「あ、ごめん。温め直す」


 それで終わる話だった。ところが健吾(けんご)は椀(わん)を持ったまま、テレビの天気予報を見るような顔で言った。


「いや、温度そのものが問題なんじゃないんだよ。こういう小さいところに気が回らないと、仕事でも詰める場面で詰められないんだ。俺の取引先の部長なんて、会議室に入った瞬間にコーヒーの温度で担当者の準備が分かるって言ってたからな」


 美咲は椀(わん)を電子レンジに入れた。六百ワット、一分。


「社会ってのは厳しいんだよ、美咲。若い頃は俺も甘かった。寮(りょう)の味噌汁(みそしる)なんて、もっと熱かったし」


 レンジが回る音と、健吾(けんご)の声が重なる。スマホは醤油差(しょうゆさ)しの横に伏(ふ)せて置いた。画面の中では文字が増えていく。


 ――温度そのものが問題なんじゃないんだよ、こういう小さいところに――


 誤字は多い。「詰める場面」が「梅る場面」になっていた。梅は関係ない。それでも話の流れは追えた。


 健吾(けんご)の話は味噌汁(みそしる)から健康管理に移り、営業の基本を経由し、「最近の若いやつ」に着地した。最近の若いやつとは、健吾(けんご)より十一歳下の後輩、田村くんのことだ。先週、会議資料のページ番号を間違えたらしい。


「……で、要するにだな」


 来た、と美咲は思った。


 健吾(けんご)の「要するに」は、話が短くなる合図ではない。むしろ、ここからが本番だった。


「要するに、家庭も仕事も一緒なんだよ。基本ができていないと、応用は利かない。味噌汁(みそしる)でも、出す側の意識が――」


 レンジが鳴った。美咲は椀(わん)を取り出す。今度は湯気が立っている。


「熱いよ。気をつけて」


「おう」


 健吾(けんご)は一口すすり、満足そうに頷(うなず)いた。


「うん、これだよこれ。やればできるじゃないか」


 説教はそこで終わった。時計は七時四十一分。味噌汁(みそしる)を温め直すのに、本当は一分で済んだはずだった。


*


 出勤の電車で、美咲は文字起こしを開いた。発言時間二十九分、文字数六千八百九十三字。アプリのAI要約はこう出ていた。


 【要点】味噌汁(みそしる)は熱い方がいい。【根拠】社会は厳しい。新入社員寮《しんにゅうしゃいんりょう》の味噌汁(みそしる)は熱かった。取引先の部長はコーヒーの温度を見る。【結論】なし。【次回への申し送り】次回も同じ話題が出る可能性があります。


 美咲は吹き出しそうになり、慌(あわ)ててマスクに手を当てた。満員電車である。隣の人が見たら、ただの不審者だ。


 要約は辛辣(しんらつ)だった。そして、的確だった。


 フォルダ名はつい癖(くせ)で付けた。「議事録_家庭」。そこへ第147回を収める。


 記録を始めたのは今年の春だ。きっかけは、健吾(けんご)に「俺、そんなこと言ってない」と言われたことだった。言っていた。美咲が否定しても、健吾(けんご)は自分の記憶を疑わない。


 次に同じことがあったときのために、会話を録音していいか聞いた。健吾(けんご)は「好きにすれば」と答えた。どうせそんなに残らない、と笑っていた。


 美咲も最初は、数回でやめるつもりだった。


 笑って流した言葉が、夜になって頭の中で繰り返される。そんな日がある。録音は証拠のためではない、と思いたかった。たぶん半分は、証拠だった。


 その夜、フォルダの一覧を開いた。


 第139回・ペットボトルのラベルは剥(は)がすべきか否か。


 第141回・電気をこまめに消すことについて、から派生した光熱費論。


 第144回・実家への電話は日曜の午前中が最適である理由。


 第146回・冷蔵庫のプリンを誰が食べたか。未解決。


 番号は春からのメモも含めて通しで付けている。記録を取る前の回も、美咲の頭には残っていた。


 並べてみると立派な議事録だった。出席者はいつも二人で、発言者はいつも一人で、決定事項はたいてい、なかった。


*


 美咲は健吾(けんご)と同じ会社の総務部に勤めていた。健吾(けんご)は営業部で、田村くんはその後輩だ。


 入社して九年。地味で、書類が多く、会議が長い会社だった。隣の席には常温のお茶を三本並べる同僚がいて、向かいには蛍光ペン(けいこうぺん)を色別に揃(そろ)えないと仕事を始められない課長代理がいる。


