1.初めてのケンカ
その日、いつものように応接室の中で向き合う二人の表情は、普段とは少し違っていた。具体的にはキャンベルがずっと無言のままどこか難しい顔をしていて、その様子にロボロフが戸惑っているという構図だったのだが。
「さすがに、多すぎませんか?」
アイスグリーンの大きな瞳を険しく細めながら見つめられたことで、ロボロフは気まずさから口にしていたドライフルーツを急いで紅茶で流し込む。キャンベルの険しい表情など、どこからどう見ても恐怖を覚えるようなものではないのだが、ようやく発してくれた言葉にロボロフはしっかりと反応しておきたかったのだ。
「多すぎる、というと?」
「ロボロフ様がハムスターの姿に変身してしまう回数が、です。一度変わってしまうと、元のお姿に戻るまでにも時間がかかるようですし。これでは日常生活を送ることすら困難ではありませんか?」
心配そうにロボロフのサファイアブルーの瞳をのぞき込んでいるキャンベルからは、心からの心配が見て取れる。そしてここでようやくロボロフもダルメン侯爵家の使用人たちも、どうして今日の彼女は応接室に到着してからひと言も発していなかったのかを理解した。つまり、ずっと婚約者であるロボロフのことを案じていたのだ。
「婚約者に心配してもらえるのはありがたいことだが、そこまで心配しなくてもいい。一日に何度か姿が変わってしまうこともあれば、一度も変わらない時もあるんだ」
ロボロフとしては、キャンベルを安心させようという意図をもってそう告げたのだが。それが逆に、キャンベルに火をつけてしまったのかもしれない。
「でしたら、その違いを解明いたしましょう!」
本来の彼女らしい性格が、少しずつ表に出始めてきていて。キャンベルが両手を合わせて小首をかしげると、艶やかなバターブロンドの髪がサラリと揺れて、それはそれは可愛らしい姿だった。ただし、ロボロフにとってその発言は全く可愛らしいものではなく。
「いや、その……姿が変わってしまう時とそうでない時の違いは、ある程度認識できていて、だな」
「まぁ! ではいったい、どういった時に変身してしまうのでしょうか?」
「うっ……」
無邪気に尋ねてくるその視線に、ロボロフは言葉に詰まって思わず目をそらしてしまった。その動きに合わせてプラチナシルバーの髪が輝いて、光の軌跡を残す。
だがその美しさに目を奪われることなく、ただまっすぐにロボロフを見上げているキャンベルは、ダルメン侯爵家側の人間たちからすれば恐ろしいくらいだった。
だから、ロボロフはつい口にしてしまったのだ。
「そ、それを知ったところで、いったいどうするつもりなんだ? 君がその理由を知っていようがいまいが、現状が変わることはないのに」
それはある意味で、本心でもあった。姿が変わってしまうのは魔女の呪いで、それをどうにかできる力は誰も持たない。それだけは何があっても変えられない事実。
とはいえキャンベルにとっては、現状自分が理解できているのは婚約者がハムスターの姿に変身してしまうという、ただその一点のみ。つまりそれさえ解決できれば、婚約者であるロボロフが苦労することはなくなるはずだ、と。ただ素直にそう考えただけだったので。
「わたくしは、この事象の根本的な解決がしたいのです。もちろん最終目的は、魔女の呪いを解くことですわ!」
キャンベルもキャンベルでまた、そう口にしてしまったのだった。
それぞれの認識の違い。それこそが誤解を生む一番の理由になってしまうのだと、この時の二人は気付くこともないまま。ここからはお互いに、自分の思いだけを言い合うことになってしまい。
「そんなこと、できるわけがない」
「やってみなければ分からないではありませんか」
「それで万が一、今以上に魔女を怒らせてしまって人間の姿にすら戻れなくなってしまったら? それこそ困るじゃないか」
「ですが挑戦する前から諦めてしまっては、物事は変化することはありませんし前にも進めませんわ」
初めはそう、相手を諭すような物言いをしていたはずの二人だったのだが。それは徐々に、個人的な感情の部分にまで影響を及ぼしてしまったようで。
「君は何も知らないから、無責任にそんなことが言えるんだ!」
「わたくしだってロボロフ様が教えてくださらなければ、何も知ることはできませんわ!」
最終的には、ただの言い合いになってしまっていた。
そうして、もはや会話とも言えなくなってしまったそれは、ただ平行線をたどるだけで。言葉を口にすればするほど、二人の中は険悪になっていく。
そんな状況に先に耐えられなくなってしまったのは、キャンベルのほうだった。
「もういいです! ロボロフ様の分からず屋! わたくし、今日はもう帰りますから!」
いきなり立ち上がったかと思えば、それだけを宣言して。艶やかなバターブロンドの髪を翻して、応接室を出て行ってしまったのだ。
かくして、方向性や考え方の違いから初めてのケンカをした二人だったのだが。この日からキャンベルがダルメン侯爵邸を訪れることも、その旨を記した手紙が届くこともなくなってしまい。結果、初顔合わせ以前から続けていた手紙のやり取りでさえ、完全になくなってしまった。
悲しいかな、ロボロフはその特殊な呪いのせいで大げさなどではなく本当に外出することができないので、こうして特殊な状況下の婚約者たちは一時的に交流を断つことになってしまい。そして同時に、その一部始終を全て見聞きしていたダルメン侯爵家の使用人たちは、こう思ったのだった。制限のありすぎる若君と、行動力のありすぎる婚約者様は、実は相性が悪いのでは? と。