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Ⅱ-17 脳が溶ける

「っ!」


 ガシャン、と音を立ててティーカップが倒れる。テーブルに広がる赤褐色の液体に、さぁっと血の気が引いた。


「ごめんなさいアレクシス様! お怪我はありませんか!?」

「大丈夫だ」


 見たところアレクシスに火傷はなさそうだった。安心しつつ、フレイは慌ててハンカチでテーブルを拭いた。不注意でティーカップを倒してしまうなんて、失態も失態だ。


(あ〜もう、何やってるの私!?)


「君は」

「私は大丈夫です! 本当にごめんなさい、 せっかくのお茶会なのに……」

「本当に大丈夫なのか?」


 額に何かが当たる感触に顔を上げ、フレイは息を呑んだ。アレクシスの手が額に当てられている。それは良いのだが、顔が近い。アレクシスの端正な顔が視界いっぱいに広がり、フレイは危うく飛び上がりかけた。


「ア、アアアアアレクシス様!? お顔が……」

「顔色が悪い。疲れているのではないか」


 フレイは目を丸くした。至って健康なのだが、アレクシスの青い瞳はどこまでも真剣だった。


「そ、そうですか?」

「あぁ。隈も少し出来ている」


 確かに最近色々あって眠れてはいなかった。アレクシスに何を見せるか、どうしたら攻略対象達を幸せに出来るのか、考えているうちに日が昇ってしまうのだ。

 それでも、アレクシスに指摘されるとは思わなかった。そこまで酷い顔色なのか、と頬を触っていると、アレクシスが俯いた。


「……すまない。私のせいで」

「え!? な、なんでアレクシス様が……」

「私には感情が分からない。だから、君が色々なものを持ってきてくれても、何も感じられない。それでも君は、私のために手を尽くしてくれているだろう」


 アレクシスの手が離れていく。額に残った体温がやけに名残惜しかった。


「赤の他人である君に、こんなに負担をかけてしまっている。本来なら、もう共に居るべきではない。そう分かっているのだが──」

「っ、嫌です!」


 フレイは思わずアレクシスの手を取り叫んでいた。アレクシスが驚いて目を見開いているが、これだけはどうしても伝えなければならない。


「確かに、疲れているのは事実、だと思います。最近眠れてなかったし、アレクシス様に何を見せようか、とよく考えていました」

「……なら」

「でも! それはアレクシス様のせいではありません。私が、アレクシス様に何かしたくてやっていることです」


 元々、フレイが勝手に言い出して始まったお茶会なのだ。アレクシスを見つけたいというのもフレイの我儘で、寧ろアレクシスが付き合ってくれている側なのだ。


「っ、だが……」

「何より、私はアレクシス様と過ごす時間が楽しいんです。アレクシス様が嫌だと言うのなら……本当に、本当に辛いけど、我慢します。でも、もしアレクシス様が私と一緒に居たいと思っているのなら、一緒に居るべきではないなんて言わないでください」


 友達が居ないフレイにとって、アレクシスと過ごす時間はかけがえのないものになっている。そして、アレクシスも楽しんでくれているのではないか、と思っていた。

 アレクシスに自分を見つけてほしい、という思いも勿論ある。しかし、何よりアレクシスと一緒に居たい、という思いが一番強いのだ。


「……」


 アレクシスは不可解そうな顔をしていた。何回も口を開けては、苦しそうに閉じている。揺れる青い瞳に自分が映っている、のを見て、フレイは勢いのあまりアレクシスに近付き過ぎていたことに気が付いた。


「ご、ごめんなさ……っ!?」


 慌てて手を離して後退った瞬間、視界が歪んで思わず額を押さえる。アレクシスが座り込んで心配そうな顔でこちらを見つめるが、何も言えない。やはり疲れているというのは嘘ではないようだ。


(休むのも大切だって、おじい様に言われてたのに……)


 アレクシスは俯いている。心配をかけてしまってごめんなさい、と言おうとした時、ぱっと何かを思いついたようにアレクシスの顔が上げられた。


「……歩けるか」

「え? はい……」


 アレクシスに手を差し出され、フレイは首を傾げながらもその手を取った。着いて行った先はテラスのすぐ近くにある芝生だった。周りを植木に囲まれたそこは、人気もなく静かだ。

 すると、アレクシスが手を離して座り込んだ。流石アレクシス、正座でも名画のようだと思っていると、覚束ない手取りで膝を叩いた。


「……」


(……ん?)