 その中で、美咲は議事録を取るのが一番速かった。


 水曜日の営業部との定例会議は四十分。新商品の納期がずれる話で、同じ懸念が三回出て、二回戻った。それでも終われば十五分で議事録を仕上げられる。A4で一枚だ。


 【議題】納期変更に伴う対応。【決定事項】出荷を二日遅らせる。取引先への連絡は営業部の田村が本日中に行う。【宿題】代替案の見積もりを金曜日までに総務へ提出。


 上田課長が、印刷した紙を持って美咲の席まで来た。


「佐伯(さえき)さんの議事録、読めば会議に出なくて済むんだよな」


「出てください」


「出るけどさ。ほんと助かるよ。何が決まったか、一発で分かる」


 課長は笑って戻っていった。


 何が決まったか、一発で分かる。それが会議の目的なのだから、当然だ。


 その夜、家でも「会議」が始まった。


 【第148回・ゴミ出し前夜説教】水曜日、午後九時三分から九時二十七分。議題はペットボトルのラベルと分別のあり方。決定事項、なし。


「明日ゴミの日だろ。ペットボトル、ラベルは剥(は)がした方がいいと思うんだよ、俺は」


 美咲はシンクの下でペットボトルを潰(つぶ)していた。


「先週は、剥(は)がすのは時間の無駄って言ってなかった?」


「言ったよ。でもな、考えてみろ。回収する人の立場だ。ラベルが付いたままのやつと、剥(は)がしてあるやつ、どっちが気持ちいいか。仕事ってのは相手の立場で考えることなんだよ。俺の取引先の――」


 出た。取引先だ。


 美咲はスマホで録音を始めた。健吾(けんご)は気づいても気にしない。少なくとも、これまではそうだった。


 話はラベルから回収業者の苦労に移り、自治体のルール、若い頃に住んでいたアパートのゴミ置き場のカラスへと渡った。カラスは賢い。賢い相手には隙(すき)を見せるな。だから蓋(ふた)は閉めろ。


 ラベルの話は、もうどこにもなかった。


 二十四分後。


「……で、要するにだな。分別は人としての基本だ」


「今日の結論は、ラベルを剥(は)がす、でいい?」


「いや、それはケースバイケースだな」


 決定事項は、また、なかった。


 寝る前、美咲は第139回の記録を開いた。


 【第139回・発言要旨】ラベルを剥(は)がすのは時間の無駄。剥(は)がす暇があるなら他の家事をするべき。


 第148回の末尾に脚注を付ける。


 【注記】第139回における発言と相違あり。本人に確認したところ「ケースバイケース」との回答。


 書いてから自分で笑った。仕事より丁寧(ていねい)かもしれない。会社なら、どちらが本日の方針か会議中に確認できる。家では、確認した瞬間に次の話が始まる。


*


 金曜日の夜には、第150回が開かれた。


 【第150回・電気代に関する説教】午後十時十八分から十時四十四分。議題はリビングの電気の消し忘れ。決定事項、なし。なお、電気は会議中には消されなかった。


「こういう無駄が、積み重なるんだよ」


「ごめん、私が消し忘れた」


 謝ったのに話は終わらなかった。電気代から日本のエネルギー事情へ。そこから、健吾(けんご)が祖父に言われた「電気は水じゃないんだぞ」という言葉を経て、祖父の思い出話へと進む。


 祖父は厳しかったけれど、笑うと目が細くなった。いい話だった。電気代とは関係がなかった。


 二十六分後、美咲は言った。


「ねえ、その間、ずっと電気ついてたよ」


 健吾(けんご)が振り返る。テレビも照明も、つけっぱなしだった。話しているうちに、二人とも消すのを忘れていた。


「……まあ、こういうこともある」


 AI要約は短かった。


 【要点】電気は消すべきである。【実績】会議中、消えなかった。


 美咲はその一文を備考欄(びこうらん)に貼(は)った。笑いながら貼(は)ったのに、保存ボタンの上で指が止まる。


 言っていることと、やっていることが違う。その小さな食い違いは、第141回にも第149回にもあった。


 健吾(けんご)は嘘(うそ)をついているつもりではないらしい。ただ、話し始めると、自分が何を解決したかったか忘れてしまう。


 週末、美咲は集計表を作り始めた。総務の人間は、表を作り始めると止まらなくなる。


 記録を取り始めて五か月。第150回まで。


 発言者・健吾(けんご)の一回当たりの平均発言時間は約二十七分。「社会は厳しい」は三十一回。「要するに」を言ったあと、結論までたどり着かなかった回が四十四回。決定事項があった回は五回、うち四回は美咲の買い物メモだった。


