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短編集『トタン屋根を叩く雨粒のような』

予感

車社会の田舎町、 のどかな田んぼの景色に混ざってポツンと工場がある。 鉄工所は従業員数103人、 給料は周辺の工場と変わらないごく普通の会社だ。


俺はニュースを見るのが嫌いだ。 1日が最悪の気分になるからだ。 どこで殺人があっただのどこで火事があっただの誰が誰と不倫しただの。何も関係の無い無害な人の心をニュース番組は荒らしていく。 だから俺は普段はバラエティー番組しか見ない。


しかし仕事ではそうもいかない。 会社の昼休みは地獄だ。 真っ白な長机が4列綺麗に並べられた、殺風景な食堂で、会社が契約している安くて不味い弁当屋の飯を食う。 俺はここで無感情の食事をもう1年以上も続けている。


狭い机で対面して座るから、絶対にむせたりしてはいけない緊張感がある。 俺の目の前には加工の課長がいる。 俺は組立の2年目。 直接は関係無いけど、権力を持ってるヤツってのは、存在するだけで邪魔だ。 もちろんこいつが悪いことをしたわけじゃない。


この部屋で唯一感情のあるテレビからは憂鬱なニュースが放送されている。


『交際相手を殺害した男性は 「別れ話をされてついカッとなってしまった。 彼女が人生の全てだった」と述べているようです 』


「フフッ」


加工の課長が鼻で笑った。 邪魔なだけのおっさんだと思っていたが、この瞬間、俺はこいつを心底恥ずかしい人間だと軽蔑した。


ヂリヂリヂリヂリヂリヂリッ


チャイムが鳴ると皆んな一斉に午後の仕事を始める。俺は何の役に立つのか不明の、3辺60cmくらいの鉄の塊を組み立てている。生きる為には金がいる。理由や意義に蓋をして、ひたすら設計図通りに組むだけだ。ここは大量生産の工場ではない。各々に持ち場があって、基本1人で作業する。仕事の速い連中は他所の持ち場に雑談を仕掛けて、遅い連中の邪魔をするのが伝統だった。黙々とボルトを締めていると5年先輩の田島(まじま)が話しかけて来た。


「なぁ佐藤。 お前ってどんな女がタイプなの?」茶髪でパーマをかけた大柄な男がズケズケとした顔でズケズケと聞いてくる。


「えっ!?急っすね、北沢(きたざわ)芽依子(めいこ)とか可愛いと思いますよ」 俺は恐る恐る萎縮気味に答えた。


「なんだよ国民的アイドルのセンター出されてもつまんねーよ 」乱暴かつ気怠そうに田島は言い放つ。この人はいつもこうなのだ。つまるだろ。悪いかよ。


「アハハ、 すいません」何も悪いことなんかしてないのに、ペコペコお辞儀をしてしまう。条件反射ってやつだ。俺は怒りの感情を調節するのが学生の頃から苦手だった。


「てかお前のそのから笑いみたいなの止めろ。 ムカつくんだよ。 でさー、お前ってゲイなの?」田島は、俺を見下すだけでは飽き足らず、心に残るような傷を、軽はずみに付けていく。「メシでも食いに行く?」と誘う時のような表情だった。この男は、人の目を見て銃を撃つタイプだろう。


「はい?何でそうなるんですか?」ショックが大きすぎて怒ることすら出来ない。


「そんな気がするんだよ、 違うの?」田島は人間と話すのが初めてなのだろうか?


「アハハ、 違いますよ」なぜ俺は怒らない?こんなヤツにまだ好かれたいのか?


