第四十二夜 再教育
露骨なまでの不機嫌さを自分の周囲にばら撒きながら、小峯文香は、のっそりと録音ブースから戻ってきた。
その理由は一目瞭然、伯爵のスパルタ指導だ。
歌入れ初っ端から、伯爵は一切の妥協なし。小峯文香の歌に、訂正、修正、やり直しを要求し続けた。
みるみるうちに小峯文香の顔色が変わっていき、それに合わせて、歌声もどんどん荒れて行った。
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「なにが気に入らないんですか?」
調整室に戻って来るなり、彼女は伯爵に食ってかかった。
「自分で言うのもなんですけど、わたし、結構うまく歌えてたつもりなんですけど?」
小峯文香が、捲まくし立てるようにして、そう言った。
「クセで歌いすぎる」
伯爵は、ポケットから取り出した煙草を咥え、きっぱりとそう言った。
「勝手な解釈で歌いすぎ。作曲者が、どういう意図を持ってそのメロディを描いたのかを、君は、まったく考えていないな」
「そんなのわかるわけないじゃん」
小峯文香はそう言い返した。
「わかるさ」
伯爵は、煙草の煙を宙に吐いて、そう言った。
「それが楽譜なんだよ。並べてある音符と記号、これすべて、作曲者の意図があって配列されているんだ。それを歌い手のクセだけでポンポン勝手に変えられたなら、もう、作曲家のその意図は、まったく聴き手に通じなくなっちまう」
「だ・か・ら!」
小峯文香は、地団駄を踏むようにして反論する。
「楽譜なんか、読めないって言ってるじゃん!」
「なら、勉強すればいい」
ぴしゃりと、伯爵は言い放った。
「楽譜なんか読めなくても、歌が上手いひとはいっぱいいるでしょ」
意地になって、小峯文香は言い返す。
「いっぱいいるよ」
伯爵は、まったく動じずに答えた。
「でも、読めないよりは読める方がいいのくらいは、わかるだろ?」
このひと言で、彼女はついに黙り込んだ。
「できないからやれないと、できるけどやらないは、結果が同じでも、中身は全然違うんだ。そうだろ?」
小峯文香は、無言のままで俯いていた。握りしめたそのちいさな拳が、ふるふると震えていた。
「とにかく、うちで預かる以上はおれのやり方に従ってもらう。……花純」
不意に、わたしの名前が呼ばれた。
「あ、はい!」
「お前が、こいつに基礎から教えてやるんだ」
……は?
予想もしなかった命令が、わたしに向かって下された。
「え? わたしがですか?」
「そうだ」
そんな、急に言われても……
そう考えながら、わたしは、小峯文香の顔を盗み見た。
彼女は、泣いていた。
そのおおきな瞳に、いっぱいの涙を溜めていた。
「……わかりました」
わたしは、観念してそう答えた。それから、小峯文香に向かって、
「よろしくお願いします」
と、ゆっくり言った。
「……よろしく」
小峯文香は、最初とはうってかわって、とてもちいさな、いまにも消えいるような震える声で、そう応えた。




