古本と春巻
田中一樹は、古びたアパートの二階に住む平凡な会社員だった。32歳、独身、趣味は特にない。休日は決まって近所の古本屋「本の墓場」に足を運び、埃っぽい棚の間をさまよう。そこは、町外れの寂れた商店街にひっそりと佇む店で、店主の老人が誰とも話さず、ただ黙って本を整理している姿が印象的だった。一樹にとって、古本屋は現実逃避の場だった。会社のストレス、将来への漠然とした不安を、ページをめくる音で一時的に忘れられた。
ある秋の夕暮れ、一樹はいつものように「本の墓場」に立ち寄った。店内の空気はひんやりと湿っていて、どこかカビ臭い。棚の奥、普段は見逃してしまうような薄暗い一角に、妙に目を引く本があった。表紙は革のような素材で、タイトルも著者名も書かれていない。ただ、背表紙に「2年前」とだけ、掠れた金文字で刻まれていた。一樹は好奇心に駆られ、そっと手に取った。ページは黄ばみ、インクがかすかに滲んでいる。まるで誰かが急いで書いたような、雑な筆跡だった。
「これ、なんですか?」一樹はカウンターの老人に尋ねたが、老人は一瞥をくれるだけで、「さあね、置いてあっただけだ」とそっけなく答えた。値段は100円。あまりに安い。一樹は特に深く考えず、その本を買って帰った。
家に帰り、ビールを片手に本を開いた。最初のページには、こう書かれていた。「この本は、2年前のあなたに起こったことを記録しています。ただし、読む前に警告します。知るべきでない真実が、ここには書かれています。」一樹は鼻で笑った。まるでホラー小説の導入だ。こんな安っぽい仕掛けに引っかかるほど、子供ではない。だが、読み進めるうちに、彼の笑顔は凍りついた。
本には、2年前の自分の日常が克明に書かれていた。2023年10月15日、会社でのミーティングで上司に叱られたこと。コンビニで買った弁当の味がイマイチだったこと。夜、テレビで放送されていた時代劇のタイトルまで、すべてが正確だった。だが、奇妙なのはその細部だ。本には、一樹が覚えていない出来事がいくつも記されていた。例えば、「10月20日、近所の公園で老女と会話した」とある。だが、一樹にそんな記憶はない。確かに公園にはよく散歩に行ったが、知らない老女と話したことなどなかったはずだ。
さらにページをめくると、もっと不可解な記述があった。「10月25日、春巻のレシピを試した。彼女は喜んでくれた。」彼女? 一樹には2年前、恋人などいなかった。ましてや春巻など作った記憶もない。料理自体、ほとんどしない男だ。だが、本には詳細なレシピが記されていた。皮の巻き方、具材の切り方、油の温度まで、まるで料理本のように具体的だった。一樹は背筋に冷たいものが走るのを感じた。この本は、誰かが一樹の知らない「もう一つの2年前」を書き込んだものなのだろうか。
その夜、一樹は奇妙な夢を見た。薄暗いキッチンで、彼は春巻を作っている。隣には、顔の見えない女性が立っていて、笑いながら「美味しいね」と言う。彼女の手には、出来立ての春巻が握られている。だが、その春巻からは、なぜか血が滴っていた。一樹は叫びながら目を覚ました。心臓がバクバクと鳴り、額には冷や汗が浮かんでいた。
翌日、一樹は本を手に再び古本屋へ向かった。「この本、どこから仕入れたんですか? 何か知ってるでしょう?」彼は老人に詰め寄った。だが、老人は前日と同じように無表情で、「知らんよ。客が持ってきた本だ」と繰り返すだけだった。一樹は苛立ちながらも、店を出て本を読み直すことにした。ページをめくるたび、記述はさらに不気味になっていった。「11月3日、彼女と公園で別れた。春巻の味が忘れられないと言っていた。」「11月10日、彼女が消えた。警察は何も見つけられなかった。」
