第八夜
またしばらくキャンパス内をのろのろと歩いて、わたしは、目的の場所にたどり着いた。イチョウの木々に囲まれた、四階建てのレンガ造りの古い建物。
わたしを呼び出した浜屋先生は、だいたいいつも、ここの二階のオフィスにこもっている。
入口のガラス扉を開け、エレベーターを使うか、それとも階段で登るかを、立ち止まって考える。カロリーを使うか、楽を選ぶか。
その時ふたたび、誰かが背後のガラス扉を開いた。
はいって来たのは学生ではなく、中年の男性だった。
長身で細身、長い脚。
やたらとさらさらキラキラした茶色い髪。醤油顔の端正な顔に掛けられている、薄い青色のサングラス。……おぉ、いわゆる「イケおじ」ってやつか。
男性はわたしの横を通り、エレベーターの昇りボタンを押した。すぐに到着を報せる電子音が鳴り、その扉が開いた。男性はサッとそれに乗り込み、それから、内側のパネルに手を伸ばした。
……扉が、閉まらない。
「乗る?」
不意に、男性がそう言った。
あ、わたしを待っててくれてたのか。
「ごめんなさい! 乗ります! すみません!」
わたしはそう言って、慌ててエレベーターに飛び乗った。男性が纏った、香水とは違うなんだか甘くて柔らかな香りが、鼻先をくすぐった。
「何階?」
男性が、二階のボタンを押しながら言った。
「あ、同じです。二階」
わたしがそう言うと、その男性は、ボタンから指先をそっと離した。
ドアが閉まった。独特の駆動音を響かせ、エレベーターが上昇する。
また電子音がして、扉が開いた。
男性はわたしに、先に降りるようにと促した。
一礼して、自分からエレベーターを出る。
それから右に曲がって、しばらく歩く。
浜屋先生が常駐している、オフィスの扉の前に立つ。……と、そこに、さっきの男性がゆっくりと追ってきた。
……この人、浜屋先生のお客さんなのかな。
そう考えながら、わたしは、ドアを三回ほどノックした。
「どうぞー」
という声が中から聞こえた。わたしは「失礼します」と言いながら、ドアを開けた。
オフィスでは、浜屋先生がいつものようにパソコンの画面と睨めっこをしていた。
顔が近い。
相変わらず、きっちりと隅々まで掃除お手入れがされた部屋だ。窓辺の観葉植物は陽光を浴びて、ご機嫌そうにきらきらとその葉を輝かせている。デスクの上のコーヒーカップから、白い湯気が立っていた。
「浜屋ー。はいるぞー」
わたしが入室したすぐ後に、さっきの男性がそう言いながらノックもせずに無造作にはいってきた。
「おぉ! 氷瑞ひみずさん」
浜屋先生は、男性を見るとその顔に満面の笑みを浮かべた。キーボードを打つ手を止めて、すっくと椅子から立ち上がる。
知り合いなんだ。
……てか、なんだっけ。氷瑞さん? その名前、どっかでつい最近きいたような気がする。
わたしは、応接セットのソファにどっかりと腰を落としたその中年の男性を、あらためてまじまじと見た。
長身、細身。
さらっさらの茶髪、やたらと長い足。ちょっと猫背。
……わたしの中で、昨日の出来事が思い出された。
ギターを貸してくれた、白塗りメイクの、タキシードの男。
え……まさか。
「……伯……爵?」
わたしがぽつりとつぶやくと、浜屋先生とその男性は、ギョッとした貌を、ふたりしてわたしの方に向けた。