社会人になって気付いたことがある。


俺は仕事になると常に(おび)えていて、人とのコミュニケーションが普通に出来ない。その上、彼女がずっといなくて、いつもビクビクしているのが女々しく見えたのが、あんなに配慮のない質問をぶつけられた理由だろう。


俺は嘘はついていない。 北沢芽依子は写真集だって買った。 田島が自分より10cmほど背が高くてガタイのいい力持ちだから俺は強く言い返せなかったのだろうか。 死んだ方がいい人間っていうのは犯罪者だけじゃ無いよなと誰かに聞いて欲しかった。 ゴールデンウィーク前最後の仕事はクソみたいな1日だった。



***



ゴールデンウィーク初日、 俺は大学のサークルの仲間と飲み会の約束をしていた。 今はもう無くなってしまった演劇サークルの同期5人。 結局プロになったヤツは1人もいなかった。 特別好きだったわけでも、尊敬してたわけでも無い、5人のために俺は久しぶりに東京に来た。


新宿の初めてくる居酒屋に呼ばれたのだが、俺が最初に到着したらしい。 座敷で1人ポツンと待つ。 メニュー表をじっくり見るが、よくあるチェーン居酒屋の派生のようだ。味は期待しない方がいい。


「よぉ、 久しぶり!」陽キャそうな美人が現れた。


2着目は同期の紅一点(こういってん)星野(ほしの)だった。社会人になって髪は暗くなったが、ミディアムヘアの毛先を跳ねて遊ばせている。愛らしい大きな瞳はキラキラ輝いていて、相変わらず得の多そうなビジュアルだ。


「久しぶりだな。 なんか雰囲気変わったか?」化粧が変わったのか、少し大人びて見えた。


「どうかな?新しい彼氏が出来たんで色気増したのかもな 」星野はすぐに調子に乗る。どうやら今でもモテてしょうがないらしい。プロの俳優になっていたら、色々スキャンダルに苦しんでいただろう。


「順調そうで良かったよ 」俺は言いたいことを全て抑え込んで、穏やかに対応した。




「よ!元気してたか?」小学生がママと初めて床屋に行った時のようなサラサラ前髪カリアゲ坊やが現れた。世界に数多ある眼鏡の中で、最もダサい物を今でも愛用しているようだ。


3着目は前川(まえかわ)。 こいつは「元気してたか?」なんて言うキャラではなかった。 俺と前川は気が合わないというかお互いに嫌っている。こいつの声は生理的に無理なのだ。


「前川も社会人っぽくなったな」無理矢理笑顔を作った。社会人として頑張っている健闘を称えた。


「老けたって意味かよ。 お互い様だろ」前川は一瞬で不機嫌になった。そんなつもりで言うわけがない。でも安心した。 やはり前川も田島と同じ種類の人間のようだ。



「あれ?まだ頼んでなかったの?」分かりやすい赤いパーカーの男は軽いノリでやって来た。


「それを言うならありがとう、待ってくれてじゃね?」このメンバーで唯一の常識人が赤い男にツッコミを入れる。


残りの2人は同時に来た。 赤井(あかい)樋口(ひぐち)は相変わらず仲が良いようだ。


「じゃ、 とりあえず全員ビールでいい?」


「さすが樋口は仕切り屋だなー」


「星野いきなり当たりがきついぞ 」


「うるせー田舎もん」


同期の中で地方で就職したのは俺だけだった。 若者が東京に集中して就職するのは良くないと思っていた。同世代に俺みたいな考えの人間は滅多にいない。 しかも同期で転職したのも俺だけ。 俺は新卒1年目で仕事についていけず、半年で退職し、残りの半年就職活動をして、何とか今の鉄工所に転職できた。 俺だけだった。 転職で仕事内容も給料もランクダウンさせたのは。


俺の左隣に赤井、赤井の前に樋口、俺の前に星野がいて、その隣に前川が座った。飲み始めて2時間ほど経った。 事件は突然起きた。


「前川やっぱ不器用だわ。 女心をまるで分かってない」 ほろ酔いの星野が俺の天敵をロックオンした。


前川はマッチングアプリで知り合った女性にブチギレられたらしい。 星野のお説教が始まった。 同期で唯一の女だった星野は、時々俺たちに女心を教えてくれた。 恋愛弱者の俺たちにとって、星野は先生みたいなもんだった。


