第四十夜 a new days
事務所から持ってきた鍵をドアに挿し、ガチャリと右に回した。
ちょっとだけ金属の擦れる独特な音が鳴って、だけど、問題なくドアが開く。
目の前に現れたのは、ほぼほぼがらんどうな空間だった。
家具の類いといえば、端の方に頑丈そうな二段ベッド。あとは、畳まれたちいさなちゃぶ台があるばかり。
……広くはない。
わたしが住んでたアパートが六畳の1Kだから……どうだろう、八畳くらいのものなのだろうか。
ごく短い廊下には、ちいさな台所と、向かいに扉がふたつ。
開けてみると、ひとつはトイレ、もうひとつがお風呂だった。今までのアパートはふたつが一緒になってるタイプだったから、ここは、素直に嬉しい。わたしは、まだお湯を張ってない浴槽に試しに座り込んで、その、今夜来る「ゆったりお風呂タイム」に、瞳を閉じて思いを馳せた。
「なにしてんの……?」
突然、頭上から声が降ってきて、わたしは「ぎゃっ!」と声をあげた。さらに、立ち上がる時に壁際のシャワーヘッドで頭を打った。
「へんな事してんな、おまえ」
声の主が笑った。伯爵だった。
「い、いや。久しぶりにお風呂にゆっくり浸かれると思ったら嬉しくて」
わたしは、頭を摩りながらそう言って俯いた。……うぅ……ハズい。
「どうだ。とりあえずは生活出来るだろ」
伯爵はそう言いながら、スタスタと窓の方に歩を進めた。
紺色の厚手のカーテンが、静かに開けられた。その途端、眩しい光が、部屋の中に注ぎ込まれた。わたしは、それを身体いっぱいに浴びながら、伯爵の隣に立った。
たくさんのビルやマンションが立ち並ぶ、ちょっとくすんだ感じのする、灰色の景色。それでも、その雑多な雰囲気がどこか心地い良いような、なんだか不思議な風景だった。
この景色を見て、このひとは生活してるんだ。
わたしは、隣の伯爵の顔をそっと見上げた。
伯爵はその視線に気付いて、わたしの顔を見た。わたしはなんだか急に照れ臭くなって、あわてて目線を下に逸らした。
「……さぁ。今日中に済ませるぞ、引っ越し」
伯爵はそう言うと、わたしの頭をポンと優しく触れた。
*****
他の事務所のスタッフさんにもお手伝いしてもらって、わたしのお引越し作業は、なんとか一日で無事に終わった。
もともとそんなに物はなかったし、唯一の重たい家具だった冷蔵庫も、見た目の割には力持ちなテラちゃんさんが、ほぼひとりでスイスイと運んでくれた。最初はちょっとビビったけど、イカついタトゥーが入った細くて筋肉質の腕が、実に頼もしかった。
引っ越し作業が終わると、みんなが事務所で「お疲れ様会兼引っ越し祝いパーティー」を開いてくれた。
わたしは、久しぶりに飲んだお酒でちょっとテンションあがって、スタッフさんや伯爵と、結構遅くまでいろいろ話し込んだ。結局、せっかくのお風呂にも浸からず、に眠ってしまった。
気付いたら、部屋のなかが薄明かりで照らされていた。窓から射す、朝の光。
そうか。わたし、カーテンも閉めずに寝ちゃったのか。
冷蔵庫から、お水の入ったペットボトルを一本抜き取った。それから、窓を開けてベランダに出てみた。
雀やカラスの鳴き声、車のエンジン、クラクション。風の音、雨降り前の、大気の香り。
わたしはそれらさまざまな音や匂いを胸いっぱいに吸い込んで、それからゆっくりと背伸びをした。
「起きたか」
いきなり、横から声を掛けられた。
びっくりして横を見ると、そこには伯爵がいた。隣との境い目、衝立の向こう側で、のんびりと煙草を燻らせている。
「お、おはようございます」
わたしが慌ててそう言うと、
「まずは顔を洗って、そのボサボサの髪を直してこい。すぐ近くにモーニングがうまい喫茶店がある。行くぞ」
と、伯爵は八重歯を見せて、微笑んだ。




