第五十九夜 再会
花純が下りて行くのを見送って、おれは、さらに上を目指して、ゆっくりと階段を登り始めた。
汗が滴り、首筋や腋、背中が不快にぬめっている。
喉が渇き、足が痛む。
しかし、おれは、登る事を止めはしなかった。
あの日、中野であった、富希子の告別式。
あの時、おれは、焼香もせず、別れも言わずに逃げ帰った。
大阪にある実家や墓、そして、この鷹ノ巣にも一度も訪れた事がなかった。
そうだ。
おれは、今までずっと、薗田富希子が死んだという事実から、もう、この世にいないという現実から、ずっとずっと、目を逸らして生きてきたのだ。
いま、ついに、事実を認める時が来たんだ。
いまこそが、現実と向き合う時なんだ。
おれは、ひとつ息を吐き、震える足に活を入れて、また一歩、足を進めた。
やがて視線の先に、おおきな鐘と石碑が見えて来た。
そのおおきな石碑には、【昇魂の碑】と刻まれていた。そして、その先の岩肌に残された白い【×】の字。
その【×】印を目にした途端、おれの全身に、言いようのない、言い表しようのない感覚と感情が、悪寒と絶望感が襲いかかった。
ここか。
ここで、この場所で。
おれに裏切られて傷ついた薗田富希子が、失意の内に死んだのか。
おれは、なにかに吸い寄せられるように、その【昇魂の碑】に近寄った。
碑の前に立ち、そして、静かに手を合わせた。
その瞬間、脳裏に、最後に交わした、電話でのやり取りが甦った。
薗田富希子の、ちいさな吐息。
おれの名を呼んだ声。
背後から響く、人々の騒めき。
ああ。
あの時に、「行くな」と、言えていれば。
「今から行く」と、そのひと言を言えていたら。
そうすれば、こんなに辛い、こんなに悲しい未来は訪れはしなかったのだ。
「……富希子」
おれは、その名前を呟いた。本当に、無意識のうちに。
その時。
すぐそばの鐘が、乾いた音をたてた。
山風で揺れたのではない。それは、しっかりと規則的に三回鳴った。
おれは、その鐘の音に導かれるように振り返り、そちらを見た。
そこに、薗田富希子が立っていた。
あの時と、あの頃と同じ笑顔をその顔に浮かべて、慰霊の鐘の側に佇んでいた。
「富希子……」
おれが呟くと、薗田富希子は水色のワンピースをくるりと翻して、弾むような軽やかな動きで、登山道の脇に駆けて行った。
草木を掻き分ける音が、しなかった。
「待ってくれ!」
おれは、思わず叫んだ。
そして、その後を追って、生い茂った草木の中に、分け入った。