しかも星野は顔が良かった。 正直に言って、俺がリアルで見た女の中ではトップレベルに可愛かった。 だからサークルの中で星野はチヤホヤされていた。 いつも偉そうで意地悪な部分は皆んな目をつぶっていた。


「前川は顔が悪いんだから、もっとそういうこと勉強しなきゃダメだろ 」星野が雑に前川の肩を掴んで揺さぶる。


「そうだね。 色々ネットで調べたんだけどな」前川は両手をモジモジさせて縮こまっている。馬鹿にされてるのに、嬉しそうなのがキモすぎる。


「本当に可哀想、 ウケるわ、 ハハハ」 星野、そんなに人を馬鹿にしても許されると思ってるのか?こんなのおかしいだろ‥‥


「お前に前川の何が分かるんだよ!」俺は反射的に前川を(かば)った。酒のせいだろうか。


「星野にお前呼びすんなよ!」前川が謎の理由で言い返してきた。お前がキレるべきなのは、星野じゃねーのか?てめーの味方してんだぞ?気持ち悪いくせに‥‥。やばい血が昇っていく。


「前川!てめーやんのか! ゴミやろーが!!」自分の顔が赤くなっているのがハッキリと分かるくらい、眼球まで血でパンパンだ。


「はぁ?キレんなよダセーぞ 」急に前川は斜に構えた。そしてこのタイミングで枝豆を1つ取る。怒りか怯えか、手が震えて結局食べずに小皿に置いた。


「何クールぶってんだよ!俺はてめーがずっと嫌いだったんだよ!!!」殺気が湧き上がるのをどう止めたらいいのか分からない。周りから人が消えたかのように、他人の視線が気にならない。


「俺だって嫌いだよ! 急にでかい声出して気持ちわりーよ!」前川に気持ち悪いと言われた‥‥


「はぁ!?てめー殴り殺すぞ!!!!」その瞬間、赤井が俺を羽交締めにした。


「ちょっとお客様!大変迷惑です!すぐ店から出て行ってください!警察呼びますよ!!」





俺はどうしてしまったのだろう。 大学4年間ずっと我慢できていた前川への気持ちが爆発してしまった。 そもそも何で最初はあいつの味方をしたんだろう。 何もかも分からなかった。 店を出ると前川と星野は帰ってしまった。


