第五十二夜 緊急避難
送ったLINEに既読が付いたかと思ったら、いきなり、通話の着信が来た。
わたしは、
「もしもし……」
と、それに応えた。
電話口から、
「もしもしー? どうしたのさ、初号機ちゃん」
と、いう、気が抜けるほど元気な声が聞こえて来た。
小峯文香の声だった。
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「こっちこっち」
大きな声で誘導されて、わたしは、岩槻駅のロータリーへ降りるエレベーターに乗った。その下では、アディダス製のジャージのセットアップを着込んだ、サンダル履きの、素っぴんの小峯文香が手を振っていた。
*****
「誰もいないから遠慮なくね」
そう言いながら、小峯文香は左手にビニール袋をぶら下げ、右手で玄関ドアの鍵穴に、持っていた鍵を挿し込んだ。
鈍い音がして、鍵が解かれた。
岩槻駅からバスで十分間ほどの、三回建ての団地。ここの二階の一室が、小峯文香の自宅だった。
狭い玄関で靴を脱ぎ、入ってすぐ右手にある襖を、小峯文香はすらっと開けた。
「ま、狭くてボロいけどゆっくりしてって」
そう言いながら彼女は、ビニール袋をガサゴソとして、今しがた買って来たものを並べ始めた。ペットボトル、ポテチ、チョコ、グミ、アイスクリーム。
その中のアイスは「溶けるから後で」と冷凍庫に仕舞われ、とりあえず、ふたりはペットボトルの蓋を、それぞれ開けた。
なにも言わずに、まずは、それをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
*****
「先生から抱きしめられたぁ?」
小峯文香が、素っ頓狂な声を上げた。
わたしが、黙ってうなずくと、
「で? それで初号機ちゃんはどうしたのさ」
と、訊かれた。
わたしは、
「突き飛ばして来た……」
と、正直に答えた。
そう。
いきなりの出来事にパニくって、わたしは伯爵を両手で力一杯に突き飛ばした。それから、走って逃げ出して来てしまったのだ。
「突き飛ばした?」
小峯文香が目を丸くして、それから、お腹を抱えて転がった。
「なにそれ、ウケる」
「笑いごとじゃないよ!」
わたしはムキになってそう言った。
小峯文香は起き上がり、
「ごめんごめん」
と、笑顔で言った。
「でさ、初号機ちゃんは、どう感じたわけ」
ポテチの袋をパーティー開けしながら、小峯文香が訊いて来た。
「どう……って」
「嫌だったのか、まんざらでもなかったのか」
「それは……」
答えに窮したわたしの前に、小峯文香が、ポテチの袋を差し出した。
「事は単純なんだよ。初号機ちゃんが心底イヤなんだったら、ワイセツされた! って警察にでも突き出しゃいいし」
「いや! そんな事は」
わたしは、思わず顔の前で両手を振った。
「じゃあ、嫌じゃないって事じゃん。そしたら受け入れればいいだけじゃん」
「いや……、でも……」
小峯文香は、パリパリとポテチを食べながら、言葉を続ける。
「初号機ちゃんは、先生の事をどう思ってるのさ」
「え?」
「好きなの? 嫌いなの? アリなの? ナシなの?」
「え……」
そ……それは……
わたしは、自分の心に訊いてみる。
伯爵の事が、好きか、嫌いか。
……答えが、出た。
「嫌い……じゃ、ないです。……ぶっちゃけ、好き……かも」
「なら、いいんじゃん」
極めて冷静に、小峯文香はそう言った。
「いや、だって。歳の差とかもあるし、そもそも雇い主とバイトだし、先生と生徒だし」
「あー、もう。めんどくさいなぁ」
小峯文香が、使ってない方の手でボリボリと頭を掻いた。
「好きか嫌いかだけでいいんだよ、そんなのはさ」
「そうかな……」
「そうだよ」
そうかな……そういうものなのだろうか。
わたしにはわからない。だって、まだ、恋愛とかお付き合いとかしたことないし。
「だいたい、どう見ても先生が、初号機ちゃんを大好きじゃん」
「は?」
予想外の言葉に、変なところから声が出た。
「好きだよ、あんなの。どう見ても。初号機ちゃんに向けるマナザシと、他の女に向ける視線、全然ちがうじゃん」
「そんな事ないよ」
「そんな事あるよ。鈍いな、初号機ちゃんは」
小峯文香はもう一度ボリボリと頭を掻くと、すっくと立ち上がって、伸びをした。
「心配して損したわ」
そう言いながら、押し入れの襖を開けた。
中には、畳まれた薄桃色の布団があった。
「とにかく。今日はもう寝て、明日事務所に帰って、先生と仲直りして来なよ。応援してるから」
そう言うと小峯文香は、さっさと寝床の準備に取り掛かった。わたしは慌てて、床の上のお菓子たちを片付けた。