 家事の話で「ついでに」が出た回数、五十八回。


 その内訳も、ついでに作った。


 ついでに風呂(ふろ)を洗う。ついでに買い物へ行く。ついでに実家へ電話する。


 その「ついで」の主語は、いつも美咲だった。健吾(けんご)にとって家事は誰かが合間にやることで、説教だけが本題らしい。


 表を閉じるとき、数字の横に感情の印は付けなかった。ファイル名は「集計_途中」。


 まだ何も決めていないのだから、途中が正確だった。


*


 その後の二週間でも、記録は増え続けた。第151回は食器の重ね方。第156回は洗濯物の干す順番。第163回では、健吾(けんご)が頼んだ買い物の品名を自分で忘れた。


 金曜日の夜には、第165回まで達していた。土曜日、美咲は健吾(けんご)とスーパーへ出かけた。


「今月な、食費が先月より八千円多いんだよ。こういうのは塵(ちり)も積もれば、だからな」


 健吾(けんご)が入口のチラシを見ながら言う。美咲は値引きシールの付いたほうれん草をカゴへ入れた。


「お惣菜(そうざい)が増えたからね。先週、二人とも残業続きで」


「いや、残業は理由にならないんだ。厳しい言い方だけど、社会は――」


「社会は厳しい。うん」


 健吾(けんご)は少し不満そうだった。得意な台詞を先に言われたからだろう。


 買い物は普通に進んだ。健吾(けんご)は節約を唱えながら地ビールを二本カゴに入れた。美咲は何も言わない。ここで反論すれば、一つ説教が増えそうだった。


 デザートコーナーで、健吾(けんご)が足を止めた。少し高いプリンを一つ手に取る。カラメルが二層になった、一個百九十八円のやつだ。


「これは、まあ、俺への投資だな」


「投資」


「うん。明日食べる」


 健吾(けんご)はプリンをカゴの端へ大事そうに置いた。


 その夜、美咲が風呂上(ふろあ)がりに冷蔵庫を開けると、プリンの消費期限が今日だと気づいた。


 健吾(けんご)はリビングで野球中継を見ている。明日食べると言っていた。でも今日までだ。呼んで確かめればいい。美咲にも、それは分かっていた。


 少し迷った。結局、食べた。


 美味しい。カラメルがほろ苦い。勝手に食べた後ろめたさも、少しある。


 翌日、日曜日の夜。


「あれ?」


 冷蔵庫の前で、健吾(けんご)の声がした。


「プリン、ないんだけど」


「あ、それ。期限が昨日までだったから、私が食べた」


 沈黙が三秒あった。短い三秒だったが、美咲はスマホの録音ボタンを押す時間があった。


 【第166回・プリン行方不明事件】日曜日、午後八時五分から九時七分。出席者:健吾(けんご)(購入者)、美咲(食べた人)。議題はプリン一個の行方と、そこから派生した約束、整理整頓(せいりせいとん)、社会、教育論について。決定事項、後述。


「違うんだよ、美咲。問題はプリンじゃないんだ」


 お馴染(なじ)みの始まりだった。問題は、いつも本題ではないらしい。


「約束の問題なんだ。明日食べるって言ったものが、翌日ない。これが仕事だったらどうする。信用の問題だぞ。俺の若い頃なんて、上司のプリン――じゃない、書類を勝手に動かしただけで、どれだけ怒られたか」