「なんかあったのか佐藤?」樋口が心配そうに訊ねる。


「ごめん、 樋口。 せっかく久しぶりに集まったのに」 俺は自分に、こんなに凶暴な一面があることを初めて知った。


「あんなことになるくらい飲んでたか?マジでヤバかったな。 正直ドン引きだわ」赤井が軽蔑を隠さずぶつける。かなり堪える。


「赤井!やめろ!」樋口の方が異常なのかもしれない。


「俺もう帰るわ。 まだ新幹線あるし」俺は2人に背を向けた。


「せっかく来たのにもう帰るのか?」すごいな。樋口みたいに俺はなりたかった。


「帰りたがってんだから帰らせてやれよ」赤井はもう2度と俺と会ってくれないかもしれない。


「ごめん、 じゃあね」


俺が歩き出すと、赤井が「あいつマジでいつか人殺しそうじゃね?」と言っているのが聞こえた。


分かっていたがこの時間では新幹線に乗れてもその先がもう無い。 俺は近くのネットカフェで一泊し翌朝1番早い新幹線で帰った。



***



「もしもし。 俺だけど」ワンルーム、ベッドに腰かける。


「電話久しぶりだね。 ゴールデンウィークだから東京にいるんじゃないの?」一軒家、椅子に腰かける。


「そっち帰れば良かったかも」白い壁に伸びた影を撫でるように視線を転がす。


「後半からこっち来れば?」俺にはまだ心配してくれる人がいる。


「飛行機はめんどくさいから電話でいい」何で離れた所で就職したんだろう。


「なんかあったの?」この人にとって、俺はいつまでも子どもなんだなぁ。


「ストレスなのか分かんないけど、怒りが爆発しちゃって色々迷惑かけちゃってる 」コントロール出来ないのが職場で出たらマズい。


「そうか。 頑張りすぎちゃったのかな」これが母性か。


「こうして母さんに頼りたくなるくらい弱ってる」 情け無い話だ。


「人間関係だったら上手く出来そうだけどね。 ほら、 中学生の頃母の日に花束くれたでしょ?」母さんはよっぽど嬉しかったらしい。


「またその話?」


「あの頃の気持ちに帰ればいいんじゃない?」


「あの頃の気持ち‥‥」


中3の頃、 放課後に制服のまま花屋に行った。 母の日に何かしたことは無かった。 その日も特に何かしようとは思ってなかった。 突然なぜか、帰り道の途中にある花屋に行かなきゃいけない気がして、衝動的に店に入った。


「いらっしゃい」


50代くらいの男の店員が声を掛けてきた。 花屋と言えば20代の女性店員という勝手なイメージが崩れた瞬間だった。


「えっと。 花屋に初めて来たんですけど‥‥」財布を開くと500円しかない。


「500円で、何でもいいので花束って出来ますか?」


「500円か〜。 うーん」


おじさんはケースの中から何本か花を選んで包んでいる。 花って一本いくらなんだろう、とか考えていると、おじさんが花束を見せてくれた。


「こんな感じでいいか?」


「あ、 すごくいい感じです。 それでお願いします」


「兄ちゃんな、 500円では見栄えの良い花束は買えないんだ。 覚えといてな。 これ1000円分の花束だから、今日はこれ持っていきな」おじさんは何とも照れくさそうに伝えると俺の掌から500円玉を回収した。何を言ってるのか一瞬分からなかったが自然と言葉が出てきた。


「ありがとうございます 」


俺の人生最後の瞬間には走馬灯で出てきてほしい、 そんな思い出‥‥




「母さん、 どうすれば人に優しくしてもらえるかな?」自然と出た質問。不器用すぎる質問。


「優しくしたら返ってくるものじゃない?」そうあって欲しいが、そんな世の中ではない。


「そんなのAIでも分かるような答えじゃんか。 世の中そんなに正しくないよ」 答えが欲しい。


「やっぱり帰ってくれば?」


「考えとく 」



***



今年のゴールデンウィークは前半は3日間休みで、平日を3日間挟んで、後半は4日間休みだった。 ‥‥前半が終わろうとしていた。


「酒まだ飲みてぇ」


俺は最寄りのコンビニで晩酌の追加を購入することに決めた。 一日中パジャマだったのに、夜の10時になって着替えをしてる自分が馬鹿らしい。 鏡を見たら「殺すぞ」という言葉が自然と出た。 鏡の中の自分に言っているのかよく分からないが 『自分らしい』 と思った。 自分らしいと思ったことに少し動揺しながら夜の散歩に出かけた。


2階建てアパートの2階に住んでいる俺は外階段を慎重に降りた。 アパートの横には小さな公園があり今の時間は誰もいない。 家からコンビニまで徒歩10分くらいある。


茶色の猫が目の前を横切る。 こんな時間に外出なんて家がないのだろうか。


コンビニの前、 若い女性が2人で話している。 1人と一瞬目が合った感じがしたがどうでもいいことだ。 俺は店内で日本酒の4合瓶を1本とスモークチーズ1袋を買って店を出る。 買い物袋を持ってなかったので右手に日本酒、 左手にチーズを持っていた。


俺が店を出たと同時に店前で話していた女の1人が「うわぁ、 臭そう。」と言った。 酔っ払って鈍感になっているはずだが、俺はそれを聞き逃さなかった。 一瞬俺の動きが止まる。 女性2人を含む周囲の空気が一気に凍りついた気がした。


