第四章 第五十一夜 抱擁
梅雨とは名ばかり、ずっと良いお天気が続いた、六月の頭。
わたしは、教員免許状を取得するために必要な、地元佐賀県伊万里市での【教育実習】を数日後に控えて、その準備にドタバタあたふたとしていた。
伯爵はあくまで「今後の人生を考えて、取れる資格はとっておけ」というスタンスのひとなので、浜屋先生とも電話で打ち合わせて、事務所の仕事が実習や講義と被らないように心掛けてくれる。なので、ここ最近はお仕事もレッスンも控えめで、わたしは、結構自由なスケジュールで日々を過ごしていた。
そんなある日。
時間にゆとりがあったので、わたしは歌の自主トレのために、伯爵の個人スタジオに入っていた。
SUMIKA時代の曲を歌ったり、モンセクの曲を歌ったり、往年の名曲を歌ったり……。いろんなことをやって、ひと息ついて。それからわたしは、ふと思い立って、あの曲を歌ってみた。
数年前の夏休み。
結衣と一緒にカラオケに行って、戯れに歌ったあの歌。お母さんが好きで、よく車で流していた、昔のアニメの主題歌。わたしが歌のお仕事を始めるきっかけになった、あの曲。
「ペパーミントの風」
かわいいイントロをしっかりと聴いて、それから、歌い始めた。
耳に馴染んだ、大好きな、心が落ち着くメロディー。伯爵にいろいろ習って、前よりもさらに表現力が増した(ような気がする)いまのわたしの力で、丁寧に、優しく歌い上げた。
その最中に、伯爵が調整室に入って来た。
わたしは、目線で軽く挨拶をして、最後までしっかり歌い上げた。
伯爵はその場で立ち止まって、黙ってわたしの歌を聴いていた。
歌い終わった。
「お疲れ様でーす」
と、言いながら、わたしはスタジオブースから調整室へと移動した。
そのわたしの身体が、いきなり、伯爵のおおきな身体に抱きすくめられた。
*****
マネージャーとの、モンセクの夏の東名阪サバトツアーの簡単な打ち合わせを終えて、おれは、自前のスタジオに移動した。
確か今日は、花純が自主トレをすると言っていた。
ここ最近はお互いがなんだかドタバタしていて、なかなか、あいつの歌を見てやる時間が取れなかった。おれに少しでも教えてやれるタイミングがあるのなら、その機会を作ってやりたかった。
花純の歌は、凄い。
いまはまだ荒削りだし、自己流で歌っている部分が多い。だけど、しっかりと系統立てた音楽の勉強を修めれば、今どころではない、本物になれる才能がある。化けることが出来る。
おれはそう感じて、かつてないほどの熱心な指導、教育を、中里花純に課していた。
おれの過去を知っている人間に、最近、言われる事がある。
【中里花純に、薗田富希子の影を見ているのではないか?】
そんなことがあるわけがない。
あれはもう遠い昔の話だし、今更どうしようもない事だ。
申し訳ないとは思うし、おれが日野真琴とああいう選択をしなければ、あるいは違う未来が待っていたのかもしれない。だが、そんなものは、あくまで戯言だ。
いまのこの世界だけが、現実なのだ。
おれは、しても仕方がない自問自答を頭の中で繰り返しながら、スタジオの扉を開けた。
調整室の中に、聞き覚えのある歌が流れていた。
薗田富希子の歌だった。
おれは、思わず立ち止まった。
ブースの中では、ヘッドホンを着けた薗田富希子が、あの日のように、楽しそうに歌っていた。
薗田富希子が、ガラス越しにおれに笑いかけた。
心臓が、ドクドクと激しく脈打った。
足がすくんだ。
目が、離せなくなった。
ふたりだけのスタジオの中に、彼女の歌声が響いた。
やがて、歌い終えた薗田富希子が、調整室に入って来た。
「お疲れ様です」
と、おれに微笑みかけた。
あの時の、信濃町のスタジオで会った時と同じ、いつもの笑顔だった。
おれの中で、なにかが弾けた。
おれは、薗田富希子の華奢な身体を、力一杯に抱きしめた。




