第四十八夜 和解酒
TOYOの店内に、ほどよく音量を抑えられたピアノソナタが、ゆったりと流れている。
おれはその澄んだ音色に耳を傾けながら、ゆっくりとしたペースで、酒を飲んでいた。
ジャックダニエルのロック。いつもの酒だ。
その時、入り口のベルが、がらんごろんと来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
ママがそう声を掛けた。
「……お待たせしたかな」
店に入って来た男は、おれの背中に向かって、後ろからそう訊いて来た。
「いえ」
おれはそちらを見ずに、短く答えた。
「どうぞ。……富希子ちゃんが、いつも座ってたお席です」
ママが、おれの隣りの席に着くよう、男に促した。
「……そうか。ここに、か」
男はそう言うと、妙に慎重にハイスツールに腰を下ろした。
「なにになさいますか」
ママが訊いた。
「そうだな」
男は、ちらりとおれの手元を見た。
「氷瑞君と、同じものを」
そう答えた。
男の前に、グラスがスッと差し出された。
「……乾杯をするような仲でもないが、今日は、させてもらえんかね」
男が、おれを見ずにそう言った。
「なんにですか?」
おれが訊くと、
「そうだな」
男は、おしぼりで手を拭きながら、視線を宙に彷徨わせた。
「薗田富希子に因縁があるもの同士の、再会を祝して……では、どうかね」
そう言いながら、男は、こちらにグラスを差し出した。
おれはちいさく、
「乾杯」
と、言い、男の……淵本社長の差し出したグラスに、自分のグラスを軽く当てた。
*****
「今でもね、あの時の事は憶えているよ」
淵本社長は、目を細めながらそう言った。視線の先には、カウンターからよく見える位置に長いこと飾ってある、薗田富希子のレコードジャケットがあった。
「富希子を初めて見たのは、まだあの子が、中学生の頃だった」
ひとくち、酒を飲んだ。
「ムーン主催の全国スカウトキャラバン、大阪予選だ。一目でわかった。ダイヤの原石だってね」
聞きながら、おれも、ひとくち飲んだ。
「だが、ご両親が芸能界入りには大反対でな。わたしは、何度も何度も説得に行った。菓子折り持って、果物持ってな」
笑いながら、お土産をぶら下げるような仕草を、淵本社長はして見せた。
「そうして、一年で芽が出なければ、実家に戻るという条件付きで、なんとか説き伏せて、東京に連れて来たんだ」
ふたりのグラスが、いつの間にか空になっていた。
ふたりで、おかわりを頼んだ。
「すごかったな、富希子は」
差し出されたグラスを、カウンター上で両手で包み込むようにして、淵本社長は呟いた。
「いろんなタレントを見てきたが、あんなのは、もう現れないな。本当に、すごかった。華があった。天性のね」
おれは、無言でうなずいた。
たしかに、彼女には、他のアイドルとは違うなにかがあった。社長が「天性の」というのも、理解できた。
おれは、酒の力を借りて、遠い記憶を手繰り寄せる。
「富希子を死なせたのは、わたしだよ」
不意に放たれた言葉に、おれはぎょっとして、淵本社長の横顔を見た。
「わたしが、あの日に無理矢理に大阪に帰したんだ。満席だったってのに、わざわざキャンセル待ちまでさせて。そしたら、あのザマだよ」
淵本社長は、苦いものを噛み締めるような貌で、そう言った。
「ずっとね、今でもずっと悔やんでいるよ。そりゃ、君のことだって憎んだし、日野のことも憎んだよ。しかしな、殺したのはわたしだ」
おれは、なにも言えずに、ひとくち酒を含んだ。
「独立して、今の会社を立ち上げて。それでも、いまでも。どこかで富希子の残したかけらと言うか、影と言うか……。そんなものを、どこかで探している自分に気付くよ」
淵本社長の握るグラスの中で、氷がカランとちいさく音を立てた。
「中里花純。彼女だってそうだ」
「花純が……ですか?」
不意に出された花純の名前に、おれは思わずそう訊いた。
「富希子の歌を動画投稿して、それが、話題になったんだよ。もっとも、本人は薗田富希子ってのが誰かなんて、知らないみたいだけどな」
「……知りませんでした」
おれは、素直にそう答えた。
花純が、富希子の歌を……
「そう。もう、若い人間は、富希子のことなど知らないんだよ。顔も、名前も。まだ引きずってるのは、我々だけさ」
そこまで言うと淵本社長は、グラスに残った酒を、ひと息に飲み干した。
「今日は、喋りすぎたな」
ゆらりと立ち上がり、淵本社長は、カウンターに一万円札を一枚置いた。お釣りを出そうとしたママを「いらない」と、手で制した。
「あ、そうだ。……長話ついでに、もうひとつ」
スツールから降りて、こちらを見ずに、こう言った。
「日野真琴が、君に会いたがっている。……どうかね、会ってやってくれんかね」




