2.ハムスター
「え……」
何が起きたのか理解できずに、思わず落ちていったロボロフの抜け殻の行方を追って視線を下に向けたキャンベルが目にしたのは。
「……ハムスター?」
そう、ハムスター。そこからもぞもぞと這い出てきた一匹の小さなハムスターは、真っ白な体毛につぶらな瞳をしていて。その可愛さにキャンベルは状況も忘れてときめいてしまい、緩む口元を両手の指先で押さえた。
と、なぜかここで。
「誰か、ケージの用意を! それから、服も回収してくれ!」
先ほどの穏やかさとは打って変わって、テキパキと指示を出し始めるダルメン侯爵。それに当然のように応える使用人たちは、顔色一つ変えずに指示通りに動き始めた。
今度はその異様な光景に、キャンベルは大きな瞳をさらに大きく見開いて驚きを隠せずにいたのだが。なぜか父親であるハロラーク侯爵は、ダルメン侯爵やダルメン家の使用人たちと同じように顔色一つ変えず、その場でロボロフの服が回収されていく様子と、その下から出てきたハムスターが用意されたケージに入れられるのを、ただ眺めていただけ。
「すまない、ブラント。とりあえず、一度座ってくれ」
「いや、仕方がないさ。予想はしていたし、キャンベルに説明する手間も省けるだろう。まぁ、私たちはおとなしく座って待っているから、ゆっくり準備してくれ」
「あぁ、ありがとう」
まるで当然のことのようにそう会話を進める両侯爵の顔を、キャンベルは困惑した表情のまま見比べていたのだが。父親に促されて、とりあえずソファーに座り直した。
(これは……いったい、どういうこと?)
冷静になってから先ほどの会話を思い出すと、まるでこの状況を知っていたかのような発言を自らの父親がしていたような気がして。けれど周囲が忙しそうに動き回っている中、さすがにその理由を問いかけることもできないまま。落ち着くのを待っていたキャンベルがようやく説明を受けられるようになったのは、ロボロフの服が全て回収されローテーブルの上に先ほどのハムスターが入ったケージが置かれ、それを挟んだ反対側のソファーにダルメン侯爵が腰を落ち着けてからだった。
「まずは、キャンベル嬢に謝罪を。驚かせてしまってすまなかったね」
「あ、いえ、その……わたくしは、大丈夫なのですが……」
きょろきょろと周囲を目だけで見まわすキャンベルが探しているのは、もちろん消えてしまった自身の婚約者であるロボロフだ。なにせ先ほどから今までの間に、誰も彼のことを探しに行こうとしていないことが気になっていて、正直今は話どころではなかったのだが。
「ロボロフなら、心配いらないよ。ほら、改めてご挨拶しなさい」
ケージの中のハムスターにダルメン侯爵が話しかけると、小さな二本の後ろ足で立っている小さな白いハムスターが、なぜかこちらを向いて。そのつぶらな瞳を向けてきたかと思えば。
「すまない。私がロボロフなんだ」
その小さな口を動かして、しゃべりかけてきたのだ。先ほどキャンベルの父親である、ハロラーク侯爵に挨拶している時と同じ声で。
「は……」
「は?」
よほどそれに驚いてしまったのだろう。キャンベルはアイスグリーンの瞳がこぼれ落ちてしまいそうなくらい、大きく目を見開いていて。それに対し、どうしたのかとロボロフが同じ言葉で問いかけた、次の瞬間。
「は、ハムスターが喋ったぁぁ!?」
今までの美少女と同一人物とは思えないほどの声量で、そう叫んだのだった。
思わずその小さな手で耳をたたむハムスターと、同じく急いで耳を覆ったダルメン侯爵。だがハロラーク侯爵はキャンベルのその行動を予想していたのか、叫び出すよりも前に先に耳を完全に覆っていたので、案外ちゃっかりした性格なのかもしれない。
「えっ!? えっ!? どういう……えっ!?」
「落ち着け」
あまりの動揺ぶりに、自らがロボロフだと名乗ったハムスターがそう返すと。
「しかも会話してるぅぅ!?」
さらに驚きの声を上げるキャンベル。
そう、実はこれが本来の彼女の性格だった。普段外ではその見た目通りに見せかけるため、あまりしゃべらずおとなしくしているようにと母親にきつく言われているだけで。性格的な部分だけで言ってしまえば、むしろ完全に父親寄りなのだ。
この瞬間、誰も口にも表情にも出しはしなかったが、応接室の中にいるダルメン侯爵家の使用人たちは大いに納得したことだろう。だから、ハロラーク侯爵に脅えていなかったのだ、と。そして同時に見た目が正反対のような二人は、正真正銘親子なのだということも、きっと確信したに違いない。
「ど、どういうことですか!? お父様、わたくしは何も聞いていませんよ!?」
「まぁまぁ、まずは座りなさい。淑女らしくしていないと、帰ってから叱られるぞ」
「っ!!」
ハロラーク侯爵のその言葉は、あまりにも効果てきめんだった。興奮していたキャンベルを一気に冷静にさせ、そしておとなしくソファーに座り直させたのだから。
けれどきっと、この時点で誰もが悟ったことだろう。ハロラーク侯爵自らが叱るのではなく、誰か別の人間に叱られるとキャンベルに告げたということは、その人物はハロラーク侯爵家で最も恐れられているということで。そしてこの会話の流れからして、そんな人物は一人しか存在していない。
世間では多くの貴族から恐れられているハロラーク侯爵だが、実はハロラーク侯爵家の中では彼すらも恐れている人物こそが、ある意味で頂点に立っているのだ。そして同時に、ハロラーク侯爵が最も愛してやまないその存在とは、当然。
「お父様……お願いですから、このことはどうかお母様には内緒にしていてください。心乱さぬよう、今後はもっと淑女らしく振る舞うことをお約束いたしますから」
そう、ハロラーク侯爵夫人、その人だ。
親子の中には、同じ意識があるのだろう。アイスグリーンの瞳とグレーの瞳が見つめ合ったあと、二人同時に小さく頷く。
「分かっている。今回は仕方がなかった、そういうことにしておこう」
「はい。ありがとうございます、お父様」
なぜかしっかりと分かり合えている親子の会話を聞きながら、どこも同じようなものだなとダルメン侯爵家の面々が思ったのかどうかは、この場では誰にも分からなかった。