第六十夜 忘れもの
獣道ですらもない、藪と草木が茂る山の斜面。
おれは富希子を追って、がむしゃらに分け進んだ。蜘蛛の巣や、棘のあるなにかの実、葉っぱ。いろいろなものが身体中にまとわりついてきたが、構ってなどいられなかった。
不意に、開けた空間に出た。
1メートル四方もなさそうな、狭い空間だった。そこにだけ、草木が生えていなかった。
そこに、富希子が立っていた。
「富希子……」
おれが言うと、富希子は、黙っておれの手を握ってきた。
暖かく、柔らかい。
あの頃の、手の感触のままだった。
おれはなにも言わずに、真正面から、富希子のちいさな身体を抱きしめた。
富希子の手が、そっとおれの背中に回された。
「すまなかった」
おれは、そう言った。
何十年も言えなかった、謝罪の言葉。
はじめて、富希子にそれを伝えた。
富希子は、無言で首をちいさく横に振って、それから、消えた。
あっという間だった。
おれは、呆然としてその場に佇んだ。
なにが起こったのか、飲み込めなかった。
木々や草木の騒めきと鳥の声が、静かに、おれの周りを包んでいた。
その時、自分の足元に、なにかがあるのに気がついた。
黒っぽいなにかが、積もった枯葉や土にまみれて、ほとんど埋まった様な状態で落ちている。
おれは、膝を曲げて、それを拾い上げた。
黒い、エナメル製のポーチだった。その表面のデザインに、おれは見覚えがあった。
モンセクが、最初に行った大サバトの、公式グッズ。
富希子が来てくれたあのライブの、物販の品だ。
おれは、震える手で、側面のジッパーを開けた。表面は錆び付いてはいたが、それは、意外なほどに抵抗なく、容易く開いた。
そこには、見覚えのある物が、入っていた。
おれは、それを手に取った。
涙が一筋、おれの頬を伝った。
そこに入っていたのは、かつておれがサインを書いた、薗田富希子のウォークマンだった。
*****
「え、なんですか、それ!」
おれの姿を見るなり、花純はそう大声をあげた。
「なんでそんなに身体中葉っぱだらけなんですか!」
そう言いながら、花純は、おれの身体をパタパタとはたき始めた。
「具合いはどうだ?」
おれが訊くと、
「大丈夫です」
と、花純は笑った。
「なんかわかんないけど、座ってたらめちゃくちゃ楽になりました」
「そうか。よかった」
と、おれは短く答えて、それから、いま下りてきた慰霊碑の方向に、目を向けた。
その時だった。
おれたちの周りで、一斉にヒグラシが鳴き始めた。
そしてそれは、あっという間に鷹ノ巣の山中すべてに拡がった。
まるで、森全体、山全体が歌っているようにも、感じられた。
寂しげで、儚げで、そして、美しい歌だった。
「きれい……」
花純が、そう呟いた。
おれたちふたりは、そのヒグラシの歌に、しばらく目を閉じて聴き入った。
やがておれは、花純の肩に優しく触れた。
「帰ろうか」
と、花純に言った。
花純は、
「はい」
と、短く答えた。
ふたりして、また、歩き始めた。
最後におれは、もう一度慰霊碑の方を振り返り、
『また来るよ』
と、心の中でそう言った。
*****
わたしは「TOYO」のいつものカウンター席に座って、オレンジジュースを飲んでいた。
店内にゆったりと流れる、薗田富希子さんの歌声に耳を傾けて、なにをするでもなく、ただ座っていた。
がらんごろんと、入り口の鐘が鳴った。
隣りの……いつも伯爵が座る端っこの席に、青いワンピースを着た小柄な女の子が、背伸びをするようにして、『よいしょ』と座った。
薗田富希子さんだった。
わたしは、ぺこりとちいさく頭を下げた。薗田富希子さんも、にこりと笑って、頭を下げた。
それから、ふたりはなにも言わずに、ただ前を向いて、流れる音楽に耳を傾けた。
「ありがとう」
不意に、薗田富希子さんがそう言った。彼女の手元には、いつの間にか、グラスに注がれたオレンジジュースが置いてあった。
「え?」
わたしがそう訊くと、
「あなたのおかげで、やっと、氷瑞さんに会えた」
と、薗田富希子さんは微笑んだ。とても優しい笑顔だった。
「会えてよかった。ありがとう」
そう言うとジュースをひと口だけ飲んで、薗田富希子さんは、跳ぶようにしてスツールから下りた。
「じゃあ。わたし、行くね」
ワンピースの裾をふわりと翻して、彼女はドアの方を向いた。
「行く?」
わたしは、訊ねた。
「うん。みんな、先に行っちゃったから」
そう答えると、薗田富希子さんは、すこし寂しそうな貌を見せた。しかし、直ぐにまた元の明るい笑顔に戻り、
「さようなら!」
と、わたしに言った。
そして、手を振って彼女は店を出て行った。
がらんごろんと、ベルが鳴った。
「さようなら……」
わたしは、呟くように、そう言った。
*****
気づくと、わたしは、自室のベッドで横になっていた。
夢……か。
そう口の中で呟いて、わたしは、のそりとベッドから這い降りた。
壁の時計を見ると、まだ、三時半だった。夜明けまではずいぶん時間がある。
冷蔵庫に歩み寄って、その中から、ペットボトルに入ったお水を取り出す。蓋を開けて、ゆっくりとふたくちほどを流し込んだ。
それから、なんとなく夜の風を浴びたくなって、わたしは、ベランダの方に歩いた。
鍵を解あけて、ガラス戸をカラカラと開く。
生温かい、都会の夜の風。
こんな時間なのに、ちいさく響いてくる喧騒。行き交う車の音。遠くのサイレン。
なんだか、昼間の鷹ノ巣山の静寂が、夢や幻だったかのような気がしてきた。
「眠れないのか」
不意に、声を掛けられた。
伯爵だった。
伯爵も、ベランダの薄い仕切りの向こうで、外の景色を眺めていたのだ。
「いえ……」
わたしは、ちいさく答えた。
「夢を見ちゃって」
「夢?」
伯爵が、そう訊いた。
「はい」
わたしは、仕切り板越しに伯爵の横に立った。
「薗田富希子さんが、ありがとうって」
「そうか……」
わたしのその言葉を聞いて、伯爵は、ベランダのコンクリ柵に、そっと両肘を乗せた。
「おれも、一緒だ」
「え?」
わたしは、思わずそう訊いた。
「おれも一緒だ。富希子が夢に出てきて、ありがとうって言って、何処かへ行った」
そう言うと、伯爵は寂しそうに微笑んだ。
「お別れを、言いにきてくれたんですかね」
わたしがそう言うと、
「そうかもな」
と、伯爵は答えた。
わたしたちは、薄い板を一枚隔てて寄り添い、ふたりで夜の音を聞き、風を浴びた。
わたしは、伯爵の顔を見上げた。
伯爵も、ゆっくりとわたしの方を向いた。
ほんの僅かな時間を見つめあって、それから、伯爵の唇が、わたしの唇に優しく重ねられた。
わたしはすこしびっくりして、だけど、静かに目を閉じた。ほんのりと、いつもの煙草の匂いがした。
やがて、伯爵の唇が、ゆっくりと離された。
「おやすみ」
伯爵は、ちいさく笑って、そう言った。
「おやすみなさい」
わたしも、ちいさく笑って、そう答えた。




