第四十四夜
次の日。
一旦お家に戻った小峯文香は、数日分の着替えやら、化粧品やら、ヘアアイロンやらがぎっしり詰められたスーツケースとバックパックを持って、なんだか妙に元気よく、事務所に現れた。
「しばらくお世話になりまーす!」
と、伯爵に頭を下げて、それから、わたしを急き立てる様にして、部屋に向かった。
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「おー! すごいじゃん!」
部屋の中を一目見るなり、小峯文香はそう歓声を上げた。そして、わたしからまだなにも言われぬうちから、二段ベッドの上段にあっという間に上がり込み「わたしがこっち!」とたから宣言した。
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レコーディングは、昨日よりは随分と良い感じだった。
昨日今日と、わたしが譜面を読み解きながら説明してあげた内容を、今日の小峯文香は、頑張って、かなりいいところまで理解していた。
一旦の休憩になり、彼女は録音ブースから出てきた。伯爵は、彼女に特に声を掛けなかった。その代わりに、わたしの顔を見て、ちいさく目配せをして見せた。
それを見たわたしは、小峯文香にペットボトルを渡しながら、
「お疲れ様。だいぶん良くなってた」
と、努めて明るく言葉を掛けた。
「そうでしょ?」
小峯文香はそう言って笑顔を返してきた。
「初号機ちゃんの言う通りに歌ったもん」
いたずらっ子みたいに、ニカっと笑った。……かわいい。さすがは元アイドル。
「うん、よかった。……あとは、サビ前の休符のところかな。あそこはしっかり切って、間をつくらなきゃだね」
「オッケー。わかった」
わたしの助言を素直に聞きながら、小峯文香は、手元の楽譜にシャーペンでせっせとメモを取った。
そう。今日は、昨日と違って、ずいぶんと穏やかにレコーディングが進んでいたのだ。
この後の、
「……じゃあ、小峯が休憩してる間に、コーラスを録っちまおうか。花純、ブースに入って」
という、伯爵の、あのセリフさえなかったら。
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今日の分の作業が終わった。
わたしが、
「よかったんですか?」
と、訊くと、
「なにが」
と、伯爵は言った。
「いや。わたしまで歌っちゃって。契約だと、一年は……」
「大丈夫だろ、こんくらい」
なんか、いろいろややこしい事にならないのかな……と、心配してしまったのだが、当の伯爵は平然とした顔で、こう言った。
「多少は、あのおっさんにも厭がらせをしといてやらんと気が済まん」
で、その後に「みんなで食事にでも」と、なったのだけれども。小峯文香はむっすりとした貌で、
「部屋で休みます」
と、言い残し、自分だけ、さっさと上階へ戻ってしまった。
仕方なく、わたしたちは彼女を置いて、外で食事を済ませてきた。
部屋に戻ると、そこはもう暗かった。オレンジ色の常夜灯が、薄ぼんやりとした明かりで、室内中心部だけを照らしている
寝ているのか、寝たふりなのか。小峯文香は、ベッドの上段で頭まで布団を被り、壁側を向いて横になっていた。
わたしはなるべく音を立てないようにして、お風呂に入り、歯を磨き、少々のお肌のケアをして、それから、ベッド下段の布団に入った。
壁に掛かった時計。
その秒針が刻む規則的な音だけが、妙におおきく、部屋の中に響いている。
「いいよね、なんでも出来る子は」
いきなり、上からそう言われた。
「へ?」
わたしは完全に不意を突かれて、随分と間の抜けた返事をした。
「やっぱり、なんでも出来る子なんだよ。初号機ちゃんは。わたしたちとは、全然ちがう」
小峯文香は、重い怒気を孕んだ口調で、そう言った。




