1.初顔合わせ
ここエーフェルス王国では、貴族というものは幼い頃に親によって婚約者が決められ、成人するまでの間に少しずつ交流を深めていき、やがて婚姻を結ぶというのが一般的だ。だが今日はじめてダルメン侯爵家へとやってきた侯爵令嬢ことキャンベル・ハロラークは、先日ついに十六歳の誕生日を迎えたというのに、いまだ婚約者と言葉を交わすどころか顔を合わせたことすらなかった。
王族以外の要人を守る使命を帯びた、第三騎士団。キャンベルの父親こそがその第三騎士団長なので、当然婚約者はしっかりとした相手が選ばれているにもかかわらず、どうしてそのような事態に陥っていたのか。キャンベル自身は相手の家の都合だとしか聞かされていないので、全く詳細を知らないまま。もう十年近く、婚約者とは手紙のやり取りしかしたことがない。
「お父様。本当にわたくしは、本日ロボロフ様にお会いできるのですよね?」
アイスグリーンの大きな瞳に、艶やかなバターブロンドの髪。色合いも相まって儚げな印象を与えるこの美少女が、キャンベル・ハロラークその人だ。そんな彼女の淡い桃色の唇から紡ぎ出される言葉は、不安そうに揺れていて。父親を見上げるその瞳は、どこか潤んでいるようにも見えた。
「もちろんだ。ジャンガルとしっかりと話し合って、今日こうしてダルメン家へと足を運んでいるのだからな」
対して彼女の父親であるブラント・ハロラーク侯爵はといえば、本当に親子なのかと疑いたくなってしまうほどの鋭い目つきといかつい顔をした大男で、王国内でも上から数えたほうが早いほどの剣の達人だ。だが今の彼は父親らしい表情をしながら、愛娘に向けてそのグレーの瞳を柔らかく緩めている。
口元を覆っているのは、髪色と同じダークブロンドのヒゲ。その向こうでキレイに並んだ白い歯が顔を見せている姿は、人と場合によっては恐ろしささえ覚えてしまうものかもしれないが、娘であるキャンベルにとってはそれが安心できる父親の表情の一つであったことは、幸いだったのかもしれない。
「そう、ですよね。こうしてお屋敷にお招きいただいているのですから、わたくしが心配する必要などありませんよね」
「そうだそうだ。この父に、全て任せておけばいい」
「はい、お父様」
ダルメン侯爵家の応接室で交わされる親子の会話は、言葉だけを聞いていれば一見微笑ましくも思えるのだが。父と娘の対比があまりにも大きすぎて、慣れていないダルメン侯爵家の使用人たちからすると、ハロラーク侯爵に一切脅える様子のないキャンベルの存在こそが、不思議で仕方がなかった。
ちなみにこの初顔合わせの場が整えられた真相はといえば、お互いの父親同士が「このまま一度も顔を合わせずに婚姻を結ぶというのは、さすがに問題だろう」と判断したことにより実現したのだが。そうでなければ、二人は今もまだ手紙での交流しかしていなかったことだろう。
と、ここでようやく応接室の扉がノックされ、その向こうからこの屋敷の主であるジャンガル・ダルメン侯爵が姿を現した。ハロラーク侯爵とは違い、この国の平均的な身長をしているダルメン侯爵はシルバーアッシュの髪色も相まってかとても優しそうな顔つきをしており、古くからの友人だという侯爵同士は見た目だけならば完全に正反対だった。
「待たせてしまってすまない。来てくれて嬉しいよ、ブラント」
「いやいや。他ならぬジャンガルの頼みとあらば、どこへでも行くさ」
だがなぜか、二人は完全に意気投合しているようで。この時もしっかりと握手を交わして、嬉しそうに笑い合っていた。
父親が立ち上がったことで同じようにソファーから立ち上がったキャンベルは、この時ダルメン侯爵の視界からは完全に消えてしまっていて。そのことに気付いたダルメン侯爵が、ハロラーク侯爵の向こう側から顔を出してキャンベルへと優しいサファイアブルーの瞳を向けて、にっこりと微笑んでくれる。
