第七夜
そんなに混んでない電車に揺られて、わたしは学校に向かっている。午前十時の、なんだかぽかぽかと暖かいJR山手線。
高田馬場駅に着いた。ちいさいため息をひとつつき、電車を降りる。
いつもの発車メロディが、穏やかに構内の宙に流れる。わたしは、その「鉄腕アトム」の歌を口の中だけでちいさく歌いながら、Suicaをかざして、改札口を出た。
のろのろと、いつもの道を歩く。
少し進むと、右手にインド領事館の立派な建物が見えてくる。そして、そのすぐそばのカレー屋さんから漂ってくる、ツンと食欲をくすぐるブレンドされた香辛料の香り。
はじめてこの道を通ったとき、わたしとお母さんは、この香りはてっきりその領事館から漂って来たものだと思った。
そしてそのあと、門の隣のカレー屋さんに気付いて、ふたりでおなかを抱えるようにして笑った。……それはそうだよね。いくらなんでもインドでも、領事館からカレーの香りなんて、そんなことはありえない。
古本屋さんの軒先や映画館の上映予定表に目を奪われながら、わたしは、やがて学校にたどり着いた。たくさんの緑に包まれた、茶色い煉瓦壁の建物。
校内見学の御一行をかわし、警備員さんに会釈をしたりしながら、のろのろ歩く。
「かーすみ」
不意に呼び止められ、わたしは、そちらに振り向いた。
そこには、右手にコーヒー、左手にコンビニ袋をぶら下げた結衣が立っていた。ちなみにこの子が、わたしの動画をSNSでバズらせた張本人である。
「おはよう」
わたしがそう言うと、結衣はそれには答えず、
「昨日の、観たよ」
と言って笑った。
結衣のその言葉に、わたしは引き攣った笑みを返した。
*****
昨日は、収録が終わると、わたしはモンセクの皆さんや局のスタッフ、白井マネージャーに挨拶だけを済ませて、早々にスタジオを飛び出した。
そこにたまたま来た個人タクシーを、右手を挙げて呼び止める。前頭部が禿げ上がった、中年の男性運転手。
行き先を告げて、わたしはシートに深く腰掛け、寝たふりを決め込む。深夜タクシーの運転手さんはお喋り好きなひとが多いから、わたしは疲れてしまう。はじめのうちは、その世間話に真面目に応対していたものだけど、最近は、こうしてなんとか移動時間をやり過ごすようにしている。
タクシー内のテレビでは、わたしがさっき出演した音楽特番が映っていた。
二千年代にミリオンヒットを連発したギャルのカリスマが生放送で歌ったあと、モンセクの『拷問室の哀歌エレジー』が流れた。
伯爵がそのおおきな手で、真っ赤なギターを滑らかに、艶めかしくかき鳴らす。
その様子を、薄目を開けて眺める。
「モンセクか……。まだやってたんだな」
運転手さんが、誰にともなくそう呟く。
わたしはなんだかムッとして、思わずなにか言い返しそうになり、慌てて口をつぐむ。いかんいかん。寝たふり、寝たふり。
「次は、去年話題のあの女性歌手が、モンスターメタルセクションとの異色のコラボ!」
と、字幕が出てCMに入ったところで、
「はい、着きましたよ」
と声をかけられ、わたしは、寝たふりをやめて起き上がった。
結局、わたしが新曲を歌ったところは観られなかった。
*****
「凄いじゃん。昨日、一回トレンドに入ったよ」
結衣はそう言うと、わたしにスマホの画面を見せて来た。
そこには、昨日の夜九時半時点の、SNSのトレンドワードのスクショが映されていた。
#モンセク
#SUMIKA
と、わたしとモンセクの名前が並んでいた。
「まだ観てないんだよね。……どんなだった?」
わたしは、結衣にそう訊ねる。
「カッコよかったよ。あのモンセクってバンドもウケた。へんな格好して変な歌を歌って、そのあと花純と歌っ……」
結衣がおおきな声を上げるのを、わたしは、唇を人差し指で塞いで食い止めた。
「バカ、聞こえる」
わたしが言うと、
「ごめんごめん」
と、結衣はあまり反省していない様子でにかっと笑った。
わたしが歌手として活動しているのを知っているのは、この学校にはわたしを除いてふたりだけだ。そのうちのひとりはこの子。
「そうそう。浜屋先生が、教務室に来いって言ってたよ。花純の顔を見たら伝えてくれって」
結衣は、コーヒーをひと啜りして、そう言った。
わたしはちいさくため息をつき、
「……うん。いまから行ってくるよ」
と、結衣に答えた。