第五十六夜 悪夢
そんなことがあってたまるか。
そんなバカな話が、あってたまるか。
……むかし、誰かが、どこかで言っていた。
「飛行機で事故に遭う確率なんて、自動車の事故に比べたらあり得ないくらいの低さですよ」
あぁ、そうだ。
確か、二丁目の路地裏にある、カウンターだけのちいさな居酒屋だった。
薗田富希子が死んだ直後だ。
おれがひとりで飲んでると、隣りに座ったサラリーマン風の男が、連れに向かってしたり顔でそう言い出したんだ。
「今回の事故も、よっぽど運と間が悪くなきゃ、乗る事なんてまずないんですから。客の誰かが、相当な疫病神だったんじゃないですか」
そう言って、あいつはへらへらと笑っていた。
おれは、なにも言わずにその横っ面をぶん殴った。
おとなになって、人を殴ったのは初めてだった。
殺してやるくらいのつもりで殴ったが、たいした傷は負わせられなかった。殴った方のおれの拳が、その後腫れ上がって、おかしくなった。
そのまま取っ組み合いになって、おれたちは、警察に突き出された。双方の事情を聞いた、定年間近だという温厚そうな白髪混じりの警官が、「あんたも悪いよ」とサラリーマンを嗜めて、結局、有耶無耶にして帰された。
そうだ。
それほどまでに発生確率の低い事故に、なぜまた、おれの大事な女が遭うハメになるんだ。
なぜ、おれが愛した女が、次々と不幸な目に遭うんだ。
おれは、固く手を組んで、祈った。
頼む、富希子。
どうか、花純を、そっちに連れて行かないでくれ。
どうか、花純を、こっちの世界に留めておいてくれ。
不意に、車が停まった。
「着きましたよ!」
運転手が、そう言った。ドアが開いた。
おれは財布から一万円札を出し、置いた。
「釣りはいい。ありがとう」
と、言い残して、タクシーを飛び降りた。
*****
案内カウンターには、すでに多くの人間が列を成していた。マスコミらしき姿も、チラチラと窺えた。おれは、その人混みを掻き分けるようにして、受付嬢に話しかけた。
「羽田発の佐賀行きは、どうなりました」
おれの風体を見て、一瞬、受付嬢は顔をこわばらせたが、努めて冷静に、こう続けた。
「恐れ入ります。こちらには、まだ、なにも情報は入っておりません」
焦れたおれは、
「なら、確認してくれ。いまどうなってるのか。知りたいんだ、とにかく」
と、頼んだ。無理な願いなのは、百も承知だ。
「申し訳ございません。新たな発表があり次第、必ずお伝えしますので」
申し訳なさそうな貌で丁寧に頭を下げられ、おれは、引き下がるしかしできなくなった。この子を責めてもどうにもならないし、なにも解決などしない。……わかっているんだ。そんな事は。
おれは、ちからなくロビーの椅子に座り込んだ。
おれの姿を見て、周りから、ざわざわといろんな声が聞こえてきた。だが、今のおれにはそんなものに構っている余裕などなかった。
と、その中に。
「伯……爵……?」
と、いう、聞き馴染んだ声が、不意に混ざった。
おれは、思わずその声のした方を振り向いた。
そこには、中里花純が立っていた。
キョトンとした貌をして、立っていた。
「花純……」
おれは、ふらりと立ち上がった。
花純に向かって、歩を進めた。
「え、なんでここにいるんですか? テレビの仕事はどうしたんですか?」
そう言って慌て始めた花純のちいさな身体を、おれは、ちからいっぱいに抱きしめた。
「よかった。おまえが無事でよかった」
そのまま、花純の耳元で、そう言った。
*****
「わたし、なんか間違えて、成田空港に行っちゃって」
荷物の中からマスクと伊達メガネを出して、おれにそっと手渡しながら、花純はそう言った。
「気付いた時には絶対に間に合わない時間になっちゃって。それで、せめてそのあとの便で、福岡くらいまで行けたらって思って」
「もういい」
おれは、それらを差し出した花純の手を握り、それから、もう一度、その身体を抱きしめた。
「おまえが生きていてくれたのなら、それでいい」
その時だった。
案内カウンターの中の受付が、マイクを使って、こう言った。
「ただいま、十八時十五分発の羽田発佐賀行き、457便の無事が確認されました! エンジントラブルが発生し、米軍横田基地に緊急着陸。乗客乗員に、怪我人はいない模様です!」
周りから、歓声と拍手が巻き起こった。
おれと花純は、お互いの顔を見つめあって、クスリと笑った。
そして、ちらりと腕時計に目をやって、花純の貌が青ざめた。
「伯爵、時間!」
そう言って、立ち上がった。
そうだ。
おれは、テレビの生放送をすっぽかして、ここまで来てしまった。
「とりあえず、テレビ局に!」
花純が、大きな声で、そう言った。