「はっ 」


我に返ると俺は走って家に向かった。 あの一瞬の間に俺は酷く恐ろしいことを妄想していた。 「臭そう」 が自分に向けられた言葉なのかも、そもそも空耳で違うことを言っていたかも、何も分からない、 何も根拠なんか無いのに、俺は頭の中で暴力的な犯罪を犯していた。


徒歩10分の道のり、 道には絶えず灯りが灯されている。 俺には逃げ場はない。 皆んな見てる。


ハァハァ


公園が見えた、 もう安全だ。


ハァハァ


結局その日は日本酒とチーズには手をつけなかった。



***



翌日、 連休を中断する3日間の初日。 俺はいつものように鉄の塊を組み立てている。 今日も田島が話しかけてくる。


「佐藤、 ゴールデンウィーク何してた?」いつものように気怠そうに絡んでくる。


「初日は東京で大学の友達と会ってました」詳細はとても話せそうも無い。


「大学の友達ねー。 この会社高卒ばっかりだし、 お前みたいに大学行けたやつ羨ましいわー。 ずっと遊んでるんだろ?親が金ないと無理だよなー」田島はペンチを握力を鍛えるグリップのように開いたり閉じたりしている。


「俺の親なんか酒飲んで暴力振るってで家庭めちゃくちゃだったんだよ。クソな人生だよなー」なるほど、それでこの仕上がりという訳か。良く耐えた方じゃないか。


「田島さんは娘さん大事にしてるし、今が良いから、結果良い人生じゃないですか 」珍しく無理しないで言葉が出て来た。


「まぁなー、お前フォロー上手いなー」田島は大きな手で俺の背中を2回優しく叩いた。


「あ、 ありがとうございます」


初めて田島と上手く接することが出来た。 母さんのアドバイスが効いたのだろうか。 特別何かしたわけではないが。



***



「明日からゴールデンウィーク後半だけど皆んなストレスチェック記入してから帰ってくれよー。 1年目は今回無しだぞー」声がウキウキの課長はもうゴールデンウィーク気分なんだろう。


「はーい 」1年目の後輩たちの目はまだ死んでいない。


「なぁ佐藤は今年からストレスチェック書くよな?」田島がまたちょっかいを出してきた。最近多くないか?


「あ、 はい」ほんのちょっとだけ嫌そうに返事をしてみた。


「正直に書くなよ。 こんなの正直に書いたら全員引っかかるんだよ。 引っかかると病院行ったり後がめんどくさいからよ、 絶対正直に書くなよ」田島から為にならないアドバイスを頂戴した。同じことを子どもに言えるのか、と言ってやりたいが、彼が育った背景を知ってしまったので、我慢しなきゃいけない。


「そうですか」俺は力無く答えた。


俺は田島に見つからない場所でストレスチェックを記入した。 正直に記入したから分かる。 俺は後日病院に行くことになるだろう。



***



実は俺には趣味がある。 美術館巡りだ。 大学生の頃はよく美術館に行った。 お気に入りの絵がポストカードになっていたら必ず購入し、 ファイルしていた。 思い出のポストカードを見ている時は穏やかな時間が流れていた。


ゴールデンウィーク後半の3日目は上野にやって来た。 後半の最初2日間はダラダラ過ごしたので今日は充実させたい。 お目当ての美術館は当然ながら混んでいた。 館内に入ると自然と背筋が伸びる。 そして人間はこんなに繊細に絵を描けるものなのか、と毎度お決まりのように驚く。 今回の展覧会も宗教画や貴族の肖像画が多かった。 当時の天才画家たちは他に描きたいことがあったはずだが、画家を続けるために皆苦労をしたのだろう。 こんなに時代が変わったのに、自由を手に入れるのは今日(こんにち)でも難しい。 展覧会で異彩を放っていた画家の版画、「(きよ)められた何ちゃら」のポストカードを購入して大事にリュックにしまった。




