第三十九夜 move
「なんなん花純、えらい暗い顔してさ」
そう言うと、結衣は、わたしの顔を横からついっと覗き込んだ。
一夜明け、わたしはキャンパスの雑踏を、結衣と一緒にのろのろと歩いていた。
昨日の張り紙を見てからというもの、気分も足取りもすっごく重い。
「実は……」
わたしは、ため息混じりの愚痴混じりで、結衣にボヤいた。
「……わたし、来月までに引っ越さなきゃだめになった」
と、マンションの掲示板に貼られた「お知らせ」の内容を説明する。
「は? なんで」
結衣は、目を丸くして訊いてきた。
「"老朽化による取り壊し"だってさ。なんか、新しく立派なマンションに建て替わるんだと」
「マジ」
「マジ。"建て替わったあとは、現住民を優先的に入居できるようにする"とか書いてあったけど、そんなのずいぶん先の話だし。そもそも、新築マンションなんか借りられるお金ないし」
そこまで説明して、わたしはまたため息をついた。
「どうすんの、花純」
結衣の問い掛けに、ちらっと横目で顔を覗く。
「結衣ん家にしばらく居候……なんて」
「無理。彼氏くるもん」
ぴしゃりと断られた。
「だよねぇ」
わたしは、本日もう何度めかもわからなくなった深いため息をまたついた。
「マジで、どうしよう……」
*****
「ウチに来ればいい」
お稽古が終わったあと、スタジオの椅子に座って愚痴ったわたしに、伯爵はコーヒーカップを傾けながら、なんとも事もなげな調子でそう言った。
「は?」
ウチ……?
伯爵の……家に来いと?
いやいや、わたし嫁入り前の娘ですよ? 男のひとと一緒になんか、住めないですよ。ダメですダメ駄目。
「おれの横、一部屋空いてるだろ」
あ。隣り?
そういえば、事務所が入っているフロア。一軒分、未使用空き家っぽい部屋が確かにあった。
「あれ、一応合宿スペースだから。とりあえず、使ってもいいぞ」
なるほど。
たしかにここなら学校にも割と近いし、バイトが終わってそのまま眠れるのは、正直かなり魅力的だ。
「……ほんとうにいいんですか?」
わたしは、こわごわと伯爵に訊ねた。
「いいよ」
伯爵は、なんとも軽い口調で、そう答えた。
……よし、決めた。
せっかくだし、ここはお言葉に甘えちゃおう。そうして、暇を見て新しい部屋を探せばいいし。
「あ、ありがとうございます! お世話になります!」
わたしは、あらためて頭を下げた。
その様を見た伯爵は、ニヤリとちいさく笑って、
「家賃は、給料からしっかり引いておいてやるよ」
と、そう言った。