 無言のまま見つめられ、フレイは困惑した。芝生は乾いているので汚れを払え、ということではないだろう。まさか私の、と思って膝を見たが、特に汚れてはいなかった。

 アレクシスは尚もぽんぽん、と膝を叩いている。何を求められているのか、と冷や汗だらだらで必死に意図を読み取ろうとして、フレイは一つの可能性に思い至った。


(いや、流石に妄想が過ぎるか? でも、他に思い浮かばないし……)


「……もしかして、膝枕、ですか?」


 恐る恐る口にしてみる。自分で言って何だか恥ずかしくなったが、アレクシスがは正解だと言うようにぱっと輝いた。どうやら正解のようだ。


「いやいやいや、そんな、アレクシス様にひ、膝枕をしていただくなんて……!」


 膝枕ということは、自分の後頭部がアレクシスの太腿に乗るということだ。重くないか、血は止まらないのか、色々なことが心配だが、一番心配なのはその体勢だ。

 もし顔を横にして寝たら圧力が大きくなってしまうので、少しでも面積を増やすために後頭部か顔を下にするしかない。

 だが、後頭部を太腿に乗せればアレクシスの端正な顔に見下されてしまう。しかし、顔面を下にするのは絵面が悪いし耐えれる気がしない。


(というか、第一王子に膝枕させるなんて……!)


 フレイが固まっている間もアレクシスは困ったように膝を叩き続けていた。


「……嫌、だろうか」

「!? い、嫌ではありません! ただ、その……」


 嫌ではない。アレクシスが自分のために何かをしようとしてくれたのは飛び上がるほど嬉しいのだが、彫刻のように美しいアレクシスに膝枕をされて耐えれるか分からない。心臓が。

 誤魔化すように視線を泳がせるフレイに、アレクシスはそっと目を伏せた。


「……私がまだ幼かった時、勉強に疲れて、一度だけ母上に膝枕をしていただいたことがあったんだ」


 ぽつりと語られた言葉に、フレイは目を丸くした。アレクシスの母親というなら、この国の王妃だ。


「その時、胸が温かくなったから……君も、されたら嬉しいのかと思ったのだが、」


 勘違いだったようだ、申し訳ない。そう言って立ち上がろうとするアレクシスの手をフレイは取った。


「その……少し、緊張していただけで、本当に嫌ではないんです。膝枕、していただけますか?」


 フレイはまっすぐアレクシスの目を見つめた。感情が分からないと言ったアレクシスが、はっきりと『胸が温かくなった』と言った。これはきっと大きなヒントになる気がする。

 何より、母親とのたった一度の触れ合いを温かいものとして覚えていて、それをフレイにしようとしてくれている。それが嬉しかった。

 アレクシスはぱ、と無表情のまま周囲に花を咲かせた。一度深呼吸をして、失礼します、と言ってアレクシスの太腿に頭を乗せた。

 瞬間、フレイの知能は底辺にまで落ちた。


(うわーーーーーすごい! すごい! すご……すごい!)


 男の太腿なのだから筋肉質だろう、と思っていたが、アレクシスの太腿は優しくフレイの後頭部を包み込んでいる。決して柔らかい訳ではないのだが固くもなく、ズボン越しなのにまさか直なのでは、と馬鹿な考えが浮かぶほど太腿の感触が感じられる。

 視界には青い空と、アレクシスの顔。美しい。正面から見ても美しいのに下から見ても美しいなんてどうなっているのだろう。

 そして、鼻孔を擽る形容し難い良い香り。何の香りとは言えないが、とにかく良い香りで、脳から幸せ成分がどぱどぱ溢れる。言葉には出来ない、出来ないけどとにかく良い香りだ。


(すごっ……もう、脳が幸せすぎて溶ける……)


 そんな風に心の中では大騒ぎしながらも、フレイの顔は真顔だった。というより、顔を動かす余裕すらなかった。


「痛くはないか」

「はい……」


 アレクシスの指先がそっとフレイの額に触れ、前髪が落ちる。こちらを見つめるアレクシスの瞳は、最初に見たときの空虚な色を映していなかった。

 いつも感情が分かりにくいアレクシスがこんなに心配そうな顔をしているということは、それだけ心労をかけてしまったのだろう。

 サァ、と風が葉を擦る音がする。青い空を雲が流れていく。会話はないけど心地よい時間に、フレイは思わず目を閉じた。

 思えば、最近は睡眠を取るのもおざなりになっていた気がする。攻略対象を幸せにするために考えて、そのせいで心配をかけてしまうなんて本末転倒だ。


(もっと上手くやらないと。皆を幸せにするために)


 それにしても、本当に心地よい時間だ。風は心地よく、時折触れるアレクシスの指は優しい。あぁ駄目だ、このままでは、眠……

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