一樹の頭は混乱した。彼女とは誰だ? なぜ消えた? 警察? そんな話、2年前には一切なかった。だが、本の記述はあまりに具体的で、まるで一樹自身がその出来事を体験したかのような錯覚に陥った。彼は試しに、本に書かれた「春巻のレシピ」を作ってみることにした。スーパーで材料を買い揃え、指示通りに皮を巻き、油で揚げた。キッチンに漂う香りは、どこか懐かしく、胸を締め付けるものだった。だが、なぜか一樹は恐怖を感じていた。まるで、この春巻を作る行為自体が、何かを呼び起こす鍵であるかのように。
春巻を一口かじった瞬間、頭の中にフラッシュバックのような映像が流れ込んだ。公園、老女、笑顔の若い女性、そして血に染まった春巻。映像は断片的で、すぐに消えた。一樹は震える手で本を開いた。新たなページが現れ、そこには昨日の日付と、こう書かれていた。「2025年10月14日、春巻を作った。彼は思い出し始めている。」
一樹は本を床に投げ捨てた。心臓が早鐘のように鳴り、部屋の空気が急に重くなった。誰かが書いている。この本は、読むたびに新しいページが増えているのだ。恐る恐る本を拾い上げ、最後のページを開くと、そこにはこう書かれていた。「今夜、彼女が来る。春巻を用意しろ。」
時計はすでに夜の11時を回っていた。外は静かで、虫の声すら聞こえない。一樹はキッチンに立ち、震える手で再び春巻を作り始めた。なぜか、自分が止められないことを感じていた。まるで体が勝手に動いているようだった。皮を巻き、油を熱し、春巻を揚げる。出来上がった春巻を皿に並べた瞬間、部屋の電気がチカチカと点滅し始めた。
「カタッ」と、窓の外で音がした。一樹は凍りついた。ゆっくりと窓に近づくと、そこには誰もいなかった。だが、窓ガラスに映る自分の姿の後ろに、ぼんやりと人影が見えた。振り返っても、誰もいない。だが、背後に冷たい気配が漂っている。テーブルに置いた春巻の皿が、かすかに揺れているように見えた。
「一樹…」どこからか、女の声が聞こえた。低く、掠れた声。心臓が止まりそうになりながら、一樹は本を手に取った。新しいページがまた増えている。「彼女は春巻を食べに来た。だが、彼女はもう人間ではない。」
一樹は叫び声を上げ、本を壁に叩きつけた。だが、本はまるで生き物のように、床に落ちると勝手にページを開いた。「逃げても無駄だ。彼女は2年前、君が作った春巻を食べた夜に死んだ。君が忘れただけだ。」
一樹の記憶が、突然堰を切ったように溢れ出した。2年前、確かに一人の女性がいた。名前は美咲。会社の同僚で、気軽に食事をする仲だった。ある夜、彼女が一樹のアパートに来て、冗談半分で春巻を作った。だが、その夜、彼女は急に体調を崩し、倒れた。救急車を呼んだが、間に合わなかった。医者は「原因不明の急性アレルギー反応」と診断した。一樹はショックで、その記憶を心の奥に封じ込めていた。いや、封じ込めさせられていた。
「美咲…ごめん…」一樹は呟いた。部屋の空気がさらに冷たくなり、背後に立つ気配が濃くなった。振り返ると、そこには美咲がいた。青白い顔、虚ろな目。彼女の手には、血に濡れた春巻が握られていた。「一樹…一緒に食べよう…」彼女の声は、まるで風のように一樹の耳に流れ込んだ。
一樹は逃げようとしたが、足が動かない。美咲が一歩近づくたび、部屋の壁が歪み、時間がねじれるような感覚に襲われた。彼女の手が一樹の肩に触れた瞬間、視界が暗転した。
翌朝、近所の住人が一樹のアパートを訪れた。ドアが開けっ放しで、部屋は静まり返っていた。テーブルの上には、冷えた春巻が一皿、綺麗に並べられていた。だが、一樹の姿はどこにもなかった。床には、あの古本が開いたまま落ちていた。最終ページには、こう書かれていた。「2025年10月15日、彼は彼女と再会した。春巻の味は、永遠に彼を繋ぎ止める。」
古本屋「本の墓場」では、老人がいつものように本を整理していた。棚の奥に、革表紙の本が一冊、ひっそりと戻されている。背表紙には「2年前」と書かれていたが、誰もそれに気づくことはなかった。店を出た客が、ふと呟いた。「なんか、春巻が食べたくなってきたな…