「それはごめん。先に聞けばよかった。明日、新しいのを買ってくる」


「いや、買えば済むって話じゃないんだよ。整理整頓(せいりせいとん)ができていない人間は、仕事の段取りも悪いんだ。たとえば釣(つ)りだって――」


 美咲は食器を洗いながら頷(うなず)いた。プリンを食べたのは自分が悪い。約束を軽く扱われたと感じたなら、健吾(けんご)が怒るのも分かる。


 ただ、五分の謝罪で済ませられた話が、今夜も長い。


 釣(つ)りでは準備が八割だと健吾(けんご)は言った。釣(つ)りをしたことはない。動画で見ただけだ。準備の話は教育論になり、二人の間にはいない子どものしつけについて、熱く語り始めた。


 五十八分が経ったところで、美咲は手を拭(ふ)いた。


「じゃあ明日、プリンを二個買おう。一つずつ」


 健吾(けんご)は話を止めた。


「……まあ、それはそれでいいけど」


「期限も確認する。買った日に食べるか、お互いに聞いてからにする」


「うん」


「決定?」


「決定だ」


 説教は六十二分で終わった。最長記録である。


 その夜、美咲は文字起こしを眺(なが)めた。発言文字数、一万二千四百八字。短編小説が一本書けそうな分量で、発端はプリン一個だった。


 【AI要約】要点:妻が夫のプリン(一個198円)を食べた。妻は謝罪し、代わりを買うと申し出た。【決定事項】次回は二個購入する(一人一個)。双方が同意。【補足】決定に至ったのは会議開始から58分後。


 美咲は笑いながら最後の一文をコピーした。


 自分が食べなければ、起きなかった騒動だ。それでも六十二分は長い。謝罪を受け取ったあと、相手に考えを伝えるために、こんなに時間が必要なのだろうか。


 表に新しい項目を作った。「結論までの所要時間」。第166回は五十八分。第147回は結論なし。第153回も、なし。右側の列が「なし」で埋まる。


 十月の終わり、フォルダの回数が第182回に達した。


 集計表の数字は次のとおりだった。


 総発言時間、八十四時間三十六分。決定事項のあった回数、百八十二回中九回。「社会は厳しい」は三十八回。「俺の若い頃は」は二十六回。同じ話の繰り返しは十七件。家事を妻が「ついでに」やる前提だった回数、七十一回。


 八十四時間。二時間の映画なら四十二本分。旅行なら温泉に三回は行ける。


 美咲は椅子(いす)に座って計算し直した。会議の時間は、どこへ消えたのだろう。


 その間に終わったはずの家事、できたはずの休憩(きゅうけい)、読めたはずの本。数えていなかった時間が、数字になっている。


 台所でやかんが鳴った。健吾(けんご)はソファで野球ニュースを見ている。


 健吾(けんご)が悪人だとは思わない。笑うときはよく笑うし、美咲が熱を出したときには薬を買ってくれた。ただ、彼は自分の話が、相手の時間をどれだけ使っているか知らない。


 それなら、見せればいいんじゃないか。


 思いついたとき、顔に出たらしい。健吾(けんご)がスマホから目を上げた。


「なんかいいことでもあった?」


「うん。会議をしようと思って」


「会議?」


「家庭会議。正式なやつ」


 健吾(けんご)は笑った。


「堅いなあ。うちは会社じゃないんだから」


「だから、一回だけ。資料も配るから」


「資料まであんの?」


「あるよ。たっぷり」


 美咲は笑って答えた。ただし、いつも話を流すときの笑い方とは、少し違っていた。


*


 日曜日の朝、健吾(けんご)のスマホに、美咲から長文のメッセージが届いた。


 【件名】第1回家庭会議・開催のお知らせ。【日時】本日十九時。【場所】リビング。【出席者】健吾(けんご)、美咲(議長・記録)。【議題】一、これまでの話し合いについて。二、家事分担。三、その他。【配布資料】全体から抜粋(ばっすい)した四十二ページ。【備考】夕食はカレー。会議は食後。


