第四十三夜 勉強会
「あー! もう、全然わかんない!」
小峯文香は、メモを取るのに握っていたシャーペンを机の上に投げ出すと、おおげさに両手で天を仰いで、そうわめいた。
机の上には、プリントされた「キスと彗星」の楽譜。それと、わたしが前に使った「やさしいおんがく」という、音楽基礎書籍が広げてある。
それらを交互に読みながら、わたしはできる範囲で楽譜の読み方を小峰文香に教えていた。
「最初は複雑だけど、コツさえわかれば、流れで理解できるようになるから」
わたしがそう言うと、
「……初号機ちゃんは、大学生なんでしょ?」
と、小峯文香は、なにやら恨めしそうな目でわたしを見た。わたしは、黙ってうなずいて、その問いに答える。
「アタマいいんじゃん。わたし中卒だもん、わかんないよ、こんなの」
「別に、アタマ良くないよ」
わたしがそう答えると、小峯文香は真面目な顔で、
「そういう謙遜、マジで他人を傷つけるから、やめた方がいいよ」
と、言った。
「……ごめん」
よくわからないけど、なぜか、わたしは謝った。
「くっそ……。悔しいなぁ」
小峯文香は、机に突っ伏して、呟いた。
「ずっとアイドルになりたくて、頑張ってきた。ダンススクールに通って、ヒトカラ行って、オーディション受けまくって。そんで、やっと受かったアイドルグループに、頑張って潜り込んだんだよ、わたし」
のっそりと上半身を起こして、彼女は、手元のペットボトルのお水を飲んだ。
「……でも、ダメだった。全然売れないし、目立てなかった」
ペットボトルから口を離し、彼女は続けた。
「売れてないってことはないんじゃ……」
と、わたしは言った。
だって、確かこの子たちのグループは、テレビにだってちょくちょく出るしラジオも出るし。あと、いつでもちょっとしたホールくらいの会場はきっちりと埋まるくらいの、集客力があったはず。
「初号機ちゃんみたいな、みんなが知ってる曲がない」
小峯文香は、真っ直ぐにわたしの目を見た。
「CDだって、オマケと握手券が付いてるから枚数だけはいくけど、結局は、誰もウチらの曲なんて知らないんだよ。固定客以外は」
彼女は、またひとくちお水を飲んで、言葉を続ける。
「これ、結構ガチのチャンスなんだよ。初号機ちゃんが一曲はブチあげてくれてるから、やり方次第では、這い上がれる。わたし、そこに賭けてるんだ。だから、センターも張ったグループを、脱退したんだ」
彼女の目に、めらめら燃える確固たる決意の炎が見えたような、そんな気がした。
……ところが。
「だけど、やっぱりどこに行ってもお勉強させられるんだなぁ……」
と、小峯文香は、また、力なく机上に崩れ落ちた。さっきの炎は、あっという間にちいさな種火になった。
「……ね。初号機ちゃんは、いつ頃に再デビューするの?」
いきなり、わたしに話が振られてきた。
「いや、まだなんにも決まってないですけど……」
今度は、わたしがうつむいて、そう答える。
「じゃあ、ずっと目標もなしにレッスンだけ受けてるの? それってきつくない?」
小峯文香は、ズバッと痛いところを突いてきた。……デリカシーとかなかとか(ないのか)、この子は。
「まぁ、お給料もらいながら勉強させてもらってると思えば、別に……」
わたしはそう答えて、手元のコーヒーカップを持ち上げた。ぬるいコーヒーを、ずずっと啜る。
「初号機ちゃんって、どっから来てるの? 渋谷だったっけ?」
話がコロコロ変わるな、この子。
「いや、アレは宣伝用の嘘で。本当は九州から出てきてて……」
「九州!」
小峯文香は、大袈裟に驚いて見せた。
「で、いまはどこ住み?」
「え……。ここに」
わたしは、人差し指で床を指しながら、そう答えた。
「ここ?」
「ここ……」
それを聞いて、小峯文香はわたしの方にズイっと身を乗り出した。
「……初号機ちゃんって、先生の愛人かなんか?」
「違います」
小声でそう訊かれて、わたしは、思いっきりの真顔で、冷たく答えた。
「引っ越さなきゃいけない事情があって、ちょうど、ここに空き部屋があったから……」
小峯文香は「へぇ〜……」と唸りながら、両掌を組んで、大きく伸びをした。
そして、いきなり、
「ね、じゃあさ。わたしを、初号機ちゃんの部屋に泊めてくれない?」
思いもよらない事を、小峯文香は言い出した。
「へ?」
「実家からだから、移動だけで疲れるんだよ、わたし。埼京線、いつも激混みだし」
いや、そんな事を急に言われても……
「ね、お願い! そしたら、勉強も遅くまで出来るじゃん! お願い、初号機ちゃん! ね!?」
小峯文香は、両掌を眼前で擦り合わせて、いかにも元アイドルらしい、媚びるような視線を、可愛らしくわたしに向けた。




