第五十五夜 デジャヴ
わたしは様々な身支度を済ませて、玄関のドアを開けた。スーツケースの中には、実習で使うであろう様々な資料や道具たち。それと、簡単な着替え、お化粧。
しばらくは実家過ごすので、他に必要必須な物たちは、事前に宅急便で送ってある。あとは、簡単な荷物を持って行くだけでいい。
ガチャリと、扉に鍵を掛ける。
ふと、隣りの伯爵の部屋のドアに目を向けた。
今日は、確か、モンセクでのテレビの仕事が入っていたはずだ。十五時には楽屋入りだったので、もうとっくに、事務所は出ているはず。
わたしは、ひとつため息を吐くと、のろのろと、歩き出した。
十八時十五分、羽田発、佐賀行きの便に乗るためだ。
駅に着いて、電車をいくつか乗り換える。
スーツケースをごろごろと転がしながら、人混みをかき分けて歩く。
……また、頭の奥が、痛み始める。
激しい耳鳴りと、めまい。立っているのが辛いくらいの、足の震え。
自分がどこにいるのか、なにをしているのかさえも、よくわからなくなる不安感。
……わたし、どうしちゃったんだろう……
ふらつく身体になんとか活を入れて、わたしは歩いた。
そして、ちょうどホームに滑り込んで来た、空港行きの「スカイライナー」と電光掲示板に表示された青い電車に、乗り込んだ。
*****
その日は夕方から、初夏の音楽特番の仕事が入っていた。
十五時前後には楽屋に入り、人間から吸血鬼の姿に戻り、曲の担当者との打ち合わせを軽く済ませて、ついでのようにセッティングとリハを済ませ。
それから、また、楽屋に戻った。
打ち合わせやリハと言っても、どうせ、演奏するのはお決まりの【拷問室の哀歌】だ。
長年演奏してきて、いろんな箇所に多少のアレンジこそは加えているが、基本的には、なにも変わらない。
たまにお呼ばれしても、いつもと同じ事をするだけの、テレビの仕事。
プロだから、もちろん手を抜く事などなく、きっちりと仕事をする。……だが、やはり、心の奥底の「退屈さ」は、どうにも拭いきれない。
楽屋でコーヒーを飲んでいると、おれは、無性に煙草が吸いたくなった。
出番までには、まだ時間がある。
おれは立ち上がると、財布と煙草を手に取って、駐車場に向かって歩き出した。
廊下に出ると、なにやら、異様な空気が漂っていた。
何人ものスタッフがバタバタと駆け回り、たくさんの楽屋やスタジオを、忙しない様子で出たり入ったりしている。
……なんだ?
おれは、たまたま出てきた村岡ディレクターに声を掛ける。彼は、真っ青な貌をしていた。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「あ。大変だよ、伯爵」
村岡ディレクターは、額の汗を首掛けのタオルで拭いながら、そう言った。
「羽田発の飛行機が、エンジンの故障でヘタすりゃ墜落するかもって速報が来て。緊急ニュースを差し込まなきゃいけなくなって」
「羽田発……の……?」
おれは、目の前が真っ白になった。
嫌な記憶が、脳裏をよぎった。
「そうそう」
村岡ディレクターは、手元のコピー紙をめくって、話を続ける。
「十八時十五分発の、佐賀行きだってさ。詳細は不明なんだけどね、まだ」
十八時……十五分?
佐賀行き……?
その言葉が耳に入った次の瞬間には、おれは、その場を駆け出していた。
「あ、ちょっと! 伯爵!?」
後ろから、村岡ディレクターの声が追ってきた。
だが、そんなものに、構っていられるはずもなかった。
表に飛び出して、待機しているタクシーの扉を叩いた。運転手はおれの顔を見て、一瞬、ギョッとした貌を見せたが、それでも、後部ドアを開けてくれた。
おれはそこに飛び乗ると、まだなにも訊かれぬ前に、
「羽田まで。飛ばしてくれ!」
と、運転手の背中に向けて、言い放った。