電車に揺られながら晩ご飯はどうしようかと考えていると青い服を着た集団と白い服の集団がホームにぎゅうぎゅうに立つ異常な光景を目にした。


「最悪 」


背後の乗客が皆んなの代弁をしてくれた。 俺はリュックを前に抱え込み、 ドアの隅に移動し手すりをギュッと掴んだ。


ピコーンピコーン


ゾロゾロ


今日はサッカーと野球の試合が被っているらしい。 タイミングが悪かった。 人間が雪崩れ込んでくる。 あっという間にぎゅうぎゅう詰めになった。 壁に押し付けられる。 背中をグッと押される。 久しぶりにこんな目に遭う。 もう東京に住むことは一生無いと誓うに値する不快感がここにはある。 ポストカードは本に挟んだから無事だろう。


揺れと圧力によって壁に口づけしそうになって慌てて網棚の方を見る。 ふわっと良い香りがした。 背中の方を見るとサッカーのユニフォームを着た可愛い女性がいた。 ずっと自分を押していたのはこの人だったのか。 それにしても可愛い。 星野よりもずっと‥‥。


「はっ」


壁に向き直り、額を壁に押し付ける。


プシュー


ピコーンピコーン


「すいません、 降ります」


こんな駅に用などない。 しかし降りるしかなかった。 残酷な自覚。


「俺はもう東京には住めない」


ホームのベンチでぐったりと肩を落とした。



***



「よぉ、 佐藤。 ゴールデンウィーク何してた?」田島は休みを満喫した様子で、いつもより明るかった。


「美術館行ってました」暗い気持ちを抑えて、何とか明るく振る舞う。笑顔を作るまでには至らない。力がもう残ってないから。


「へぇー、 インテリなことしてんだな。 さすが大卒」 能天気な男だ。それにしても毎度雑談しに来れるほど、仕事が早いのは、尊敬に値する。


「そういう田島さんは何してたんですか?」聞いて欲しそうだから(たず)ねるしかない。


「俺は風俗行ってたわ。 最近めっちゃ可愛い子入ったって噂になってたから確かめて来た」 なんだよ聞かなきゃ良かった。


「奥さんも娘さんもいるのに良いんですか?」大事な人を裏切ってまで楽しいか?そもそも倫理的にあり得ない遊びだ。


「はぁ!?お前どんな人生送ってきたんだよ!ドン引きだわ!お前も週末行ってこいや!」本当に驚いた顔をしてるから、コイツ悪いことだと思ってないのか。世界が違う。文化が違う。


「そんな所行かないですよ!」初めて田島に強く否定した。軽蔑の眼差し。差別ですらある。


「やっぱりお前ってゲ....」


「違います!そんな非人道的な所には行きません!ポリシーです!」駄目だイカれてやがる。話が通じない。小学生にだって分かることだ!


「ヒジンドウなんだ?つまんねーな。 この会社でそんなこと言ってんのお前くらいだぞ」 田島が一般論を語る、無茶苦茶な展開。いや、俺の方がおかしいのか?サークルでもコンビニでも電車でも‥‥この会社でも、俺がずっとおかしいのか‥‥‥?


「‥‥‥ちょっと便所行ってきます!」








ジャーーーーーーーー


水が流れるのをぼーっと見つめる。怖い映画の予告編でよくある、大量の血が排水口を流れる映像が思い浮かんだ。あんな映画を作るから、影響を受けて、犯罪に手を染める人が生まれるんじゃ無いのか?


キュッキュッ


冴えない顔が目に入る。冗談だろ。本当にこれが俺なのか?


「殺すぞ」


「チッ、変な癖ついちゃったな」


読んでくれてありがとうございました。

この作品には筆者が実際に上司に言われて内心ブチギレていた内容が含まれています。そのおかげでリアルな工場の雰囲気が出ました。後味悪い内容ですがやりたい表現が出来た気がします。

ちなみに佐藤が購入したポストカードは、ダリの『浄められたダンテ』です。

ではまた!

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