「議長ってなんだよ、議長って」


「私」


「資料四十二ページって、本気か?」


「抜粋(ばっすい)で四十二ページ。全文じゃないよ」


「全文だと何ページになるんだよ」


「数えたくないから抜粋(ばっすい)にした」


 健吾(けんご)はしばらく黙り、テーブルに置かれた青いクリアファイルを見た。開けようとはしない。


 夕食のカレーを食べながらも、一度だけ聞いてきた。


「で、その会議って、俺が何かやらかした系?」


「やらかした、というより、集計が出た系」


「集計」


「うん。数字を見て、これからのことを決めたい」


「なんだよそれ。怖いな」


 健吾(けんご)は笑ったが、おかわりはしなかった。


 十九時。食器を片付け、二人は食卓に向かい合って座った。美咲の前にはノートパソコンとキッチンタイマー。健吾(けんご)の前には例のファイル。


「それでは、第1回家庭会議を始めます。まず資料の一ページ目から」


「はいはい」


 健吾(けんご)がファイルを開く。


 【資料1・第147回朝食時会議】発言者A、発言時間二十九分。議題は味噌汁(みそしる)の温度。社会の厳しさに言及三回。結論、なし。


 健吾(けんご)が顔を上げた。


「なんだこれ。朝の話じゃん。いや、Aって誰だよ、この面倒な発言者」


 来た、と美咲は思った。でも表情は変えない。五か月の訓練が役に立っている。


「先も読んでみて」


 二枚目はペットボトルのラベル。三枚目は電気代。四枚目はプリンだった。『発言時間六十二分』を見て、健吾(けんご)が声を漏らす。


「六十二分も喋(しゃべ)ってるの、この人」


「うん」


「しかも結論、妻の提案じゃん」


「うん」


「……Aって」


「うん」


 健吾(けんご)はファイルを閉じた。少しして、また開いた。一ページ目の味噌汁(みそしる)の欄(らん)を指でなぞる。


「俺、こんなに喋(しゃべ)ってたのか」


「喋(しゃべ)ってた」


「毎朝?」


「朝も夜も。多い日は二回」


 美咲はパソコンの画面を見せた。総発言時間、八十四時間三十六分。決定事項が出た回は九回。「社会は厳しい」三十八回。「ついでに」が妻の仕事を指した回、七十一回。


 発言時間の棒グラフは健吾(けんご)の分がずっと長い。円グラフでは健吾(けんご)が九十八パーセント、美咲が二パーセント。美咲の二パーセントは「うん」と「ごめん」と「ちょっと待って」がほとんどだった。


