第五十三夜 耳鳴り
次の日。
小峯文香の家を出たわたしは、早い電車で新宿に戻って来た。
だけど、いざ、事務所の前まで来てみると、なんだか、中に入るのが……伯爵と顔を合わせることがためらわれて。周りをすこしウロウロして、それから、結局は入る勇気が出せなくて、その前を通り過ぎてしまった。
この時わたしは、初めて、ここに引っ越して来た事を後悔した。
どうすることも出来ないし、行くあてもないし。
困り果ててとぼとぼと歩いているところに、
「花純ちゃん?」
と、いきなり声を掛けられた。
振り向くと、そこには、買い物袋をいくつか抱えた、細身で長身の、男のひとが立っていた。
【TOYO】の、ママさんだった。
*****
「昨日は、どうしてたの?」
「え……いや。」
買ってきた様々な食材を冷蔵庫や冷凍庫、棚などにテキパキと振り分けながら、ママさんがわたしにそう訊ねた。
そそくさと逃げ出そうとしたわたしを「寄っていきなさい」と、ママさんが店内に導いて、それからなんとなく、ふたりは買い出し品の仕分け作業をしていたのだ。
「ちょっと、友達の家に」
わたしがそう答えると、
「氷瑞ちゃんと、なにかあった?」
と、いきなり訊かれた。
「え!?」
わたしは、お手伝いの手を思わず止めて、そう言った。
「あら、図星?」
「い、いえ。そんな事は」
冷静を装って、作業を進める。間違えて卵のパックを冷凍しそうになり、慌てて、冷蔵庫の方に移動させる。
「氷瑞ちゃんとは長いからね。彼、昨日は随分と様子が違ったわよ」
ママさんは、そう言って笑った。
「花純ちゃんは、氷瑞ちゃんをどう思ってるの?」
昨日の小峯文香に引き続いて、また訊かれた。
「えっ……と」
わたしは、うつむきながら答える。
「……好き……です。多分」
それを見て、ママさんはニコリと微笑んだ。
「氷瑞ちゃんもね、多分、あなたが好きよ」
そう言いながら、冷蔵庫の扉を閉めた。
「でもね。好きだからって、誰もがその思いを相手に伝えられるわけじゃないから。わたしたちみたいな歳になれば、なおさらね」
ママさんは、空になった買い物袋を、丁寧に畳みながら言葉を続ける。
「ただ、側にいられるだけでも幸せ。ずっと見てるだけでも幸せ。おとなは、そういう愛し方も出来るのよ。……狡いけどね」
わたしは、無言でママさんの言葉を聞いた。
「なにがあったかはわからないし、訊かないけれども。あなたはあなたが思うように、素直な気持ちで接してあげればいいんじゃない?」
その言葉に、わたしは、
「……はい」
とだけ、短く答えた。
と、ママさんが、手の平をパチンと打ち鳴らし「あら」と言いながら、立ち上がった。
「わたし、バジル買ってくるの忘れてるわ」
そう言いながら、傍らに置いてあった財布を掴むと、出入り口の方へ足を進めた。
「ごめんなさい、花純ちゃん。ちょっと、留守番しておいてくれる? すぐ戻るから」
わたしがコクリとうなずくと、ママさんはニコッと笑って、再び、買い物に出掛けてしまった。
店内に、ひとりきりになった。
わたしは、いつも自分が座る席の真っ正面の壁に飾ってある、ピンクのレコードジャケットを手に取った。少し短めの黒髪、黒目がちな大きな瞳、よく通った鼻筋に、ちいさな唇。……とっても可愛らしい女の子の写真だ。
ヒロイン誕生……
薗田……富希子……
裏側を見ると、八曲ほどの収録曲のタイトルが、並んでいた。そして、その中の一曲に、わたしの目が止まった。
ペパーミントの風……?
知らなかった。
わたしが好きで歌っていた、昔のアニメの主題歌。それは、この薗田富希子という人の歌だったのだ。
その時、レコードジャケットの中から、なにかがぱさりと床に滑り落ちた。
わたしが慌てて拾い上げたそれは、透明なクリアファイルに挟まれた、一枚の、古いメモ用紙だった。
そこには、ちいさく震えるような文字で、
「ひみずさん あいたいです
ひみずさん だいすきです
ひみずさん いきたいです」
と、書かれていた。
それを見た途端に、わたしは、なにやら妙なめまいを覚えた。
呼吸が苦しい。
背筋が凍る。
脚が震える。
わたしは、なんとか震える手でそのクリアファイルを元のようにレコードジャケットに仕舞うと、カウンターにすがりつくようにして、いつものハイスツールにたどり着いた。
頭が痛いのかと思ったが、そうではなかった。
耳鳴りだ。
ものすごい耳鳴りが、耳の、頭の奥の方で、ギシギシとなっている。
なに……これ……
わたしは、なんとか立ち上がって、ふらふらと、入り口のドアに近づいた。
ここに居てはいけないような気がした。
なにかが、わたしに。
わたしの足や、腰や、背中や、肩に。重くのしかかっているような気がした。縋りつかれているような気がした。
わたしは、逃げるように、這うようにして、お店のドアから抜け出した。




