第五十夜 共犯者
淡いクリーム色の、鈍く輝く廊下をどんどん進む。そして、突き当たりのドアをくぐって、左の方へ。
さっきの若い看護師に習ったとおりにおれは歩き、やがて、目的の場所へ辿り着いた。
二人部屋らしいが、名札はひとつしか掛かっていない。もうひとつのスペースは、空いているようだった。
みっつ、ノックをする。
「どうぞ」
か細い声がそう返事をした。おれは、ドアノブを掴むと、ゆっくりとそれを押し開けた。
窓のおおきな、明るい部屋だった。
開け放たれたそこから、優しい風が流れ込んでいた。よく洗濯がされた真っ白なカーテンを、柔らかい風が揺らしていた。
ベッドのうえに、痩せた女が上半身を起こして座っている。
白髪混じりの髪、ちいさな肩。
ずいぶんと変わってしまったが、その華奢な身体のラインは、あまり変わっていないような気がした。
日野真琴だ。
「氷瑞君……」
日野真琴が、目を細めて笑った。
「ご無沙汰してます」
おれは、そう言いながら頭を下げた。
*****
「何十年経つのかしらね、いったい」
日野真琴が、呟くようにそう言った。
「数えたくもないですね」
おれは、丸椅子に掛けながらちいさく笑ってそう答える。
「あら。吸血鬼も年齢を気にするの?」
日野真琴は、昔と同じようにおれのセリフを混ぜっ返した。変わっていない。なにも。
「どうですか、調子は」
「ぜんぜんダメね」
おれの問いに、彼女は笑って答えた。
「癌よ。末期のね」
そう言うと、傍らの机の上から、飲みかけらしいペットボトルを手に取った。
「もう、転移に転移を重ねちゃって。自分がなに癌だったのかも忘れちゃった」
中身を、ひとくち飲んだ。
「ご家族は?」
おれが訊くと、
「旦那と、娘がふたり。もうとっくに結婚して、どっちも遠くに行っちゃったわ。孫も三人いるのよ」
日野真琴は、笑いながら答えた。
「氷瑞君は、まだひとりなの?」
その問いに、おれは、無言でうなづき、応える。
「……いまでも、富希子のことを考えてるの?」
彼女の言葉に、おれは、ちいさく首を横に振った。
「そんなんじゃないですよ」
「……わたしはね、考えてる」
日野真琴は、視線をゆっくりと宙に向けて、そう言った。
「考えてるっていうか、忘れられない」
なにもない、その宙の一点を見つめるようにして、彼女は続ける。
「姉のように慕って、信頼してくれてたのに。裏切って、好きなひとを奪っちゃった」
おれは、なにも言えずに黙り込む。
「夢にね、出てくるの」
「夢に?」
おれは、思わずそう訊いた。
「もうずっとよ。あれからずっと」
日野真琴は、宙を眺めながら言う。
「いつも、悲しそうな貌で、座ってるの。富希子が」
不意に、彼女はおれの顔を見た。
「だけど、最近、笑ってくれるの」
日野真琴は、微笑んだ。
「去年くらいからかな。夢の中の富希子が、笑ってくれるようになった」
おれは、黙ってその話を聞いた。
「それでわたし、なんだか勝手に許してもらえたような気分になって。そしたら、なんだか無性に君に会いたくなって」
その時、不意に出入り口のドアが三度ノックされた。
「どうぞ」
日野真琴が、声を掛けた。
「……失礼します」
そう言いながらドアを開けて病室に入ってきたのは、中里花純だった。
「あ、よかった。合ってた」
おれの顔を見て、ホッとした貌を中里花純は見せた。
「どうしてここに」
おれは、思わずそう訊いた。
「いや。伯爵、スマホ忘れてて」
中里花純が、慌てた様子でそう言った。
「届けなきゃと思って、看護師さんとかその辺のひとに訊きまくって……」
「あなたは?」
日野真琴が、柔らかい口調でそう訊いた。
「あ。すみません、勝手にお邪魔して。伯しゃ……じゃなくって、社長の氷瑞の下でいろいろ勉強させてもらってます。中里花純と申します」
中里花純が、腰を曲げて深々と頭を下げた。
「ちょっと、ここに来てもらえる?」
日野真琴が、中里花純にそう言った。
「あ、はい」
中里花純は一瞬おれの顔を見て、それから、日野真琴のベッドのそばに立った。
その手を、日野真琴がゆっくりと両手で握った。
ずいぶん痩せて、骨張った手になっていた。
「なんだか、富希子が笑ってくれるようになった理由がわかった気がする」
中里花純の手を握ったまま、日野真琴は、うっとりとそう言った。その目に、薄く涙が浮かんでいた。
意味がわからず戸惑いの貌を見せた中里花純に、
「こっちの話」
と、ちいさく言って、日野真琴は手を離した。
「あなたも、歌手なの?」
そう訊いた。
「はい」
中里花純が、ちいさく、しかし、はっきりと答えた。
それを聞いて、日野真琴はまた微笑んだ。
「頑張って。きっと大丈夫、あなたなら」
「あ、ありがとうございます」
中里花純が、また、頭を下げた。
「氷瑞君」
日野真琴が、おれに話しかけた。
「はい……」
おれは、答えた。
「幸せになって。富希子も、そう願ってる」
そう言って、日野真琴は笑った。
開け放たれた窓から、また、優しい風が入ってきて、真っ白なカーテンを、ゆっくりと揺らした。
*****
「あのひと、お友達ですか?」
車を出しながら、中里花純はおれにそう訊ねた。おれは、窓の外を眺めたまま、
「……共犯者だ」
と、短く答えた。
*****
それから三日後に、日野真琴は、旅立った。