「この円、ほぼ俺じゃん」


「そうだね」


「それにしても、よく作ったな。印刷代かかったろ」


「家計から出したわ。会議の資料だから」


 健吾(けんご)は何か言いかけ、口を閉じた。もう一度グラフを見る。


「……ずっと録ってたんだな。録音していいとは言ったけど、こんなに溜(た)まってるとは思わなかった」


「私も、こんなに増えると思わなかった。黙って集計して見せたのは、嫌だったと思う。ごめん」


「いや、驚いた。なんか、俺だけ知らないテストを受けてたみたいだ」


 健吾(けんご)の声は、いつもの説教のときより小さかった。


「今日はテストにしたくない。二人で決める場所にしたい」


「でも、これって俺を責めるための資料だろ」


「責めたい気持ちがなかったと言ったら嘘(うそ)になる。ただ、私が一番困ってたのは、話が長いことだけじゃないの」


 美咲は資料を一枚抜き、食卓へ置いた。第148回の記録だ。ゴミ袋を誰がまとめるか、最後まで決まらなかった回。


「あなたは長く話して、最後に『美咲がついでにやって』と言う。私はその間、食器も片付けられないし、休むこともできない。終わったあとに残った家事をするのも私なの」


 健吾(けんご)は紙から目を離さなかった。


「話した時間を全部、返してほしいって言ってるわけじゃない。でも、これからも同じなのか、今日は決めたい」


「……そんなふうに感じてたのか」


「何度か言ったよ。『話が長い』『私も疲れてる』って」


 健吾(けんご)は資料をめくり直した。欄外(らんがい)に、小さな文字が何度も出てくる。『妻、夕食の準備中』『妻、出勤前』『妻、会話を切り上げたいと発言』。


「聞いてたつもりだった」


「うん。でも、終わらなかった」


 時計の針が進む音がした。美咲はタイマーに手を伸ばさず待った。ここで急かせば、また相手が話す前に終わってしまう。


「俺の会議だったら、上田さんに怒られるやつだな」と健吾(けんご)が言った。


「そうかもね」


「話は長い。結論はない。作業は相手に押し付けてる。……家だと、分からなくなってた」


 彼は四十二ページの資料を揃(そろ)えて、テーブルの真ん中に置いた。


「悪かった。最初に謝る。これからどう変えるか、一緒に考えたい」


 美咲は白紙の議事録を開いた。会議名の欄(らん)には『第1回家庭会議』とだけある。決定事項の欄(らん)は空白だ。


「じゃあ、決めようか」


「うん」


「一つ目。長い話のルール」


「要点を先に言う。努力する」


「努力は議事録に書けないよ。あとで確かめられる形にしよう」


「そうか。じゃあ、話は原則五分。超えそうになったら、タイマーを鳴らしていい」


「私の話が長いときも鳴らしていいよ」


「お前の話が五分続いたの、最近聞いてないけどな」


 美咲は思わず笑った。


「それも問題ね」


「……そうだな」


 キーボードを打つ。


 【決定事項1】お互い要点を先に話す。長い話は原則五分。超過時は相手がタイマーで知らせてよい。話の途中でも、今聞けるか確認する。


「二つ目。家事」


「ゴミ出しは俺がやる。火曜と金曜」


「ゴミ出しって、どこから?」


「え。集積所まで持っていく」


「袋をまとめるところから。各部屋のゴミ箱も確認してほしい」


「細かいな」


「第148回参照」


「分かった。全部やる。風呂掃除(ふろそうじ)は土曜日、俺」


「洗濯は交代制。日曜日の夕食は?」


「俺が作る。何を作るかも考える」


「味噌汁(みそしる)の温度は?」


「自分で確かめる。ぬるかったら自分で温める」


「採用」


 【決定事項2】ゴミ出しは火曜・金曜、健吾(けんご)が袋をまとめるところから担当。風呂掃除(ふろそうじ)は土曜、健吾(けんご)。洗濯は交代制。日曜の夕食は献立から健吾(けんご)が担当。味噌汁(みそしる)の温度は本人が確認する。


 美咲は画面を保存し、三つ目の議題を開いた。


「この録音のこと。今までの記録は外に出さない。必要な議事録の控えだけ残して、録音データは消そうと思う。これからは、毎日の説教は録らない」


「いいのか? 俺がまた『そんなこと言ってない』って言ったら」


「そのときは言ってほしい。今日決めたことを、二人で確かめればいい」


「俺も、そう言わないようにする。覚えてないなら、覚えてないって言う」


 美咲は一瞬、画面から顔を上げた。その言い方を初めて聞いた。


「家事は来月の会議で確認して、決め直してもいい?」


「もちろん。上手くいかなかったところも、責めるんじゃなくて相談しよう」


 【決定事項3】家庭会議は月一回、日曜十九時。日常の録音は終了し、過去の録音は整理して削除する。今後は家庭会議だけ議事録を残し、家事分担は次回見直す。


 美咲が読み上げると、健吾(けんご)は「賛成」と言った。


「私も賛成。賛成二、反対ゼロ。可決」


 二人で小さく拍手した。会議時間は三十八分。健吾(けんご)の説教の最長記録より二十四分短い。


 健吾(けんご)はファイルをもう一度開いた。


「なあ、この第166回のプリンの件だけど」


「……また六十二分話す?」


「違う。美咲が謝ってたのに、俺が話を続けてた。そこも悪かった」


「ううん。勝手に食べたのは私が悪い。今度は聞くね」


「俺も、食べたかったらそう言う。明日食べるとか、曖昧(あいまい)にしない」


 健吾(けんご)がテーブルのタイマーを手に取った。


「これ、もう鳴らしてもいい?」


「何に使うの?」


「話してるうちに、また長くなりそうだから」


 美咲は笑って、タイマーを五分に合わせた。


*


 家庭会議から三週間が過ぎた。


 最初の三日でタイマーは二回鳴った。一回目は田村くんの資料のページ番号の話が五分を超えたとき。二回目は、風呂掃除(ふろそうじ)のあとに「掃除というのはな、心の――」が始まったときだった。


「はい、結論。風呂(ふろ)は洗った。以上」


 健吾(けんご)はそう言って、照れくさそうに笑った。


 タイマーが鳴るのを待たず、自分で「続きはまた今度」と切り上げる日も増えた。美咲も、聞けないときは「あとでいい?」と答えるようになった。以前なら、その一言で説教が長くなっただろう。