「はじめまして、キャンベル嬢。わざわざ我が家まで足を運んでくれて、本当にありがとう」
「ダルメン侯爵様、お初にお目にかかります。こちらこそ、本日はお招きいただきありがとうございます」
キャンベルが淑女教育で身に着けた完璧なカーテシーを見せると、ダルメン侯爵の口から自然と感嘆のため息がこぼれた。
社交界嫌いで滅多に姿を現さないことで有名なダルメン侯爵家は、しかしそれが許されるほどの重要な極秘任務を王家から直々に任命されていることもよく知られている。その内容は秘匿とされているが、その分代々跡継ぎに嫁いできた令嬢はその誰もがダルメン侯爵家に相応しい、由緒正しき家柄の出だった。そのためカーテシーの美しさには、ある意味でダルメン侯爵も見慣れていたはずなのだが。
「これは……。聞いてはいたが、想像していた以上だ」
「そうだろう、そうだろう。キャンベルは自慢の娘だからな」
驚きに目を見張るダルメン侯爵の様子に、言葉通り自慢気なハロラーク侯爵。だが実際それほどまでに、キャンベルの見た目は美少女としか形容できないようなものだったのだ。
しかしなぜか、ダルメン侯爵の顔が徐々に険しくなってきて。
「いや、うん……そうなると、逆に、だな……」
「問題ありそうか?」
歯切れ悪く言葉を紡ぐその姿に、ハロラーク侯爵までが険しい顔をし始めてしまった。
どういうことなのかと、一人理由も分からずに立ち尽くすキャンベルだったが。
「父上、そろそろご挨拶させていただいてもよろしいでしょうか?」
二人の侯爵の、さらに向こう側から聞こえてきた爽やかな声に、ようやくこの時が来たと胸が躍る。長い間、こうして婚約者と顔を合わせる日を心待ちにしていたのだ。どんな人物なのかと、その姿が見られる瞬間を今か今かと待ち構えて。
「あぁ、そうだったな。ブラント、キャンベル嬢。我が息子のロボロフだ」
「お初にお目にかかります、ハロラーク侯爵。ダルメン侯爵家が長子、ロボロフと申します。我が家の事情で直接お会いするのが遅くなってしまい、大変申し訳ございませんでした」
「いやいや、こちらこそ。訪ねてくるのが遅くなってしまって、すまなかった」
父親と婚約者が握手を交わしている姿を、後ろからほんの少しだけ見えている部分だけを眺めながら、しっかりと観察していた。その際に分かったことは、婚約者の父親であるダルメン侯爵のシルバーアッシュの髪よりも、ロボロフのほうがより輝きを増したようなプラチナシルバーの髪色をしていたということだけ。その大部分が彼女の父親であるハロラーク侯爵の大きな体躯に隠されてしまっているせいで、雰囲気すらいまだつかめずにいた。
だが、待ち焦がれていた瞬間がようやく訪れる。
「キャンベル、ご挨拶を」
「はい、お父様」
振り返ったハロラーク侯爵に促されて一歩前に出てきたキャンベルは、そこでようやく自らの婚約者との初対面を果たしたのだった。
侯爵子息であるロボロフ・ダルメンは、父親譲りの優しそうな見た目とサファイアブルーの瞳、そして輝くプラチナシルバーの髪に薄い唇という、社交界に顔を出せば一躍有名になりそうな見た目の美青年だった。
実際彼はキャンベルとは二歳違いで、今年十八歳になる。普通の貴族であれば、そろそろ本格的に社交界に出始める時期でもあった。とはいえダルメン家の人間である以上、おそらく彼も今後社交界に顔を出すことは滅多にないのだろう。
しかし、今重要なのはそういったことではなく。
「っ――!」
キャンベルと目が合った瞬間、どこか驚いたような表情を浮かべたロボロフは、次の瞬間。ポンッというどこか間抜けな音と共に、キャンベルの目の前から突然消えてしまって。
「…………はい……?」
困惑するキャンベルの視界に、落ちていくロボロフの服だけが映ったのだった。