 ゴミ出しは初回でつまずく。健吾(けんご)は袋の結び方を聞きに来て、美咲が手本を見せると自分でやり直した。二回目からは聞かずに済んだ。


 日曜日の夕食も、最初がカレー。二回目もカレー。


「来週は違うものにするから」


 三回目に健吾(けんご)が作ったのは親子丼(おやこどん)だった。少し塩辛い。美咲は水を一口飲んでから口を開く。


「次は醤油(しょうゆ)を少なめにすると、もっといいかも」


「分かった。メモしておく」


 健吾(けんご)は台所のメモ帳に『親子丼(おやこどん)、醤油(しょうゆ)は少なめ』と書いて貼(は)る。


 褒(ほ)められたいから料理をするのではない、という話はまだしていない。でも、日曜の夕食のあと、美咲が洗い物を一人で抱えなくていいよう、健吾(けんご)も皿を運ぶようになった。


 美咲は長らく途中で止まっていた文庫本を、ようやく読み終えた。読んでいる途中、何度か健吾(けんご)に話しかけられたが、「この章の終わりまで待って」と言うと、今度は待ってくれた。


 月曜日、出社した美咲を上田課長が呼び止めた。


「佐伯(さえき)さん、先週の議事録なんだけどさ。あ、そういえば旦那(だんな)さん、元気?」


「はい?」


「この前チラッと見えたフォルダ、『議事録_家庭』って書いてあったから。夫婦で議事録取るなんて、仲いいなと思って」


 美咲は一瞬考えた。中身を見られたわけではない。それでも、仕事のパソコンで家庭のファイルを開くのは、もうやめよう。


「おかげさまで、先月初めて決定事項ができました」


「おお。それはめでたい」


 上田は何も知らない顔で席へ戻った。めでたい、という言葉が妙に正確だった。


 水曜日の夜。帰宅した健吾(けんご)が玄関で靴を脱ぎながら言った。


「結論から言うと、今日、上田課長に褒(ほ)められた」


「え、何を?」


「営業の報告。俺の説明が短くて、決まったことも多かったって。最近、要点が先に来るようになったって言われた」


 時計を見ると、まだ一分も経っていない。


「……以上」


 健吾(けんご)は照れたように頭をかいた。


「家で鍛(きた)えられたって言ったら、変に思われそうだから、言ってない」


「言わなくていいよ、そんなこと」


「でも、あの資料のおかげではある」


 美咲は笑った。曖昧(あいまい)に相づちを打つための笑顔ではなかった。


 その週の日曜日、十九時。第2回家庭会議が開かれた。


 議題は三つ。来月の帰省の日程、冷蔵庫の買い替え時期、それからプリンを二個買う件。


 プリンの件は全会一致で即決した。一個ずつ。名前を書く。買った日に期限を確認し、相手の分には勝手に手を出さない。議論は二分で終わった。


 帰省の日程も決まった。冷蔵庫は型と価格を比較するため、二人で家電店へ行く日を決め、購入そのものは次回まで保留にした。


「これ、決定事項は『買わない』になるの?」と健吾(けんご)が聞いた。


「『見積もりを取る』が決定。買うかどうかは来月ね」


「なるほど。保留にも仕事があるんだな」


 会議は十二分で終わった。最短記録だった。


「なあ、議事録って、決まったことが書いてあると読んでて気持ちいいな」


「そうでしょう」


「前のやつは読んでて疲れたもんな」


「八十四時間分だからね」


 二人で笑った。


 健吾(けんご)は冷蔵庫を開け、自分のプリンを一つ取り出した。隣には美咲の分がある。蓋(ふた)にそれぞれ名前が書いてあった。カラメルが二層の、あのプリンだ。


「美咲の、明日までだけど」


「本当? じゃあ今夜食べる」


「俺も食べよ。皿、取ってくる」


 健吾(けんご)が台所へ行っている間に、美咲は第2回家庭会議の議事録を保存した。


 【会議名】第2回家庭会議。【日時】日曜日、午後七時から七時十二分。【出席者】健吾(けんご)、美咲。【決定事項】帰省は来月第二週の土日。プリンは一人一個、記名し、期限を確認。冷蔵庫は見積もりを取得して次回決定。【申し送り】発言者・健吾(けんご)、要点を先に述べた。次回議題:年末の旅行先と、お土産の予算。


 最後の行に、少しだけ付け足した。


 【備考】会議終了後、プリンを二人で食べる予定。


 保存した議事録は、A4で一枚。下の方には、まだ余白があった。

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